あの小説をこんな方法で映画化するなんて、思いもしなかった。いや、鈴木卓爾なら、きっと思いもしない方法でこれを映画にする、とは思った。そして、この手があるのは、たぶん、わかっていた。だが、これは困難を極める。だが、彼はそれでいく。そうする。それが彼のやり方だからだ。
この小説は、先週読んだところだ。そのことは先日書いた。この原作にはお話がない。ドラマチックなものにも十分なるようなお話なのに、そういう要素を極力排除した。とてもじゃないけど、これでは映画にはならないよ、という原作だ。それを、鈴木監督は、さらなる消去法で、もっともっと際限なく、ドラマを排していったのだ。後に残ったのは、彼らの姿だけ。
彼らがただそこにいるだけ。ただの吹奏楽部のドキュメンタリーかと、見まがうばかり。だが、この静謐なドラマはそこから、生きることの真実へと到達する。彼らの抱える痛みがささいな描写の積み重ねから血が吹き出るように伝わる。これは昨年公開されたすべての映画の中でも屈指の傑作だ。
中学の入学式から、2年のコンクールまでが描かれる小説から、まず、コンクールの部分を排除した。ドラマチックになりそうな最大のエピソードだ。ストーリーの骨格は同じだ。だが、説明は一切しない。だから、彼らの関係性がはっきり伝わらないまま、お話が進んでいく。母との関係も明確には描かない。父親が単身赴任であることにすら気付かない観客がいたのではないか。それが彼の生活にどんなふうな影響を与えるのか、頓着しない。わかるなら、わかればいい、という感じだ。それは小学校のころから彼を虐めていた相田との話もそうだ。ふたりの関係を深追いしない。それは97分という上映時間のせいでもあるが、敢えてさらりと見せることで、この映画にとって一番大切なものを守る。それはこの主人公の少年の心の襞までをも描きこむことだ。説明ではなく、彼から目を離さないことで、それは可能となる。
中学1年の春から、翌年の夏まで。1年半の日々のなかで、彼がほんの少し変化する。吹奏楽部に入部した。パーカッションを担当する。本当は人と関わり合いたくはなかった。なのに、仲間との関係性を大切にするこのクラブに入ってしまった。それは、ただ、音と向き合いたかったからだ。静かにひとり、音と向き合うため。うさぎに誘われて音楽室に来てしまう。
ここにいるみんなも、実は社交的ではない。ただ純粋に音楽が好きだから。それだけ。群れたがる人たちではない。シャイで、いつも楽器と一緒にいる。それだけだ。しかし、だからこそ、一緒にひとつの同じ音を作ることになる。なんだか不思議だ。
もちろん一番不思議なのは、主人公である彼自身である。少しでも早く学校から帰りたかった。一番最後に登校して、一番最初に下校する。そうしたかったのに、一番長く校内にいる吹奏楽部に入部した。
アンサンブルを大切にするこのクラブでは、孤独ではいられない。いる必要もない。最初は音と向き合うためだった。ひとりになりたくて、吹奏楽部に入った。無口で人と関わることが苦手で、怖い。でも、気がついたなら、ちゃんとみんなといた。
ドラマを全面的に排して、ドキュメンタリーのように、彼らの生活をスケッチしていく。そんな中、中心にあるのは音楽だ。音楽室での彼らの練習シーンが映画の大半を占める。楽器と向き合い、音を出す。みんなで音を合わせる。そういう場面の繰り返しで、お話は進展していく。お話の部分すら、短いシーンで、表現される。時にはセリフもなく、ずっとたたずむシーンもある。その積み重ねで、長い時間が描かれる。
ラストシーンの「おはよう、」が胸にしみてくる。自分から相田に声をかけた。登校拒否に陥っていた相田が学校に戻ってくる。彼はもうひとつの自分なのだ、と思う。
生きているって、こういう痛みに耐えることなのだと、思う。これはそんなことを教えてくれる映画なのだ。
この小説は、先週読んだところだ。そのことは先日書いた。この原作にはお話がない。ドラマチックなものにも十分なるようなお話なのに、そういう要素を極力排除した。とてもじゃないけど、これでは映画にはならないよ、という原作だ。それを、鈴木監督は、さらなる消去法で、もっともっと際限なく、ドラマを排していったのだ。後に残ったのは、彼らの姿だけ。
彼らがただそこにいるだけ。ただの吹奏楽部のドキュメンタリーかと、見まがうばかり。だが、この静謐なドラマはそこから、生きることの真実へと到達する。彼らの抱える痛みがささいな描写の積み重ねから血が吹き出るように伝わる。これは昨年公開されたすべての映画の中でも屈指の傑作だ。
中学の入学式から、2年のコンクールまでが描かれる小説から、まず、コンクールの部分を排除した。ドラマチックになりそうな最大のエピソードだ。ストーリーの骨格は同じだ。だが、説明は一切しない。だから、彼らの関係性がはっきり伝わらないまま、お話が進んでいく。母との関係も明確には描かない。父親が単身赴任であることにすら気付かない観客がいたのではないか。それが彼の生活にどんなふうな影響を与えるのか、頓着しない。わかるなら、わかればいい、という感じだ。それは小学校のころから彼を虐めていた相田との話もそうだ。ふたりの関係を深追いしない。それは97分という上映時間のせいでもあるが、敢えてさらりと見せることで、この映画にとって一番大切なものを守る。それはこの主人公の少年の心の襞までをも描きこむことだ。説明ではなく、彼から目を離さないことで、それは可能となる。
中学1年の春から、翌年の夏まで。1年半の日々のなかで、彼がほんの少し変化する。吹奏楽部に入部した。パーカッションを担当する。本当は人と関わり合いたくはなかった。なのに、仲間との関係性を大切にするこのクラブに入ってしまった。それは、ただ、音と向き合いたかったからだ。静かにひとり、音と向き合うため。うさぎに誘われて音楽室に来てしまう。
ここにいるみんなも、実は社交的ではない。ただ純粋に音楽が好きだから。それだけ。群れたがる人たちではない。シャイで、いつも楽器と一緒にいる。それだけだ。しかし、だからこそ、一緒にひとつの同じ音を作ることになる。なんだか不思議だ。
もちろん一番不思議なのは、主人公である彼自身である。少しでも早く学校から帰りたかった。一番最後に登校して、一番最初に下校する。そうしたかったのに、一番長く校内にいる吹奏楽部に入部した。
アンサンブルを大切にするこのクラブでは、孤独ではいられない。いる必要もない。最初は音と向き合うためだった。ひとりになりたくて、吹奏楽部に入った。無口で人と関わることが苦手で、怖い。でも、気がついたなら、ちゃんとみんなといた。
ドラマを全面的に排して、ドキュメンタリーのように、彼らの生活をスケッチしていく。そんな中、中心にあるのは音楽だ。音楽室での彼らの練習シーンが映画の大半を占める。楽器と向き合い、音を出す。みんなで音を合わせる。そういう場面の繰り返しで、お話は進展していく。お話の部分すら、短いシーンで、表現される。時にはセリフもなく、ずっとたたずむシーンもある。その積み重ねで、長い時間が描かれる。
ラストシーンの「おはよう、」が胸にしみてくる。自分から相田に声をかけた。登校拒否に陥っていた相田が学校に戻ってくる。彼はもうひとつの自分なのだ、と思う。
生きているって、こういう痛みに耐えることなのだと、思う。これはそんなことを教えてくれる映画なのだ。