「偉大な父を持つ男の孤独な闘い」という実に刺激的なキャッチコピーに心惹かれた。『ショーン・レノン対地底人』という明らかに高橋源一郎の『ジョン・レノン対火星人』へのオマージュとわかるタイトル。そして、60年代の東宝特撮映画を思わせるキッチュなデザインのフライヤー。土橋淳志さんのこの新作に期待を寄せない人はまず、いまい。みんなこの作品の完成を固唾を呑んで待っていた!
何をさしおいても、この芝居を見なくてはならないとたくさんの演劇ファンが意気込んでウイング・フィールドに駆けつけたことであろう。(ちょっと、ここまで大袈裟だが、それくらいにボクは待っていた、ということです)
そして、見終えて、かなりのお客さんが、呆然となったであろうことも想像に難くない。
ここにはジョン・レノンもショーン・レノンも出てこない。さらには、地底人だって出てくるわけではない。まぁ、そんなことは、A級のファンなら鼻から期待していなかったはずなのだが、このなんとも言いがたい失望感は何なんだろうか。この作品を失敗作だと言ってこき下ろすつもりは毛頭ない。僕だってそこまでバカではない。
土橋さんの試みを全否定するつもりなんてないし、この作品は確かに面白いと認める。だが、せめて「偉大は父を持つ男」の物語くらいは見せて貰いたかった。あまりに看板に偽りがありすぎではないか。羊頭狗肉ね、なんて笑って済ますには、そのあまりの乖離振りにちょっと困ってしまうのだ。
まぁ、それはさておき(ほんとうは「さておき」たくないからここまで引っ張ったのだが)今回の「集団自殺」というテーマも正直言って今一歩ピンとこなかった。
土橋さんは、なぜ偶然インターネットの自殺サイトで知り合った見知らぬ男女の死なんていう手垢のついた題材を選んだのだろうか。何を今更、という題材を敢えて取り上げて、そこに描かれる不毛の死、というものを客体化していくことを通して死というものの軽さを見せようとしたのか。とはいえ、誰もが安易に死のうとする、そんな風潮に対して何らかの疑問を差し挟もうとしたようにも見えない。
いつものように多重構造になっていて、どこに本当のお話があるのもよく摑めないようになっている。男女4人が、昔防空壕だった地下室で練炭を使って中毒死しようとする、というベースとなるエピソードから始まる。4人のバックグラウンドも丁寧に描かれていく。そして、その後、このお話を自主映画として撮影しようとする大学生たちが描かれていく。ここまで来ると、メーンのお話は劇中劇だったようにも見えるようになってくる。
集団自殺の4人のうち、唯一の女性であるアリス(横田江美)は、映画を作る大学生グループのメンバーの女性と同一人物で、彼女のかっての恋人が、彼女を置いて1年前に自殺していることがわかる。彼女は彼の後追い自殺をしようとしているのだ。
彼はなぜ死んだのか。彼の死の痛手から立ち直れない彼女もまた、同じように死のうとするのはなぜか。死に魅せられた人たち(人生に絶望して、死にたいと願う人たち)の心の中を描こうとする、わけでもない。
では、ここで描かれるものは何なのか。4人のうち、3人は死なずに生還してくる。たったひとり、彼女だけが死んでしまう。死んでしまった彼女のお通夜に向かう生き残ったひとりである白兎。彼はそこで死んでしまったはずの彼女に出会う。
『不思議の国のアリス』を模した4人は、確かに地下の密室で死のうとした。(彼らがタイトルにある地底人なのか?)しかし、現実には死ななかった。生きているものと死んでいるものとの間には境界はない。ならば、死んでしまった彼女をもう一度助けることは出来ないのか。
ここで描かれる時間軸はきちんと過去から未来に流れてあるわけではない。だから、彼女は死なない。死ななかったようにも見える。この曖昧なラストが面白い、と言い切るには、かなり微妙である。
芝居としてのメリハリを付けることなく、まるで全てが夢の中の出来事のように描かれている。ゆっくりと流れる時間に身を任せてこの芝居を見るといい。確かなものはここにはない。
