習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『セデック・バレ 虹の橋』

2012-03-18 19:54:10 | 映画
 期待の超大作、第2部。今回はABCホールだった。少し広いのに、300席程ある客席は満杯だった。噂によると、シネヌーヴォーで僕が見た上映では100人ほどの人が入れずに帰ったらしい。100席ほどの劇場で、100人があぶれたなんて、とんでもない話だ。先日でまいったから、今回は整理券配布の30分前に劇場に行き並んだので13番で入れた。当日の配布は50枚ほど。7時からの上映なのに、朝の9時半から並ぶ、だなんて僕に言わせれば狂気の沙汰だ。僕は、わざわざ並んでまで、映画や芝居を見たいとは思わない。それなら、台湾まで見に行く。だから今回は特例である。(というか、最初から指定券を買えばよかったのだが。)

 1部を見た時の、感想は先に書いたとおりだ。そこで僕が望んだことは、この第2部では残念ながら描かれなかった。それも仕方ない話だ。だが、2時間以上のエピローグって、ないんじゃないか。話は、ほほすべてがあの第1部だけで終わっていたのだ。そのことを確認するためだけの第2部だった。

 日本軍による反乱軍鎮圧という図式は最初からわかっていた話だ。だが、それをどういう形で見せていくのか。そのことによって、監督はこの作品のテーマである「台湾人であること」の意味をどう捉えるのか。それを描いてもらいたかった。

 セデック族に台湾人のアイデンティティーを重ね合わせることは出来ないはずだ。単なる悲劇で終わらせるのでは無意味だ。大体この対決から、締め出された漢人の存在こそが、本来、最も重要な要素になるのではないのか。なのに、この映画の漢人は蚊帳の外である。安藤政信演じる巡査の存在も、もっとこの第2部でクローズアップされるべきではなかったのか。不満ばかりが募る。見ていて、だんだん不愉快になってきたほどだ。もちろん映画はすさまじい迫力でセデック族と日本軍による戦いが描かれていく。300人が、何万(は大袈裟か)にも及ぶ軍隊を蹴散らすという図式はちょっとした快感かもしれない。でも、そんなのは、ハリウッド映画にでも任せておけばいい。

 そうではなく、自決していく彼らの姿こそ、がテーマである。勇敢に戦い、死んでいくことは、大事なことではない。圧倒的な軍備の前で、虫けらのように殺される姿のほうが、映画の核心に近いと僕は思うのだが、違うか? 史実をそのまま描くことが身上である。それはわかる。だが、それなら今この映画を作る意味がない。ここには2011年でなくてはならないものがきちっと刻み込まれてある必要があったはずなのだ。

 反日感情がテーマではないことなんか、最初からわかっているのだが、拭い難い日本人との距離感を、反乱に参加しなかった族長と、その区域の巡査である安藤との友情から描くべきだった。そこにはもっとも大事な関係性が描かれたはずだ。いろんな意味で、大事な部分で杜撰な映画である。力作であるだけにとても悔しい出来だ。


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2 コメント

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Unknown (モヤ)
2012-03-19 19:53:04
すみません、私は台湾からの留学生です。
偶然このサイトを見つけて読んでしまった。
日本語が下手なので、話したいことがちゃんと表現できなくて、とても悔しいです。
だが、頑張って伝てみたいと思います。

貴方の視点はちょっと狭すぎると思います、
貴方たぶん安藤のフアンで、だから”友情”という心を揺さぶりのスジを求めるかな・・・最初から先入観を持って、監督伝えたいのことが理解できないと思います。
そしてこの映画は、ほぼ事実に基づいて作り上げた作品です。決して杜撰の物語ではありません。
(もっと歴史を勉強してください)
もう一度心を込めて、日本人の考え方や貴方の先入観を先において、見てみれば違う感想が出てくると思います。
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Unknown (みぃ)
2013-05-08 22:11:31
台湾の方も指摘されていますが、その見方はちょっと視野が狭いように思えました。
確かに原住民視点から「台湾人であることの意味」は私も見てみたいと思います。しかし、この当時彼らに「台湾人」としての意識(あるいはその片鱗でも)をもっていたのでしょうか。漢人と「蕃人」の違いは自明だったのでしょうが、それらを含めた政治的な「台湾人」意識が芽生えたのは少なくとも戦後です。
植民地、近代、文明、現代を語る上で常用なこれらのキーワードが土台となっている作品は、「単なる悲劇」として片付けられるのでしょうか。様々な被支配の歴史を経た台湾。そのなかでもとりわけマイノリティであった原住民。もちろん彼ら(原住民の1つであるセデック族)だけで「台湾」は語り得ません。しかし、彼らが体験した「台湾近代」も台湾史であることは揺るぎません。
反日、親日などの言葉にとらわれず、もっと多角的に歴史をみることが重要なのではないでしょうか(もちろん私も含め)。
長々と失礼しました。
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