3時間16分の大作だけど、最初から最後まで途切れることなく緊張が持続していく。別にハイテンポの映画ではない。というより、じっくりと見せていくタイプの重厚な映画だ。見る前は、退屈するのではないか、と心配したほどだ。だからそれなりの覚悟をして見始めた。
だが、そんな心配は杞憂に終わる。冒頭の10分で、もうこの映画の虜になった。自分は今、凄いものを見ている、という興奮を抑えられない。そこに描かれるのは、なんでもないような描写なのに、スクリーンから目が離せない。もちろんその風景には圧倒される。しかし、それだけではない。登場する人たちから目が離せないのだ。
ストーリーなんかまだ、始まらないのに、である。ホテル・オスロ(トルコだけど)という辺境のホテル(有名なカッパドキアだけど)が舞台だ。そこに逗留するお客と主人のやりとり。なんでもないような描写で、この地を紹介するところから始まる。
次の展開はこの主人が家賃を滞納する一家のところに行くエピソード。少年が彼の乗る車のガラスに石を投げつける。危うく、大きな事故にもなりかねない事態になる。ここから、話が始まる。貧しい家族と豊かな彼の家族の対比。その貧富の差が映画全体を覆う。
彼は地元の名士で当然、裕福だ。ホテルだけではなく、たくさんの貸家を持ち、使用人もたくさんいる。自分はもともと役者をしていたが、今では引退して、ちょっとした作家にもなっている。雑誌に評論やエッセイのようなものを連載しているようだ。今は誰も手をつけていない『トルコ演劇史』に取り組もうとしている。ただの金持ちではなくインテリだ。
静かな映画は、彼とその家族を中心にして、周囲の人たちとのやりとりをゆっくりと描いていく。だが、常にある種の緊張が支配する。彼はとてもいい人のようにも見える。穏やかで、知的で、優しい。だが、高いところから、まわりの人たちを見下している、ように見える。本人にはそのつもりはないけど、明らかだ。高みから、距離を置いて、見下す。それは、若い妻に対しても、であり、出戻りの妹に対しても、だ。もちろん、使用人たちに対しては当然だし。鼻もちならない男、とまでは言わないけど、あまり好ましくはない。
30分見たところで、これは傑作だと、確信する。さらには、1時間見たところで、類まれな作品だとわかる。その地点でこれは揺るぎない。その後、2時間以上あるのだけど、最後の瞬間まで、だれるようなシーンは全くなく、様々な問題に対して、とりこぼしなく答えを出していく。タイトルにある雪の轍はラスト1時間まで、全く描かれないのも凄い。映画の中で雪が降るのは始まって2時間近くが過ぎたところだ。降り出した後、すぐに積もる。彼がイスタンブールに行くシーンで、雪の中、駅に向かう車の轍が描かれる。そこから、再び、戻ってきて、友人の家でのシーン、翌朝の狩り。さらには、妻が冒頭で描かれた貧しい一家の家に行くシーンと、終盤で怒濤のように、さらなる緊張感のあるエピソードが続く。
日本人旅行者のエピソードや、バイクであてもなく旅する男のエピソードをうまく挟み込み、この村だけで世界を閉じさせないのも素晴らしい。これは、この世界の辺境での物語ではない。
人が生きていくうえで、何が必要なのか。お金はなくては困るけど、それだけではない。生きがいとは何か。生きるための糧はどこにあるのか。尊厳とは何か。誇りとは。様々な問題が浮き彫りにされていく。ただ、彼らを見つめているうちに、いろんなことに対する答えが見えてくる。映画が終わった時、自分の魂も救済されたような気になる。