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映画・演劇のレビュー

『サンクチュアリ』

2007-02-16 21:34:24 | 映画
 2人の関係性が、今一歩伝わりきらない。摑めそうで摑めないもどかしさは、いつもの瀬々さんのやりかたとはいえ、かっての映画史に残る傑作『雷魚』や『汚れた女(マリア)』の頃のような強い意志が感じられないのは、彼の演出力が落ちてきているためなのか。

 現在からスタートして、1年前の夏、2年前の夏、3年前の夏。3つの時間が遡って語られていき、ラストでは、主人公である主婦が女を殺すことと、2人の出逢いが、併行して描かれていく。このスタイルは決して悪くはない。

 行方不明になった息子。息子は殺されており、彼を殺したのは、知り合いのガソリンスタンドの女ではないか、と疑っている。しかし、根拠はない。

 時間軸が、必ずしもはっきりした印象を与えない。曖昧という訳ではない。2人の関係を決定付けるものも、明確化されないし、事件自体もよく分からないまま、どんどんシーンシーンが投げ出されていく。そして、そこには、もちろん一切説明がない。錯綜する時間を頭の中で整理し、丁寧に見せていくと、1本に順を追って繋げていくことは出来るのだが、敢えてそれをせず印象として受け取ったまま、書いてみよう。DVDで見たので(劇場で見たかった)いくらでも確認はできる。チャプターをチェックして、シーンを並べ替えて、考え直すのも面白いかもしれない。しかし、劇場で見ていたらもちろんそんな事は不可能なので、今回もそれはやらない。

 瀬々監督は整然としたものより、その瞬間瞬間の真実を大切にする。表情、仕種、行動、理不尽なものも含めて、そんな一瞬を前後の脈略なく、受け止めて欲しいのではないか。敢えて混乱させ、その中にある二人の純粋な魂の彷徨を僕たち観客の胸に届けようとしたはずだ。それをしっかり受け止めるためにも、この混沌を混沌のまま理解してみよう。

 息子の死によって壊れていく穏やかだった家族。幸福だった夫婦生活。しかし、その幸福が、本来あるべき自分の姿だった、とは信じきれていなかった。それにすら気付いてなかったかもしれない。

 ガソリンスタンドで偶然出逢った女に、いきなりキスされて、抱きしめら、驚く。しかし、その女に応えてしまう。この出逢いの場面が、映画のラストで描かれていく。降り注ぐ陽光のもと、洗濯機から外そうとしたホースの水を浴びて服を濡らしてしまった2人が笑う。その笑顔。このひそやかで、幸福な時間。映画はこの原点をラストまで見せてくれない。

 モノクロで描かれる女を刺し殺す場面。息子を殺され、自分自身の隠された性癖を暴かれ、夫は家を出て行く。すべてを失なった彼女にとって、愛するこの女を殺すという行為がすべてとなる。もちろんこのシーンもラストまで見せてくれない。

 3つの夏の中で、少しずつ変わっていくもの、それが丁寧に描かれていく。信じていた幸福が、他でもない自分自身の手で暴かれ、破壊されていく。もちろん全てを女のせいにすることも出来る。しかし、誰よりも自分自身が、全ては自分のせいなのだとはっきり分かっている。

 映画はそんな主婦を中心にして、彼女の前には常に女がいるという状況を見せる。黒沢あすか演じる女は、自分を持て余している。そんな女を好きになってしまう主婦、山下葉子。彼女は常に冷静に自分の状況を受け止めていこうとしているように見える。しかし、明らかに混乱している。

 この2人をひたすらみつめ続ける瀬々敬久の視点は、どこに向かっているのか。それが読みきれないもどかしさが残る。いつもながらロケーションが素晴らしい。しかし、2人の女たちの内奥にあるものと、それを通して描かんとするものが、伝わりきらないまま映画は終わっていく。2人の聖域<サンクチュアリ>は謎のままである。

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