いつものように何もない正方形の象徴的な舞台空間は具体的なドラマを提示しない。台風によって閉ざされた安全だったはずの空間は、地震によって破壊される。逃げ場として求めた村の消防団の詰め所に来た。だがそこに閉じ込められる。こういう基本的な設定はわかるがそんなことはどうでもよくなる。四角い空間の4人の男たち。彼らを囲んで4人の女たち。台本のト書きは口を閉ざした女たちによって読まれる。男たちのセリフはもちろん彼らがしゃべるのだが、彼らも口を閉ざしたままだ。
きっとこうするのだろうな、思っていた。ただ、役者たちが一切せりふを発することなく演じるということがこういうことになるのかと実際に目にして初めてその異様さに気づかされる。前回(『海神別荘』)は口パクで演じていたからこの異様さはなかった。というより、見ているときには録音音声を使っているということにすら気づかなかったくらいだ。あの時は見ながら「もしかしたら」とは思ったけど、確信は持てないまま見終えた。
だけど、今回は違う。役者たちたちは口を閉じたまま演じる。これはキツイ。口以外の表情やしぐさはそのままで、口だけが閉ざされる。こういう芝居を強いられる。しかも、それを自然に見せる。こういう困難の結果、この作品は今までにない世界の提示に成功した。コロナ禍での感染症対策の一環として取られた措置であることは明白なのだけど、それがどれだけ不気味で異様だったか。
だが、そうすることによってこの作品が描こうとする死者たちの姿はよりリアルなものとなる。彼らがすでに死んでいることは最初から明らかでそこでサスペンスを生じさせるわけではない。いや、彼らが生きていようとも、もうすでに死んでいるのかもどうでもいいことだ。そんなことよりもこの狭くて真っ暗な空間で身を寄せ合い自分たちの今まで、そして今後について語り合う事、それが大切なのだ。さらにはそこに女たちがやってきて今ある自分たちの置かれた状況が明らかになったときそこから見えてくる大きな意味での人の在り方、それが大事だ。タイトルにあるように「われわれは遠くから来た、そしてまた遠くへ行くのだ」という事実。そこでわれわれはどうあるべきなのか、生きているとか、いないとか、そんなことよりもっと根源的な問題が浮上することになる。この作品は単なるレクイエムではなく、人が生きる意味を問いかける。