吉田大八監督の第2作。1昨年の『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』と、今年の『パーマネント野ばら』という2本の傑作の間に作られた野心作。でも、見事に失敗している。このとんでもない詐欺師の日々を追いかけた映画は、著しくリアリティーを欠く。
一生懸命つまらない結婚詐欺のために不断の努力を重ねるクヒオ大佐(堺雅人)の涙ぐましい努力を見ていると、こんなにも頑張れるのならば、そのエネルギーをもっとまともなことにつぎ込んだなら、真面目でいい人として、みんなから尊敬されるのではないか、と思う。弁当屋の女社長(松雪泰子)とか、あまりやる気にない博物館の学芸員(満島ひかり)とか、お金を持ってなさそうな女ばかりを必死になって騙そうとするが、なかなか上手くはいかない。これだけの小細工を弄して(しかも、なんかかなりせこいのに)そのくせ得るものは、たかがしれている。(銀座のバーかなんかのホステスにちょっかい出すのは、悪くはない選択だったが、ここではあまり上手くいかない。相手の方が詐欺のプロだ)
彼はどうして、自分を日系2世のクヒオ大佐だと偽って、アメリカ人のふりをするなんていう行為にのめり込んでいたのだろうか。この男のねじれたバックボーンをもう少し丁寧に描いたならおもしろい映画になったかもしれない。なのに、そこは匂わせる程度にとどめた。その結果映画はただの嘘くさい男という域を出ないこととなる。
だいたいこんなちんけな嘘に引っかかるような女性などいないはずだ。見るからに怪しげでやることなすこと嘘くさくて、間抜けだし、誰も信じたくはなくなるほどのお馬鹿さんである。これって別の意味で凄い。この映画を見ながら、一瞬、これってもしかしたらコメディーなんだろうか、と思ったりもしたが、なんかタッチは軽いが、映画自体はシリアスで、しかも、彼のこの本気を笑うことなんて出来ない。このせこさには、苦笑以上の笑いは生じない。見ていてあまりに痛ましく、切なくなるほどだ。新井浩文の弁当屋の女社長の弟から、反対に脅されてお金を巻き上げられるという展開なんか、もういいかげん勘弁してあげてよ、と思うくらいだ。
吉田監督はこの男を通して何を描きたかったのだろうか。アメリカに憧れ、現実を拒否して、空想の中でしか生きられない男の痛ましい姿は、かっての日本人そのものなのかもしれない。だが、今、こんな男はもういないだろう。アメリカは憧れでも何でもない。
一生懸命つまらない結婚詐欺のために不断の努力を重ねるクヒオ大佐(堺雅人)の涙ぐましい努力を見ていると、こんなにも頑張れるのならば、そのエネルギーをもっとまともなことにつぎ込んだなら、真面目でいい人として、みんなから尊敬されるのではないか、と思う。弁当屋の女社長(松雪泰子)とか、あまりやる気にない博物館の学芸員(満島ひかり)とか、お金を持ってなさそうな女ばかりを必死になって騙そうとするが、なかなか上手くはいかない。これだけの小細工を弄して(しかも、なんかかなりせこいのに)そのくせ得るものは、たかがしれている。(銀座のバーかなんかのホステスにちょっかい出すのは、悪くはない選択だったが、ここではあまり上手くいかない。相手の方が詐欺のプロだ)
彼はどうして、自分を日系2世のクヒオ大佐だと偽って、アメリカ人のふりをするなんていう行為にのめり込んでいたのだろうか。この男のねじれたバックボーンをもう少し丁寧に描いたならおもしろい映画になったかもしれない。なのに、そこは匂わせる程度にとどめた。その結果映画はただの嘘くさい男という域を出ないこととなる。
だいたいこんなちんけな嘘に引っかかるような女性などいないはずだ。見るからに怪しげでやることなすこと嘘くさくて、間抜けだし、誰も信じたくはなくなるほどのお馬鹿さんである。これって別の意味で凄い。この映画を見ながら、一瞬、これってもしかしたらコメディーなんだろうか、と思ったりもしたが、なんかタッチは軽いが、映画自体はシリアスで、しかも、彼のこの本気を笑うことなんて出来ない。このせこさには、苦笑以上の笑いは生じない。見ていてあまりに痛ましく、切なくなるほどだ。新井浩文の弁当屋の女社長の弟から、反対に脅されてお金を巻き上げられるという展開なんか、もういいかげん勘弁してあげてよ、と思うくらいだ。
吉田監督はこの男を通して何を描きたかったのだろうか。アメリカに憧れ、現実を拒否して、空想の中でしか生きられない男の痛ましい姿は、かっての日本人そのものなのかもしれない。だが、今、こんな男はもういないだろう。アメリカは憧れでも何でもない。