「定年移住」を扱うのなら、そこでは老いについてを正面から描くだろうと思ったが、それだけではない。チラシには「ここで生きるのではない、ここで死んでいくんだ。」なんていうショッキングな文言もあったし、かなり身構えて見始めたのだけれど、芝居は思ったほど、ハードな内容ではなかった。それどころか、少し緩いくらいで、見ながら最初の緊張感は緩んだ。
今、自分も老後の生活について考えているから、彼らが何を求めてここにいるのかが、とても気になった。もちろん、いつものように平田オリザはピンポイントで切りとり、そこに意図的なドラマチックは盛り込まない。だから僕らはここに描かれた数時間を通して、その背後に広がる膨大な時間を想像するしかない。
彼らのあたりさわりのない会話の先にあるものは不安と安心。この日々がずっと続くことに対して、それを受け入れようとする。もっと違う何かをこの先に求めない。そうすることで生きていける。もう十分に生きたこと。でも、もう少し生きていくこと。過去を振り返り、その思い出だけで生きていくことは出来ない。そんなことはわかりきっているけど、この先に対して希望の持てる何かを見出せないで、ここに引きこもってしまう。
ここでの暮らしの中で、彼らはマレーシアにいるのに、マレーシアと関わらない。それって、高齢者が自分で生活出来なくなり、施設で介護を受けて暮らすのとどういう違いがあるのか。何の不満もないことが、不満になっているとすると、それは甘えでしかない。そんなことはわかっているから、これで充分だと、受け止め、幸せなフリしてここで生きる。さらには、ここで暮らせるだけの余裕がある豊かな人たち以外の人はどうなるのか。圧倒的多数を占める決して豊かではない人たちの物語はここにはない。
ここには老齢の人たちだけではなく、まだ、現役の入居者もいる。定年移住だけではなく、新しい形のひきこもり、ともいう。自由な生活だけではなく、諦めもある。豊かで何の不満もなく、快適。日本を離れ、マレーシアで暮らすって何なのか。日本でなく、なぜ海外なのか。日本を棄てたのはなぜか。
背景として描かれる「昭和最後の日々」という設定が、微妙に今の「コロナ自粛の日々}とリンクするように作られてある。そういう側面から見ることで、この芝居はさらに刺激的なものとなる。もちろん、きっと基本は初演から大きく変えることなく、「その後の時間を生きる日々の憂鬱と幸福と向き合うこと」を描いたのだろう。
世の中自体が不安定で、先が見えない時代にあって、彼らの諦めがどこにつながっていくのか、とても気になった。ここにはある種の豊かさが背景にある。それは日本を象徴する。だけど、そんなささやかな豊かさは砂上の楼閣でしかない。儚い。人と人とのつながりをどう保ち、どこに向かっていくのか、日本を断ち切るのではなく、日本と距離を置くことで、自分や自分の周囲が見えてくるのか。そんなこんなのいろんな問題がここにはさりげなく見え隠れする。
この作品をさらりと通過していく人たちのそれぞれの事情を目にして、そこに適切な答えを求めることは不可能だし、意味がない。ただ、彼らを見て、では、自分はどうなのかを考える。そういう緩やかな時間を提示してくれる。これはそんな芝居だ。しかも、高齢者だけではなく、あらゆる世代の人たちがここには登場する。まだ20代,30代の子どもたちから、ここで暮らす40代、60代、70代だと思われる人たち。これはあらゆる世代に向けての問いかけである。