この変な映画は「ロブスター」「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」で注目を集めたギリシャの鬼才ヨルゴス・ランティモスの新作だ。先の2先品と比べるとその変さ加減は少し抑え気味だけど、これでもこの手の映画とは思えないほどの異常度だろう。王室を舞台にしたきらびやかな絵巻物を期待したら手痛い目に遭う。まぁ、彼の映画にそんなものを期待するわけはないけど。
それにしても『聖なる鹿殺し』は変にもほどのある映画だった。あんな呆れた映画は見たことがない。どうしてこうなるのか、それに何の意味があるのか。わけがわからない。でも、そこに圧倒される。ふつうにああいうことをやっていて、ヨルゴス監督は奇を衒っているわけではないというのが凄い。あれが自然体で出来る変態って彼くらいしかいないだろう。狙っているのではないのが凄い。
今回の3人の女たちの戦いも権謀術数とかいうのではなく、ドロドロなのに、なんだか、ありのままの自然体。映画を見ながら王女さまって、たいへんだ、とか、そんなことを思う始末。そんなことを描きたいんじゃないんだけど、そんなことを思わされるのだ。
今回も唖然とする展開は変わらない。王女を巡る2人の女、という図式だけど、この3人の姿を通して全ての人間の姿が見えてくる。別に3種のパターンというわけではないけど、それどころか、3人は似ているところもあるけど、3人のアンサンブルで普遍に通じる、って感じだ。強烈な映画である。今回は理解を絶する展開というわけではないのだけど、前回と変わらず変。なぜか広角レンズで捉えた宮廷内の映像も変。権力を手にした女たちの憂鬱と、その周囲にいる雑魚でしかない男たちという構造は別にたいしたことはない。たまたまそうなっているだけ。そこをどうとか言いたいわけではない。3人の女たちから目が離せない。それだけで2時間は過ぎていく。「なんなんだ、これは!」と思いつつ、見守る。それだけ。