なんて素敵な小品なのだろうか。慎ましくて、控え目なこの芝居には、「小品」という言い方がとてもふさわしい。もっといろんなことを描くことなんていくらでもできた。だが、高橋恵さんは敢えてそれをしない。必要なことだけを描き、70分という短い時間に収める。これは良質の短編小説の趣を大事にした長編作品なのだ。
先にも書いたが、「慎ましい」という言葉がとてもぴったりとあてはまる。この小さな世界の、ほんの少しの出来事を端正に描きこんで見せてくれる。それは町工場の少女の半径50メートルほどの世界である。
自宅でもある工場(その二階に彼女は住んでいる)の横にある小さな庭にたたずみ、夕暮れを待つ。生まれてくることもなく死んでしまった妹(あるいは、弟)と、ことばを交わすゆうまぐれ。経営が苦しくなった工場。今後、どうしていくことになるのか、先が見えない。この芝居の登場人物は、妹と兄。そして、叔母さんと、兄のお嫁さん。たった5人だけ。しかも、基本的には2人ずつで登場する。主人公の少女ともいひとり、という図式だ。そして、彼らはみんないい人ばかりだ。そんな彼らが言葉を交わすいくつかの小さな時間が綴られていく。
主人公の涼花(得田晃子)は、もう少女と呼ぶにはふさわしくない年齢なのだが、敢えてここでは少女で、統一したい。きっと20代後半から、もう30歳に手が届いているのかもしれない。まわりがみんな結婚していったのに、まだひとりでいる。実家であるこの工場の上の自宅で、兄夫婦と、年老いた親と共に暮らす。工場は兄が継いだ。
彼女の中で、時間は少女の頃のまま、そこで止まったまんまだ。だから、ここにいるときは、本当はもう大人なのに、彼女は今も少女なのである。小さな女の子として、ここにたたずみ、チーコを待つ。チーコはゆうまぐれにここにやってきて、涼花に寄り添う。ずっと彼女と一緒だった。つらいときも、さびしいときも、ここにいれば彼女は来る。だが、少しずつ世界は変わっていく。でも、彼女には変わってほしくない。永遠にこのゆうまぐれの中にいたい、と思う。
ささやかな感傷と紙一重の世界が、ひとりの女性の立ち位置の確認と、これからの生き方を指し示す。これは小さな芝居だからはじめて表現可能なことだ。人と向かい合い、これからもさまざまなことを考える。このままずっと、いられるわけはない。そんなこと、わかっている。年老いた親の問題もある。そのために、ここにエレベーターを設置することが、目の前にある問題だ。この大切な場所がなくなる。それを受け入れる最後の時間。
いきなり、ラストのエレベーターのシーンとなる。そして、続く屋上のべランダで、洗濯物を干すシーンが素敵だ。バリアフリーのために作られた小さなエレベーターの中で家族は言葉を交わす。変わっていく時間の中でそれでも、当然人々は生きていく。庭を壊して作ったエレベータ。もちろんチーコはもういない。
あの場所で、いつもチーコとゆうぐれの時間を過ごしていた。永遠の中に封じ込めれてた思い出の数々。年老いた親のために、この小さな空き地を潰して、エレベータは作れられた。だから、もうチーコの場所はない。というか、涼花の場所はもうなくなったのだ。この突然の「その後」を描く部分がすばらしい。どんなに大切なものでも、やがてなくなる。でも、それでも、人は生きていく。
先にも書いたが、「慎ましい」という言葉がとてもぴったりとあてはまる。この小さな世界の、ほんの少しの出来事を端正に描きこんで見せてくれる。それは町工場の少女の半径50メートルほどの世界である。
自宅でもある工場(その二階に彼女は住んでいる)の横にある小さな庭にたたずみ、夕暮れを待つ。生まれてくることもなく死んでしまった妹(あるいは、弟)と、ことばを交わすゆうまぐれ。経営が苦しくなった工場。今後、どうしていくことになるのか、先が見えない。この芝居の登場人物は、妹と兄。そして、叔母さんと、兄のお嫁さん。たった5人だけ。しかも、基本的には2人ずつで登場する。主人公の少女ともいひとり、という図式だ。そして、彼らはみんないい人ばかりだ。そんな彼らが言葉を交わすいくつかの小さな時間が綴られていく。
主人公の涼花(得田晃子)は、もう少女と呼ぶにはふさわしくない年齢なのだが、敢えてここでは少女で、統一したい。きっと20代後半から、もう30歳に手が届いているのかもしれない。まわりがみんな結婚していったのに、まだひとりでいる。実家であるこの工場の上の自宅で、兄夫婦と、年老いた親と共に暮らす。工場は兄が継いだ。
彼女の中で、時間は少女の頃のまま、そこで止まったまんまだ。だから、ここにいるときは、本当はもう大人なのに、彼女は今も少女なのである。小さな女の子として、ここにたたずみ、チーコを待つ。チーコはゆうまぐれにここにやってきて、涼花に寄り添う。ずっと彼女と一緒だった。つらいときも、さびしいときも、ここにいれば彼女は来る。だが、少しずつ世界は変わっていく。でも、彼女には変わってほしくない。永遠にこのゆうまぐれの中にいたい、と思う。
ささやかな感傷と紙一重の世界が、ひとりの女性の立ち位置の確認と、これからの生き方を指し示す。これは小さな芝居だからはじめて表現可能なことだ。人と向かい合い、これからもさまざまなことを考える。このままずっと、いられるわけはない。そんなこと、わかっている。年老いた親の問題もある。そのために、ここにエレベーターを設置することが、目の前にある問題だ。この大切な場所がなくなる。それを受け入れる最後の時間。
いきなり、ラストのエレベーターのシーンとなる。そして、続く屋上のべランダで、洗濯物を干すシーンが素敵だ。バリアフリーのために作られた小さなエレベーターの中で家族は言葉を交わす。変わっていく時間の中でそれでも、当然人々は生きていく。庭を壊して作ったエレベータ。もちろんチーコはもういない。
あの場所で、いつもチーコとゆうぐれの時間を過ごしていた。永遠の中に封じ込めれてた思い出の数々。年老いた親のために、この小さな空き地を潰して、エレベータは作れられた。だから、もうチーコの場所はない。というか、涼花の場所はもうなくなったのだ。この突然の「その後」を描く部分がすばらしい。どんなに大切なものでも、やがてなくなる。でも、それでも、人は生きていく。