今から11年前、南船北馬一団のデビュー作『よりみちより』を見た時の衝撃は忘れられない。どうしてこんなに老成した作品を20代になったばかりの作者に作れてしまうのだろうか、と驚かされた。こんなにも回顧的な物語を想像によって作り上げたこと。だいたいそんな題材を選ぶという時点で不思議に思わざるえなかった。
同窓会の後、自分たちが過ごした高校の部室に忍び込み、かってここで過ごした日々を振り返りながら、これから先の漠然とした不安と向き合う男女の姿が見事に捉えられていた。それをただのノスタルジーとしてではなく描いた不思議な芝居だった。
あれから(第2作の『砂』以外の)すべての作品を欠かさず見続けてきた。棚瀬美幸さんの繊細で、傷つきやすい心の世界を、その痛々しい内面世界を綴り続けてきた南船北馬一団最終公演である本作は、いつもの作品より幾分さらりとしたものに仕上がっている。何の気負いもなく、今の心境を衒いなく描いた小佳作である。劇団の最後であることよりも、ここから改めて再出発するべく作られた作品という印象が強い。
それにしても、なんて爽やかな作品なんだろうと思った。もちろん、いつもの棚瀬さんらしいしつこさはある。ねばっこく、どんどん自分を追い詰めていく自虐的な作風も変わらない。何もそこまでしなくてもいいではないか、と今まで何度も思わされ続けてきたことか。今回もそういう意味では同じだ。しかし、それが爽やかなイメージに通じてしまうのである。
これは3人の男女の物語である。旅する車窓から見る風景。通り過ぎていくそんな風景を見つめながら、どうして自分はこうして旅をしているのだろうか、と思う。3人が三様に考える。
ある日、突然、旅に出てしまった。いつものように仕事に行くため家を出ていつもの電車に乗ろうとした。なのに、ほんの少し遅れてしまい、いつもの電車を見送る事になった時、彼の中の何かが壊れてしまった。別に今の生活に不満があるわけでもない。ただ、なんとなく、旅だってしまうのである。
とある女に声を掛け、彼女と2人で旅に出た。女の行き先は明確で、彼はそんな彼女の旅に便乗する。
そこに一人の女がやって来る。男を失い、彼を探すために旅に出た女だ。なぜ、男が居なくなったのかは全く分からない。ある日突然彼は帰ってこなかった。彼はいつもと同じように朝会社に行くために出て行った。何ひとついつもと変わりなく。なのに、その日も、翌日も帰らない。一緒に暮らし始めて5年、何の問題もなかった。喧嘩もしたけど、幸せに毎日を過ごしていた。なのに、男は何の予告もなく消えてしまった。
当然この3人の男女はお互いの心を語り合うことはない。ここまで読めば分かるように、女を中心にした男女は一つの部屋で暮らしていた男女であり、更にはこの3人は一人の人間の内面でもある。そして、この芝居はこの3人を相似形にあるもう一つの3人と対峙させる。この二組の3人を交錯させることによって、その交わらない心の世界を描いていくことになる。
男はもう一人の男と対話し、女も同様にもう一人の女と向き合う。更には、この2組の男女の間に2人の女がいる。この2人がブランコを漕いでいるシーンから、芝居は始まる。2人は陰と陽であり、この2人が対話することはない。2組の男女は自分が捨ててきたパートナーとの日々を回顧し、検証する。なぜ家を出なくてはならなかったのか、どうして一人取り残されることになったのか。そんな知る由もない他者の心と向き合うことになる。
棄てて来たのは男の方なのか、それとも女の方なのか、それすら曖昧になる。男は家を出て、別の女と出会い、女は家を出た男を捜す過程で女と出会う。彼ら2人が出会ったこの女とは何者なのだろうか。
この女はたった一人で凛として生きている自分自身である。確固とした目的を持つもう一つの自分。女の分身であるばかりか、男の分身ですらある。そんな象徴としての存在だ。だからといってこの女が強い女であるとは言い切れない。人は一人では生きていけない。強いフリをしてみても、本当は傷つきやすく、脆い。
列車の客席はブランコになっており、揺れるブランコが8つ、6人の役者は出たり入ったりしながら、無限を描いた舞台の上で交錯したり、すれ違ったりする。走る電車の中で、何を見たのか。この新しい旅の始まりが、一体どこに向かう旅なのか。それはきっとこれからの棚瀬作品が答えてくれることだろう。これは南船北馬一団の新しい第1歩を示す記念すべき作品である。
