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映画・演劇のレビュー

『の・ようなもの のようなもの』

2016-01-26 21:48:37 | 映画

この人を食ったようなタイトルは、今は亡き森田芳光監督の劇場用映画デビュー作『の・ようなもの』から来ている。もちろん、これはその、今からもう35年も前の映画『の・ようなもの』の続編なのだ。森田監督の弟子で、これがデビュー作となる杉山泰一監督作品である。30歳の若さでデビューした森田監督のもとでずっと助監督をしてきたもう50代になる杉山監督の満を持したこの第1作は、傑作だ。こんなすばらしい映画が作れる監督に今まで映画を撮らさなかった日本映画界はほんとうにダメなところだ、と思わせる。まぁ、そんなことはどうでもいい。この素晴らしい作品が誕生した、その事実だけをまず、祝福したい。森田監督追善映画にとどまらないライトコメディー映画の傑作で、前作を見ていない人でも楽しめる。

でも、前作をリアルタイムで見た人間にとっては、これは涙なくして見られない。前作へのオマージュがこんなにもさりげなく、しつこい。これはそんなふうに一筋ならではいかない映画なのだ。主人公の芽の出ない落語家、志ん田(松山ケンイチ)は森田監督の遺作になってしまった『僕達急行』での彼の役をそのまま引きずるようなキャラクターだ。もうその地点でこの映画の大胆さは極まる。さらには相棒になる北川景子演じる夕美は『間宮兄弟』で彼女が演じた夕美そのまま。これはないわ、と思う。こういう楽屋オチのような設定は普通しない。(怖すぎて)でも、まるで大丈夫。そのくらいしてもまるで揺るぎない。そこに、行方不明になっていた前作の主人公、志ん魚(伊藤克信)が絡んでくる。映画の前半は志ん田は会ったこともない志ん魚を捜しいろんな場所を旅する話として始まり(だから、前半はちょっとしたロードムービー)、後半、彼の登場とともに松山との駆け引きが楽しい作品に変貌する。

「人生迷ったら、楽しいほうへ」という大胆すぎるコピーそのままの、軽やかで、でも、ちょっぴりほろ苦い映画だ。この映画は「何者にもなりきれない」僕たちを応援してくれる。前作の最後で志ん魚たちは「落語はなくならないか」と心配していたけど、そういうセンチメンタリズムとは無縁で、でも、本質は変わらない。2本の映画はまるで似てないのに、本当によく似ている。

ラストで志ん田は二つ目に昇進するけど、まだ20代だった志ん魚は映画の最初から二つ目だった。ということは、これは31歳になっても、まだスタート地点に立ったばかりの男のお話なのだ。しかも、ひそかに想いを寄せる夕美は無職で、でも、ノーテンキに毎日を過ごしている。こいつら、これからどうなるのか。まぁ、なんとかなるかぁ、と思わせる。そんないいかげんな映画が僕を興奮させる。こんなので、いいのだ、と。

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