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映画・演劇のレビュー

プラズマみかん『潔白なセイレーン』

2022-09-07 11:41:45 | 演劇

久々にプラズマみかんを見た。レンタルおじさんを扱ったという前作『ワーニャのパンツと洗えない』を見逃しているから、何年ぶりとなるだろうか。久々に見たこの作品は、とても誠実な作品で見ていて気持ちがいい。自分たちが作りたいものに対して明確な方向性を持ち、手にしたテーマを振りかざすのではなく、そこに向けて誠実に向き合い、向かっていくという姿勢が好き。そこにあるのは押しつけのメッセージではなく、設定したテーマは努力目標。だから、この芝居がどこにたどり着くのかは彼女たちだってよくわからない(のかもしれない)。よくわからないまま、でも、きちんと「そこ」に照準を定めて進む。そんな姿が気持ちいい。

セイレーンたちは自分たちの歌が船乗りたちに届かないことに苦しんでいる。漫画家である姉は自分の読者に漫画が届かないことに苦しむ。この両者のエピソードを交錯させて芝居は進展していく。

売れない漫画家だった姉は過激な表現がある過去の名作漫画を誰も傷つかない絵に修正して発表し、弟がそれをプロデュースをすることで引っ張りだこになる。規制と配慮の施された安全な漫画。だが、それは正しいことなのか。さらには自分の作品ではなく過去の名作のリライトで評価を受けること。そこに憤りと不安を感じる。本来のあり方をいびつに歪めて、提示する。彼女の部屋にやってくる下の階の夫。そんな夫を探してやってくる彼の妻。子供たちを過激な図書から守るため検閲を繰り返す親たち。そこに同時にセイレーンたちのお話を象徴的に織り込みながら、このゆがんだ世界は混迷を続ける。清廉潔白なものが正しいわけはない。面白いわけもない。表現というものがどうあるものなのか。大事なことは、清濁合わせ飲み、そこから何を感じ取るべきなのか、そこにあるのではないか。作り手と受け取り手。両者の幸福な関係とはどこにあるのか。そんなことを考えさせられる。とても興味深いテーマが、この一見雑然としたお話として提示されていく。なかなか明確に帰着点が見えないのもいい。お話の中で迷子になりながら、ラストに向かう。それは至福の100分間だ。


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