同窓会の後、自分たちが過ごした高校の部室に忍び込み、かってここで過ごした日々を振り返りながら、これから先の漠然とした不安と向き合う男女の姿が見事に捉えられていた。それをただのノスタルジーとしてではなく描いた不思議な芝居だった。
あれから(第2作の『砂』以外の)すべての作品を欠かさず見続けてきた。棚瀬美幸さんの繊細で、傷つきやすい心の世界を、その痛々しい内面世界を綴り続けてきた南船北馬一団最終公演である本作は、いつもの作品より幾分さらりとしたものに仕上がっている。何の気負いもなく、今の心境を衒いなく描いた小佳作である。劇団の最後であることよりも、ここから改めて再出発するべく作られた作品という印象が強い。
それにしても、なんて爽やかな作品なんだろうと思った。もちろん、いつもの棚瀬さんらしいしつこさはある。ねばっこく、どんどん自分を追い詰めていく自虐的な作風も変わらない。何もそこまでしなくてもいいではないか、と今まで何度も思わされ続けてきたことか。今回もそういう意味では同じだ。しかし、それが爽やかなイメージに通じてしまうのである。
これは3人の男女の物語である。旅する車窓から見る風景。通り過ぎていくそんな風景を見つめながら、どうして自分はこうして旅をしているのだろうか、と思う。3人が三様に考える。
ある日、突然、旅に出てしまった。いつものように仕事に行くため家を出ていつもの電車に乗ろうとした。なのに、ほんの少し遅れてしまい、いつもの電車を見送る事になった時、彼の中の何かが壊れてしまった。別に今の生活に不満があるわけでもない。ただ、なんとなく、旅だってしまうのである。
とある女に声を掛け、彼女と2人で旅に出た。女の行き先は明確で、彼はそんな彼女の旅に便乗する。
そこに一人の女がやって来る。男を失い、彼を探すために旅に出た女だ。なぜ、男が居なくなったのかは全く分からない。ある日突然彼は帰ってこなかった。彼はいつもと同じように朝会社に行くために出て行った。何ひとついつもと変わりなく。なのに、その日も、翌日も帰らない。一緒に暮らし始めて5年、何の問題もなかった。喧嘩もしたけど、幸せに毎日を過ごしていた。なのに、男は何の予告もなく消えてしまった。
当然この3人の男女はお互いの心を語り合うことはない。ここまで読めば分かるように、女を中心にした男女は一つの部屋で暮らしていた男女であり、更にはこの3人は一人の人間の内面でもある。そして、この芝居はこの3人を相似形にあるもう一つの3人と対峙させる。この二組の3人を交錯させることによって、その交わらない心の世界を描いていくことになる。
男はもう一人の男と対話し、女も同様にもう一人の女と向き合う。更には、この2組の男女の間に2人の女がいる。この2人がブランコを漕いでいるシーンから、芝居は始まる。2人は陰と陽であり、この2人が対話することはない。2組の男女は自分が捨ててきたパートナーとの日々を回顧し、検証する。なぜ家を出なくてはならなかったのか、どうして一人取り残されることになったのか。そんな知る由もない他者の心と向き合うことになる。
棄てて来たのは男の方なのか、それとも女の方なのか、それすら曖昧になる。男は家を出て、別の女と出会い、女は家を出た男を捜す過程で女と出会う。彼ら2人が出会ったこの女とは何者なのだろうか。
この女はたった一人で凛として生きている自分自身である。確固とした目的を持つもう一つの自分。女の分身であるばかりか、男の分身ですらある。そんな象徴としての存在だ。だからといってこの女が強い女であるとは言い切れない。人は一人では生きていけない。強いフリをしてみても、本当は傷つきやすく、脆い。
列車の客席はブランコになっており、揺れるブランコが8つ、6人の役者は出たり入ったりしながら、無限を描いた舞台の上で交錯したり、すれ違ったりする。走る電車の中で、何を見たのか。この新しい旅の始まりが、一体どこに向かう旅なのか。それはきっとこれからの棚瀬作品が答えてくれることだろう。これは南船北馬一団の新しい第1歩を示す記念すべき作品である。