中田永一の原作も素晴らしかったけど、この映画の感動はそれを遥かに凌駕している。これは現代の『二十四の瞳』であり、『サウンド・オブ・ミュージック』だ。ポスターや宣伝用のチラシの写真も明らかにその線を狙っている。ここまで大胆に歴史に残る大傑作の向こうを張って、全く怯むことはない。作品自体はその二本と似ているわけではないけど、そんな作品を引き合いに出したくなるほどに、これは素晴らしいということだ。
映画はなんだかとても懐かしくて、でも新鮮。これは驚きだ。とても淡々とした映画だ。この手の映画にありがちなわざとらしさはない。ストーリーラインもありきたりで、どこにでもあるようなお話なのに、それがどうしてここまで感動的なものになるのか。それはひとえに三木孝浩監督の手腕による。ティーンを主人公にした数々の恋愛映画(漫画原作ばかりだったが)を手掛け、彼はどんな絵空事に見えるようなわざとらしいお話であってもそれをリアルなものとして提示してきた。そんな彼が今回初めて、こういうどこにでもあるような平凡なストーリーを手掛けた。そして今まで通りにそれを自然に見せた。そうするとそこに魔法のような奇跡が生じる。
群像劇である。ひとりひとりを個性的に描くのではなく、とても普通に描く。どこにでもいるような男の子、女の子として見せる。まるでドキュメンタリーのようなさりげなさだ。演じているということを忘れる。それはこの嘘くさい女であるヒロインの女先生(新垣結衣)の存在すらリアルに見せる。実はそこがこの映画の凄さ。彼女を徹底的にいい人としては描かない。嫌な奴。いつまでたっても生徒に心を開かないし、ツンデレだし。だが、それでいい。恋人の死によってピアノを弾けなくなったピアニストなんていうベタな設定に命を吹き込むためには、これくらいの頑なさが必要だ。これは昨年の『ホットロード』の主人公能年玲奈の無言に通じる。こういう漫画的な設定を納得させるだけの演出力が必要だった。だから三木孝浩が必要なのだ。これだけベタな設定のお話の中で何も言わないことですべてを伝える。それってかなりの演出力がなくてはムリ。
ラストのコンクールのシーンも必要以上の盛り上げはしない。クライマックスになるそのエピソードも、まるでそれまでのお話と同じくらいのタッチで描かれていく。そして昨日の続きとして位置付けさせる。そんなふうにしてドラマチックから遠く離れて、静かな日常の中に、この映画のすべては埋もれていく。登場する子供たちもみんな等しく描いていく。誰かを主人公にしてそこから話を綴っていかない。たまたま今この瞬間は、この子の話が描かれているだけ。それくらいのさりげなさで綴る。等しく描くというのは時間の問題ではなく、目線の問題なのだ。何人かのエピソードが中心になるとしても、彼らが主人公だというわけではない、というくらいのスタンスなのだ。それって凄い。だからこの群像劇にはリアリティーがある。
リアルと嘘くささの狭間で、絶妙なバランス感覚だ。動じることなく映画は悠々としたタッチで綴られていく。2時間12分という上映時間はこの手の映画としては幾分長いはずだ。だが、まるでそんな長さを感じさせない。でも、もちろん短くもない。ずっと彼らと寄り添っていたい、そう思わせる。でも、定石通り別れのシーンもちゃんと用意されている。船でやってきた先生は同じように船で去っていく。その感動的なラストに安心させられる。映画を見たという満足感でいっぱいにさせられる。
映画はなんだかとても懐かしくて、でも新鮮。これは驚きだ。とても淡々とした映画だ。この手の映画にありがちなわざとらしさはない。ストーリーラインもありきたりで、どこにでもあるようなお話なのに、それがどうしてここまで感動的なものになるのか。それはひとえに三木孝浩監督の手腕による。ティーンを主人公にした数々の恋愛映画(漫画原作ばかりだったが)を手掛け、彼はどんな絵空事に見えるようなわざとらしいお話であってもそれをリアルなものとして提示してきた。そんな彼が今回初めて、こういうどこにでもあるような平凡なストーリーを手掛けた。そして今まで通りにそれを自然に見せた。そうするとそこに魔法のような奇跡が生じる。
群像劇である。ひとりひとりを個性的に描くのではなく、とても普通に描く。どこにでもいるような男の子、女の子として見せる。まるでドキュメンタリーのようなさりげなさだ。演じているということを忘れる。それはこの嘘くさい女であるヒロインの女先生(新垣結衣)の存在すらリアルに見せる。実はそこがこの映画の凄さ。彼女を徹底的にいい人としては描かない。嫌な奴。いつまでたっても生徒に心を開かないし、ツンデレだし。だが、それでいい。恋人の死によってピアノを弾けなくなったピアニストなんていうベタな設定に命を吹き込むためには、これくらいの頑なさが必要だ。これは昨年の『ホットロード』の主人公能年玲奈の無言に通じる。こういう漫画的な設定を納得させるだけの演出力が必要だった。だから三木孝浩が必要なのだ。これだけベタな設定のお話の中で何も言わないことですべてを伝える。それってかなりの演出力がなくてはムリ。
ラストのコンクールのシーンも必要以上の盛り上げはしない。クライマックスになるそのエピソードも、まるでそれまでのお話と同じくらいのタッチで描かれていく。そして昨日の続きとして位置付けさせる。そんなふうにしてドラマチックから遠く離れて、静かな日常の中に、この映画のすべては埋もれていく。登場する子供たちもみんな等しく描いていく。誰かを主人公にしてそこから話を綴っていかない。たまたま今この瞬間は、この子の話が描かれているだけ。それくらいのさりげなさで綴る。等しく描くというのは時間の問題ではなく、目線の問題なのだ。何人かのエピソードが中心になるとしても、彼らが主人公だというわけではない、というくらいのスタンスなのだ。それって凄い。だからこの群像劇にはリアリティーがある。
リアルと嘘くささの狭間で、絶妙なバランス感覚だ。動じることなく映画は悠々としたタッチで綴られていく。2時間12分という上映時間はこの手の映画としては幾分長いはずだ。だが、まるでそんな長さを感じさせない。でも、もちろん短くもない。ずっと彼らと寄り添っていたい、そう思わせる。でも、定石通り別れのシーンもちゃんと用意されている。船でやってきた先生は同じように船で去っていく。その感動的なラストに安心させられる。映画を見たという満足感でいっぱいにさせられる。