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映画・演劇のレビュー

極東退屈道場+水の会 『家、世の果ての…』

2010-03-02 23:13:25 | 演劇
 今から30年前、この芝居はとても新鮮で、斬新だったはずだ。90年くらいまでならこの作品のような芝居は、小劇場の中で、圧倒的に力を持っていた。しかし、今、こういうタイプの芝居は作られない。力で押し切るのではなく、自閉していくことで、内在化する自己の世界を手がかりにして作品が作られるようになったからだ。こんなふうに、外の世界と全身で向き合うような芝居が無くなってから久しい。

 あんなにも新鮮だったこの芝居の描く世界が、今では色褪せて古くなっている。それってなんだ? この饒舌な文体と、あらゆる情報を混沌としたまま放り込んでいくスタイルがもう通用しない。

 消費社会のエスカレートによって、そこに飲み込まれていく人々。都市という巨大な胃袋に飲み込まれ、彼らは迷子になる。自分を見失っていく。闇に中に閉じこめられてしまう。ここからの脱出劇が描かれる。この中で、彼らがいったいどこまでいけるのかが、描かれるのだ。ここから遠くへ。もっと遠くへ。世界の果てまで行こう。

 これはありとあらゆる要素をごった煮にしたような、まさに80年代の申し子のような芝居だ。初期の如月小春さんの、まだ自分自身が何者でもない時代の不安と混沌がそのままの形で出ている。それを当時の彼女よりもずっと大人の林慎一郎さんが、出来得る限りの等身大で描いてみせる。

 それはとても困難を伴う作業だった。テキストの改変はしないということは、この企画のコンセプトだから仕方ない。だが、80年と2010年との落差はあまりに大きい。バブル以降の日本はそれ以前とは別の世界になってしまったから、ここに描かれる狂騒は今の僕たちの感覚とはあまりに距離がありすぎる。それを踏まえた上でこの芝居に挑んだ。

 今この芝居は圧倒的に古い。その事実をしっかり受け止めた上でこの作品を再現するときそこから何が見えてくるのか。不安の中で、この芝居の主人公たちはそれでも前を向いて生きていこうとする。その姿は、自閉するだけで前に進もうとしない今の僕たちを勇気づける。時代錯誤は覚悟の上だ。それでも圧倒的な迫力で迫ってくるこの作品の持つ静かなエネルギーを受け止めよう。そうすることで、今、僕たちがしなければならないものが、きっと見えてくる。

 林さんはこの芝居を批評するのではなく、そのまま受け止めることで、突破口を見出した。圧倒的な情報量の中、どんどん状況が変わっていくこのめまぐるしい芝居は、小劇場が一番元気だった時代の遺産だろう。今の若い役者たちはこんな芝居をしたことがない人も多いはずだ。この芝居を今の時代に再演することを通して、静かな演劇や、おもしろさのみを追求し、中身のない派手なエンタメを経て、方法論を見失う現代の小劇場演劇に一つの風穴をあけることが出来る気がする。


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