初演のアイホール・バージョンとは台本はきっとほとんど変わらないはずだが、仕上がった作品は全くと言っていいほどに、イメージの異なるものになってしまった。もちろんそれは三枝さんのねらい通りであろう。
何よりも、今回のウイング・フィールドに合わせた今井弘による美術が素晴らしい。ほんの少しの違いが作品世界自体すら変え兼ねない。この芝居は初演以上に主人公たちを追い詰めていく。2階の奥座敷のような狭い部屋に彼女たちは集まり話をする。三人姉妹のそれぞれの思惑が、この空間に密閉されていき、もう逃げ場はない。
アイホールの広い空間を使った初演でこの部屋は、この民宿の離れにある広い部屋として設定されていた。下手側には廊下がありそこを通ってこの部屋にやってくることになる。ワンクッションある。それが、ウイング版では、狭い階段を上って、いきなりここに来る。踊り場の段差も効果的だ。ごちゃごちゃして、狭苦しく、それが複雑な彼女たちの心情を象徴する。手前のこの部屋の奥にはもうひとつ同じような部屋もあるという設定だ。だが、そこは逃げ場にはならない。空間の複雑さを提示する。ここが突き当たりの僻地というロケーションも効果的だ。強い風、雨、窓の外の木立が揺れるという状況は初演を踏襲しておりこれもまた、効果的だ。
そんな中、この行き止まりの奥座敷で、彼女たちが感情をぶつけあっていく様は圧巻である。ある程度は初演を見ているので、心の準備は出来ていたが、こんなにも怖い芝居になっているとは思いもしなかった。
こんな話は、どこにでもあることかもしれない。母の死後、わだかまっていた3人のそれぞれの思いが、ここに集まったことで弾け散る。自分たちのこれからの人生も含めて、いくつもの思惑はある。ただ、決して喧嘩をするためにここに来たわけではない。出来ることなら円満に話を収めたい。しかし、エゴがぶつかりあい、修羅場と化していく。
民宿の娘である、しーちゃんのキャラクターが、役者を変えたことで全く印象を変え、この芝居をさらに痛々しいものにしていく。小さくて傷つきやすそうに見える猿渡美穂が、このキーマンを適切に演じる。彼女だけでなく7人の女優たちは、それぞれ他者を全く寄せ付けようとせず、一人ひとりとして、この芝居の中に屹立している。
家族の問題をテーマにして、三枝さんはそれをとことん突き詰めて見せようとする。温かくてほっとさせるような芝居は作らない。どこまでも、どこまでも、彼女たちを追い詰めていく。その先に何が見えてくるのか、それが知りたいからだ。もちろん僕もそこが知りたい。
どんな地獄が待っていてもそこから目を逸らしたりしない。それが生きていくということの痛みだからだ。そして、そこにはきっと苦しみだけではない、何かがあるはずだ。三枝さんには必ずそこまで辿り着いて欲しい。今までもずっとそれを描き続けてきた。この芝居はひとつの通過点でしかないのだ。
ラストで、「海に行こう」と言う。実際に海に行くはずが、目を閉じてあの日の海をイメージすることになる。海辺の民宿だから、海なんてすぐそこにある。今はそこに行かないまま芝居は幕を閉じる。
そこには救いとか、優しさといった結末を用意されない。彼女たちが抱える問題はそんなにも簡単なことではないからだ。
何よりも、今回のウイング・フィールドに合わせた今井弘による美術が素晴らしい。ほんの少しの違いが作品世界自体すら変え兼ねない。この芝居は初演以上に主人公たちを追い詰めていく。2階の奥座敷のような狭い部屋に彼女たちは集まり話をする。三人姉妹のそれぞれの思惑が、この空間に密閉されていき、もう逃げ場はない。
アイホールの広い空間を使った初演でこの部屋は、この民宿の離れにある広い部屋として設定されていた。下手側には廊下がありそこを通ってこの部屋にやってくることになる。ワンクッションある。それが、ウイング版では、狭い階段を上って、いきなりここに来る。踊り場の段差も効果的だ。ごちゃごちゃして、狭苦しく、それが複雑な彼女たちの心情を象徴する。手前のこの部屋の奥にはもうひとつ同じような部屋もあるという設定だ。だが、そこは逃げ場にはならない。空間の複雑さを提示する。ここが突き当たりの僻地というロケーションも効果的だ。強い風、雨、窓の外の木立が揺れるという状況は初演を踏襲しておりこれもまた、効果的だ。
そんな中、この行き止まりの奥座敷で、彼女たちが感情をぶつけあっていく様は圧巻である。ある程度は初演を見ているので、心の準備は出来ていたが、こんなにも怖い芝居になっているとは思いもしなかった。
こんな話は、どこにでもあることかもしれない。母の死後、わだかまっていた3人のそれぞれの思いが、ここに集まったことで弾け散る。自分たちのこれからの人生も含めて、いくつもの思惑はある。ただ、決して喧嘩をするためにここに来たわけではない。出来ることなら円満に話を収めたい。しかし、エゴがぶつかりあい、修羅場と化していく。
民宿の娘である、しーちゃんのキャラクターが、役者を変えたことで全く印象を変え、この芝居をさらに痛々しいものにしていく。小さくて傷つきやすそうに見える猿渡美穂が、このキーマンを適切に演じる。彼女だけでなく7人の女優たちは、それぞれ他者を全く寄せ付けようとせず、一人ひとりとして、この芝居の中に屹立している。
家族の問題をテーマにして、三枝さんはそれをとことん突き詰めて見せようとする。温かくてほっとさせるような芝居は作らない。どこまでも、どこまでも、彼女たちを追い詰めていく。その先に何が見えてくるのか、それが知りたいからだ。もちろん僕もそこが知りたい。
どんな地獄が待っていてもそこから目を逸らしたりしない。それが生きていくということの痛みだからだ。そして、そこにはきっと苦しみだけではない、何かがあるはずだ。三枝さんには必ずそこまで辿り着いて欲しい。今までもずっとそれを描き続けてきた。この芝居はひとつの通過点でしかないのだ。
ラストで、「海に行こう」と言う。実際に海に行くはずが、目を閉じてあの日の海をイメージすることになる。海辺の民宿だから、海なんてすぐそこにある。今はそこに行かないまま芝居は幕を閉じる。
そこには救いとか、優しさといった結末を用意されない。彼女たちが抱える問題はそんなにも簡単なことではないからだ。