「この海はどんなに深いのだろう」というタイトルがいい。でもこれが浦島伝説だなんて思いもしなかった。作・演出の土橋淳志さんのタッチは、今回も前作に引き続きいくぶん軽い。ブラックボックス(玉手箱)を巡るお話は幾重にも重層的になっていて、お話の構造がなかなか摑めなかった人もいたのではないか。でも、気にすることはない。なんだかよくわからない話に乗せられてぼんやり見ていたらそれはそれで心地よいだろうし、それこそが土橋さんのねらいなのかもしれない。(まぁ、それはうそですが)
冒頭で劇場の話が語られる。完全暗転へのこだわりの話だ。真っ暗になった場所、時間の中でセリフが語られる。かなり長い。なんだ、これは、と身構える。でも、話の本題に入ると、忘れてしまうくらいに、そのシーンは置き去りにされる。でも、そこが芝居の外枠になっていて、当然ラストではそこに帰ってくる。その劇場はウイングフィールド自身がモデルになっている。黒くて四角い箱の劇場。それは芝居の中でみんなが求める黒い箱と重なる。開けてびっくりの玉手箱だ。浦島太郎がおじいさんになってしまった、あれ、である。
震災以降をテーマにして取り組む作品だが、真正面からそこに挑むのではなく、まるで無関係なもののようなルックスを持つのは、土橋さんのテレではなく、彼の誠実さだ。自分のアプローチが、独りよがりのものにはならないように、慎重にドラマを組み立てる。今回もそうだ。この海の底には何があるのか。これはそこに向かう旅である。カメが浦島に求めたものは何なのか。自分の命を賭してまで、浦島の助けを信じた。その先にあるものがここには描かれる。答えはない。でも、死にかけのカメが浦島に背負われて歩くシーンが印象的だ。これはそんなお芝居なのだ。
ここには何一つ本当のものがない。その究極が浦島とカメだったりする。元研究者で今では民宿で働く男と、彼の親友で今は駆け出しの小説家。ふたりの再会から始まる物語はストーリーの流れを追わない。小説のネタを探して、ここにやってきたのだが、本当は黒い箱を探している。本当は過去の関係性の清算を望んでいるのかもしれない。ここには様々な想いが交錯する。黒い箱を巡るドラマは、この深い海の底に秘められた様々な想いのサンプルでしかない。これがすべてではないのだ。膨大は物語のほんのちょっとした一端。それがここに描かれたものだ。
冒頭で劇場の話が語られる。完全暗転へのこだわりの話だ。真っ暗になった場所、時間の中でセリフが語られる。かなり長い。なんだ、これは、と身構える。でも、話の本題に入ると、忘れてしまうくらいに、そのシーンは置き去りにされる。でも、そこが芝居の外枠になっていて、当然ラストではそこに帰ってくる。その劇場はウイングフィールド自身がモデルになっている。黒くて四角い箱の劇場。それは芝居の中でみんなが求める黒い箱と重なる。開けてびっくりの玉手箱だ。浦島太郎がおじいさんになってしまった、あれ、である。
震災以降をテーマにして取り組む作品だが、真正面からそこに挑むのではなく、まるで無関係なもののようなルックスを持つのは、土橋さんのテレではなく、彼の誠実さだ。自分のアプローチが、独りよがりのものにはならないように、慎重にドラマを組み立てる。今回もそうだ。この海の底には何があるのか。これはそこに向かう旅である。カメが浦島に求めたものは何なのか。自分の命を賭してまで、浦島の助けを信じた。その先にあるものがここには描かれる。答えはない。でも、死にかけのカメが浦島に背負われて歩くシーンが印象的だ。これはそんなお芝居なのだ。
ここには何一つ本当のものがない。その究極が浦島とカメだったりする。元研究者で今では民宿で働く男と、彼の親友で今は駆け出しの小説家。ふたりの再会から始まる物語はストーリーの流れを追わない。小説のネタを探して、ここにやってきたのだが、本当は黒い箱を探している。本当は過去の関係性の清算を望んでいるのかもしれない。ここには様々な想いが交錯する。黒い箱を巡るドラマは、この深い海の底に秘められた様々な想いのサンプルでしかない。これがすべてではないのだ。膨大は物語のほんのちょっとした一端。それがここに描かれたものだ。