彼らの曖昧な心の在り方に寄り添うといい。本当のことなんか、ここには何もない。かといって、これが嘘だなんていうつもりもない。僕たちは、ただ漂うようにして、今という不安な時の流れの中を生きている。
何をさしおいても、この芝居を見なくてはならないとたくさんの演劇ファンが意気込んでウイング・フィールドに駆けつけたことであろう。(ちょっと、ここまで大袈裟だが、それくらいにボクは待っていた、ということです)
そして、見終えて、かなりのお客さんが、呆然となったであろうことも想像に難くない。
ここにはジョン・レノンもショーン・レノンも出てこない。さらには、地底人だって出てくるわけではない。まぁ、そんなことは、A級のファンなら鼻から期待していなかったはずなのだが、このなんとも言いがたい失望感は何なんだろうか。この作品を失敗作だと言ってこき下ろすつもりは毛頭ない。僕だってそこまでバカではない。
土橋さんの試みを全否定するつもりなんてないし、この作品は確かに面白いと認める。だが、せめて「偉大は父を持つ男」の物語くらいは見せて貰いたかった。あまりに看板に偽りがありすぎではないか。羊頭狗肉ね、なんて笑って済ますには、そのあまりの乖離振りにちょっと困ってしまうのだ。
まぁ、それはさておき(ほんとうは「さておき」たくないからここまで引っ張ったのだが)今回の「集団自殺」というテーマも正直言って今一歩ピンとこなかった。
土橋さんは、なぜ偶然インターネットの自殺サイトで知り合った見知らぬ男女の死なんていう手垢のついた題材を選んだのだろうか。何を今更、という題材を敢えて取り上げて、そこに描かれる不毛の死、というものを客体化していくことを通して死というものの軽さを見せようとしたのか。とはいえ、誰もが安易に死のうとする、そんな風潮に対して何らかの疑問を差し挟もうとしたようにも見えない。
いつものように多重構造になっていて、どこに本当のお話があるのもよく摑めないようになっている。男女4人が、昔防空壕だった地下室で練炭を使って中毒死しようとする、というベースとなるエピソードから始まる。4人のバックグラウンドも丁寧に描かれていく。そして、その後、このお話を自主映画として撮影しようとする大学生たちが描かれていく。ここまで来ると、メーンのお話は劇中劇だったようにも見えるようになってくる。
集団自殺の4人のうち、唯一の女性であるアリス(横田江美)は、映画を作る大学生グループのメンバーの女性と同一人物で、彼女のかっての恋人が、彼女を置いて1年前に自殺していることがわかる。彼女は彼の後追い自殺をしようとしているのだ。
彼はなぜ死んだのか。彼の死の痛手から立ち直れない彼女もまた、同じように死のうとするのはなぜか。死に魅せられた人たち(人生に絶望して、死にたいと願う人たち)の心の中を描こうとする、わけでもない。
では、ここで描かれるものは何なのか。4人のうち、3人は死なずに生還してくる。たったひとり、彼女だけが死んでしまう。死んでしまった彼女のお通夜に向かう生き残ったひとりである白兎。彼はそこで死んでしまったはずの彼女に出会う。
『不思議の国のアリス』を模した4人は、確かに地下の密室で死のうとした。(彼らがタイトルにある地底人なのか?)しかし、現実には死ななかった。生きているものと死んでいるものとの間には境界はない。ならば、死んでしまった彼女をもう一度助けることは出来ないのか。
ここで描かれる時間軸はきちんと過去から未来に流れてあるわけではない。だから、彼女は死なない。死ななかったようにも見える。この曖昧なラストが面白い、と言い切るには、かなり微妙である。
芝居としてのメリハリを付けることなく、まるで全てが夢の中の出来事のように描かれている。ゆっくりと流れる時間に身を任せてこの芝居を見るといい。確かなものはここにはない。
彼らの曖昧な心の在り方に寄り添うといい。本当のことなんか、ここには何もない。かといって、これが嘘だなんていうつもりもない。僕たちは、ただ漂うようにして、今という不安な時の流れの中を生きている。