山本周五郎の世界を、見事に朗読劇として、立ち上げた。最初は自分の頭で世界を組み立てるのが、難しく、なかなか乗れなかったのだが、ストーリーが進んでいき、しかも自分も集中すると、どんどん話の中に入り込める。しかも、林さんのパフォーマンスに引き込まれる。これって、朗読というよりも、落語に近い。というか、これは、やはり世界一小さな演劇なのだ。ひとり芝居として、認識したほうが正しいのではないか。しかも、彼女はずっと立ったままで、一歩も動かないで、見せる。役を演じるのではなく、体一つで芝居の世界を作り上げるのだ。この「ひとり語り」というスタイルの演劇は、とても興味深い。
小説を読んでいるだけなのだが、しかも、身振り手振りで演じるのではなく、自分の体ひとつで、演劇全体を作るのだ。だから、照明も音響もいらない。アクティングエリアなんて、立ち位置だけなので、ほんの数十センチ四方だ。セリフの部分は演じる感じも残るのだが、彼女はあくまでも、まず演劇そのものなので、その瞬間も「ある役」ではない。読み聞かせではない。目を閉じて聞き入る人もいるだろうが、僕はずっこ彼女の姿に釘付けになっていた。ここで、彼女を見ているということが、まず大事なのだ。この瞬間、ナマ(生)で、林さんがこのテキストと一体になる瞬間を目撃することが、何よりも大事なことだ、と思わせる。あくまでもこれはライブ・パフォーマンスなのである。
『雨あがる』という台本(もちろんこれは小説なんだけど)を、この空間で自分の体ひとつで、演じてみせる。それがこの『ひとり語り』という表現なのだろう。素材との距離の取り方が絶妙なのだ。話に完全に入り込んでしまうのではない。この話を彼女がどう料理するのか、見つめられることがおもしろいのだ。だが、そこにはことさら、なんの仕掛けもなされてはいない。自然体だ。女優が読むということが、この不思議な世界を現出させたのだろう。貴重な体験だった。
小説を読んでいるだけなのだが、しかも、身振り手振りで演じるのではなく、自分の体ひとつで、演劇全体を作るのだ。だから、照明も音響もいらない。アクティングエリアなんて、立ち位置だけなので、ほんの数十センチ四方だ。セリフの部分は演じる感じも残るのだが、彼女はあくまでも、まず演劇そのものなので、その瞬間も「ある役」ではない。読み聞かせではない。目を閉じて聞き入る人もいるだろうが、僕はずっこ彼女の姿に釘付けになっていた。ここで、彼女を見ているということが、まず大事なのだ。この瞬間、ナマ(生)で、林さんがこのテキストと一体になる瞬間を目撃することが、何よりも大事なことだ、と思わせる。あくまでもこれはライブ・パフォーマンスなのである。
『雨あがる』という台本(もちろんこれは小説なんだけど)を、この空間で自分の体ひとつで、演じてみせる。それがこの『ひとり語り』という表現なのだろう。素材との距離の取り方が絶妙なのだ。話に完全に入り込んでしまうのではない。この話を彼女がどう料理するのか、見つめられることがおもしろいのだ。だが、そこにはことさら、なんの仕掛けもなされてはいない。自然体だ。女優が読むということが、この不思議な世界を現出させたのだろう。貴重な体験だった。