習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『ゼロの焦点』

2010-09-14 23:00:35 | 映画
 昭和32年という微妙な設定は、この作品にとって、とても大事なことなのだろう。「もはや戦後ではない」という言葉が流行語になった昭和31年の後、日本は高度成長時代に突入していく直前。新しい時代の幕開けを背景にして、今だに戦争の影を未だひきずる人たち(それはあの時代を生きた「誰もが」が、そうであったはずだが)が、一つの決着を付けること。それが本編のテーマだろう。「まだ戦後は終わらない」のだ。時代の空気をいかに感じされるか。それが2000年代を生きる人たち(もちろん、僕らだ!)に、いかなる思いを抱かせるのか。そこが、何よりも大事なポイントとなる。とはいえ、今更、松本清張である。『砂の器』から、35年。時代はもう変わってしまった、はずだ。

 あの犬童一心監督の作品である。期待しないはずがない。だが、推理ものとしては、まるでドキドキしないし、大体、映画としてのテンポが悪すぎる。いつまでたってもお話が進展しないのでイライラする。そのくせ謎解きは意外性もなく、単純すぎて、そこにもがっかりする。一体どういうことか、と呆然とした。

 では、これはつまらない駄作か、というと必ずしもそうではない。とても丁寧に作られた映画だ。50年前の風俗、風景の再現の中で、彼らが彼らなりのけじめを付けるための覚悟が描かれるのだが、それが泥臭い人間ドラマではなく、日本という国が、この50年間で、どう変わっていくことになったのか、その原点の心象風景として綴られるのだ。

 時代の雰囲気を再現することを通して見えてくるものがこの映画の眼目となる。特定の誰かの、個人的なお話なのではなく、時代の醸し出す空気のようなものが、この映画を形作る。そう言う意味では、これはもうひとつの『ALWEYS 3丁目の夕日』なのだ。いささかキッチュになってしまったのは、ご愛敬だが、とことんリアルな再現ではなくこれは1種のファンタジーでもあるのだから、このくらいでも充分だろう。

 それにしても松本清張の映画化が、現代劇ではなくこんなふうに「時代劇」になってしまうだなんて、なんてなんだかよくわからないがなんとも凄いことだ。だいたいこの本格推理ものであるはすの作品が、コスプレで、ファンタジーだなんて、なんとも言い難い驚きである。広末涼子の新妻がまるで、冗談に見える。中谷美紀の大仰な芝居が、笑える。本来そういうものではないはずなのだが。真面目な映画だし、大作であるはずだったのだ。なぜ、こんなことになったのだろうか。


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