激動の時代を生きた家族の物語、というよくあるパッケージングで括られそうな映画なのだが、そんな定型のパターンには収まりきらない映画だ。時間が自由自在に前後していくから、最初はとまどう。だけど、これはクロニクルではなく、彼らの人生なのだ。歴史の渦の中で、ただひたすら自分を生きていく。怒濤の70年代から80年代、そして21世紀に突入していく。凄まじい勢いで中国は変わり続ける。そんな時代を背景にして、息子を亡くした夫婦の傷み、彼らが生きた日々が綴られていく。
二組の夫婦が中心になる。そこに彼らの周囲の人たちも当然絡んでくる。全体の構成は昨日見た『ストーリー・オブ・マイライフ』と似ている。しかも説明は一切しないから、わかりずらい。でも、そんなことにはお構いなしだ。お話は恣意的に、連想でつながる。横道に逸れてもお構いなしだ。だから、少しわがままな映画でもある。でも、そこが魅力でもある。3時間5分の長尺になったのも、そういうところが原因だろう。時系列には並んでいない。
ため池で、幼い息子を死なせてしまう。その瞬間が彼らの人生は変える。すべてがそこから崩れていく。取り戻すことはできない。もしあの時、なんて、人生にはない。すべてが終わった後にも人生は続く。映画は、その事故がどうして起きたか、とか、それが夫婦をどう変えていったのかとか、そういうものは描かない。まず、その事実は提示するけど、その説明はないまま、時空が錯綜していく。何が起きたのか、わからないまま、とっ散らかったままで、映画は進む。二組の夫婦、そのそれぞれの息子。同じ日に生まれた2人の男の子。職場の同僚で、友人同士の彼らは家族ぐるみでずっと付き合い暮らしてきた。だが、主人公夫婦の子供の死で彼らの関係も壊れていく。
一人っ子政策の悲劇、中国の大躍進の背景で何があったのか。さらりとそういうところにも触れていきながら、奇跡の成長を遂げた中国の姿を描いていく。だけど、これはそんなことを批判するのでも、肯定するのでもない。彼ら夫婦がその時から、たどった人生の日々を、その結末近くの時間からたどる。その先よりもそこまでの時間のほうが長い。どこまで行っても終わりはない。息子の墓参りに行くラストだって、たまたまそこで映画は終わるけど、それだって人生の一コマでしかない。どこかにポイントを置いて分かりやすく見せるのではない。枝葉のようなエピソードが絡み合い、主人公の夫婦だけではなく、その周辺のさまざまな人生が絡まりあう。
3時間という上映時間は確かに長い。だけど、彼らの人生はもっと長いし、この先もまだまだ続く。ここに描かれる、30年ほどの時間は中国を大きく変えた。僕は北京オリンピック直前の頃、中国に初めて行った。それから何度となく、あの国に行った。数年後に開かれたオリンピックの後、どれだけ大きくあの国が変わったのかをそこで目の当たりにした。まぁ、そんなものはただの旅行者の目で見たものでしかないけど、それでもその急激な変化はただ事ではなかった。だからこの映画の夫婦の生きた時間がなんとなく、わかる気がする。(というのはいささかおこがましいけど。)何かが変わってしまった。もう取り戻しは効かない。大事なものが失われた後も人生は続く。この先、この国がどうなるのか、気になる。