この映画を見たのは、これがなんだか『キューポラのある街』を思わせる映画だ、と思ったからだ。あの映画は僕の生涯ベストワン作品である。吉永小百合演じる中学3年生の少女ジュンが、貧しい暮らしの中でも、明るくけなげに生きる姿を描く青春映画の大傑作だ。北朝鮮に帰る朝鮮人少年との別れを描くラストシーンが素晴らしい。どんなに苦しくても、弱音を吐かずにまっすぐに生きる。ひとりの少女と、彼女の周辺の人たちの姿が胸に沁みる映画だ。『キューポラのある街』から60年。映画にはキューポラはもうないけど、なんとここは同じ川口市だ。
あの映画の吉永小百合と同じようにこの映画の主人公であるクルド人の少女サーリャを演じた嵐莉奈も素晴らしい。彼女が懸命に生きる姿が美しい。少女の一瞬の輝きがこの映画の中には封じ込まれている。それは17歳の今だからこそ可能なきらめきだ。だから、そんな彼女の姿を見ているだけで幸せな気分になれる。困難に直面し、塞ぐこともある。映画の後半は終始暗い表情で時を過ごすことになる。でも、彼女は顔を上げて前を向く。
最初僕は『マイスモールランド』というタイトルを『マイスモールワールド』と間違えていた。最近こういう間違いが多い。年取るとついついこんなふうにいいかげんで、思い込みで、いろんなことを認識することが多くなった。でも、「ランド」と「ワールド」の差がこの映画の大切な要素にもなっている気がする。国と世界。その差と違い。かなり微妙な問題がそこにはある。
それから、先に書いた『キューポラのある街』との共通点だが、思い返すと、この2本の類似は偶然ではない気がしてきた。埼玉の川口市が舞台という共通項。いつも明るい笑顔のジュン(吉永)と暗い表情のサーシャ(嵐)の対比。ふたりには同じように理解者の少年がいる。ジュンを見守る浜田光夫に対しては、同じようにサーシャを見守る奥平大兼を配す。日本に強制連行でやってきた朝鮮人と難民としてやってきたクルド人。元気な弟と、その友人の朝鮮人少年には、ちょっとおませな妹と、幼い弟を。同じように仕事を失う父親。それにより主人公は進学(ジュンは高校進学、サーシャは大学進学)が難しくなるという展開。あらゆるシーンでこの2本の映画は類似している。そして、北朝鮮に帰っていくラストと、この後、故国へ(そんなものはないのに)強制送還されるラスト。これは『キューポラのある街』へのオマージュである。
映画は、クルド人難民の家族の日々を描く。この国ではほとんど難民認定が許可されない。そんな理不尽がまかり通るのか、と唖然とさせられる。だが、この映画はそこを告発するための「社会派映画」ではない。ひとりの高校生女子を主人公にした、彼女がこの国で生きる日々のスケッチだ。表面上は当たり前の高校生活を送る。なかよしのクラスメイトもいる。楽しい時間を過ごしている。だけど、いろんなところで、たいへんな状況はある。クルド人であることの困難。彼らは小さなコミュニティで、肩を寄せ合い生活する。彼女は時にクルド人であることを隠してドイツ人と偽る。何もわからない人たちに対する説明がややこしいからだ。もちろん、それだけではないけど。映画では彼女の揺れる気持ちが繊細に描かれる。この国では、彼らの自由が奪われ、今の居住地である埼玉から出られない、なんていう事実もさりげなく盛り込まれる。そんなのも見ていて「ありえない、」と憤る。見ていて憤りばかりが募る。
彼女には中学生の妹と幼い弟がいる。父親が難民認定を拒否されて、仕事ができなくなる。隠れて働いていて捕まり、入管に収容され、やがては強制送還されることになる。大学進学のためにバイトをしていた彼女も働けなくなる。自由を奪われ、将来の夢も奪われる。それでもくじけることなく未来を見つめる。きれいごとではない。どうしようもない現実が横たわる。だけど、負けない。そんな彼女を見ているだけでなんだか元気になれる。これは17歳の輝きが綴られる映画だ。それだけで胸いっぱいになる。