老いと死をテーマにして、dracomが芝居を作る。いつも冗談のような芝居を作ってきた筒井潤さんなのだが、それでも彼はいつも本気である。そんなdracomが老いと死である。当然重くて暗い芝居にはならない。後半は老人(ひねもすじいさん、と呼ばれる)が溝に落ちて死んでいく(死ねない)姿が描かれる。広いアイホールの中央にたったひとり閉じ込められた彼を置く。それを遠くから見つめる。老人を演じる村山裕希がすばらしい。ただそこにいるだけなのに、圧倒的な存在感がある。
周囲の人々との距離感。彼の置かれた状況に対する周囲の冷淡さ。それは本人がそう思うだけで、本当はそんなことはないのかもしれない。でも、絶望的な状況の中で精神的にどんどん追い込まれていく。そんな様子がアイホールの広い空間全体をフルに使いきって見せられていく。何もなくただだだっ広い。そこにぽつんと一人いる寂しさ。家族と供にいても、孤独だ。だが、溝に嵌って誰にも知られずいるのはもっと寂しい。誰も助けてはくれない。もちろんこれは現実ではなく一種の象徴なのだが、それが壮大なスケールで描かれる。
アイホールの2階から金網越しに芝居を見る。役者が遠い。その遠さがこの芝居の意図だ。この位置関係がこの作品の絶望的な距離感だ。彼が落ち込んだ溝は棺桶のように見える。彼の周囲の部分が最初は少しずつせり上がって彼の孤絶を描く。その後、今度はちゃんと沈んでいき、取り残される。さらには照明がどんどん下がってきて、彼の置かれた閉塞感をホール全体を使い切って表現する。圧巻だ。どうしようもない孤独が迫ってくるスペクタクル。その中心に彼を置き、その周辺に他の役者たちを配し、さらにはその外側に観客。四方囲み舞台の1階席、さらには2階席、2重3重に彼を孤独の深淵に叩き落としていく。
もちろんそこにいつものdracomらしいパフォーマンスの彩りが施される。子犬を殺すという行為からスタートして、家族の中で孤立していく老人の姿を軽やかに描いていくストーリーラインはいつも通りで明確ではない。だが、テーマがはっきりしているから、とても見やすい。彼がすこしずつ周囲と距離を感じていき、それがやがて絶望的な隔たりとなっていく過程がはっきりと見て取れる。わかりにくさがこの場合とても有効だ。
周囲の人々との距離感。彼の置かれた状況に対する周囲の冷淡さ。それは本人がそう思うだけで、本当はそんなことはないのかもしれない。でも、絶望的な状況の中で精神的にどんどん追い込まれていく。そんな様子がアイホールの広い空間全体をフルに使いきって見せられていく。何もなくただだだっ広い。そこにぽつんと一人いる寂しさ。家族と供にいても、孤独だ。だが、溝に嵌って誰にも知られずいるのはもっと寂しい。誰も助けてはくれない。もちろんこれは現実ではなく一種の象徴なのだが、それが壮大なスケールで描かれる。
アイホールの2階から金網越しに芝居を見る。役者が遠い。その遠さがこの芝居の意図だ。この位置関係がこの作品の絶望的な距離感だ。彼が落ち込んだ溝は棺桶のように見える。彼の周囲の部分が最初は少しずつせり上がって彼の孤絶を描く。その後、今度はちゃんと沈んでいき、取り残される。さらには照明がどんどん下がってきて、彼の置かれた閉塞感をホール全体を使い切って表現する。圧巻だ。どうしようもない孤独が迫ってくるスペクタクル。その中心に彼を置き、その周辺に他の役者たちを配し、さらにはその外側に観客。四方囲み舞台の1階席、さらには2階席、2重3重に彼を孤独の深淵に叩き落としていく。
もちろんそこにいつものdracomらしいパフォーマンスの彩りが施される。子犬を殺すという行為からスタートして、家族の中で孤立していく老人の姿を軽やかに描いていくストーリーラインはいつも通りで明確ではない。だが、テーマがはっきりしているから、とても見やすい。彼がすこしずつ周囲と距離を感じていき、それがやがて絶望的な隔たりとなっていく過程がはっきりと見て取れる。わかりにくさがこの場合とても有効だ。