今年77歳になった母親と2人で見に行ってきた。映画の照べえ(この家族は父の提案からみんな「べえ」をつけて名前を呼ぶ。)と、うちの母親がほぼ同学年であることに気付いて、それまで母べえの目線で見ていたのだが、だんだんこの子の目で映画を追い始めることになった。それは原作(野上照代のノンフィクション)も同じだろう。
途中からは照べえ(佐藤未来)の視点から当時の僕の母親の姿(もちろん、僕はその時、生まれてもいなかったが)をそこに重ねて映画を見ていくようになった。まぁこの映画自体の視点も、この子にあり、彼女が母親を見上げるような感じになっている。母親である母べえ(吉永小百合)はもちろんこの映画の主人公ではあるし、彼女を中心にしてドラマは展開されていくが、彼女の目から見た物語ではなく、子供目線で昭和15年から17年という時代を中心にして、この家、家族そのものをみつめていく、というスタイルになっている。
治安維持法により、思想犯として拘留される父べえ(坂東三津五郎)、父のいない不安な日々を体を寄せ合うようにして(文字通り本当に体を寄せ合っている)2人の娘と母は生きていく。一家団欒の姿を(でも、父はいない)何度も重ねて描いていきながら、あの暗い時代を生きた家族の姿を山田洋次はとても丁寧に見せていく。
戦争の中、不安な中で、それでも幸せに1日1日を過ごしていく家族の日々のスケッチである。とても温かくて優しい。彼女たち3人のところには、頻繁に父の妹である久子(檀れい)が訪れてきて子供たちの世話を焼いたりもしている。そんなある日、山ちゃん(浅野忠信)がやって来るところからこの映画は本題に突入する。
山ちゃんは父べえの教え子で、何から何までこの家族の面倒を見る。気付くと彼はこの家になくてはならない人になっている。ぼーっとしているけれど、熱血で、とても優しくて、彼がいるだけで和むし、安心する。どうしてここまで、と思うくらいに世話をする。子供たちは彼が大好きだ。そして母べえも久子も、彼を頼りにしている。(久子は彼を好きになるが、彼が密かに母べえを慕っているのがわかるから何も言えないのが切ない)
このちょっと不思議なおじさんの存在がこの映画にとっても柱となる。彼は山田映画にとって一番大切な存在である『男はつらいよ』シリーズの寅さんのようなポジションにある。もちろん寅さんのような困った人ではないし、誰よりも頼りがいのある人なのだが、とらやにいつもふらっと帰って来て、陰でとらやという家を支えていた寅さんは、この映画の山ちゃんのように、とらやには(家族には)なくてはならない人だったはずだ。寅さんのいないとらやなんて、灯の消えた家と同じだ。ふらっとやって来てみんなを幸せにする存在。彼がいるからどんなに苦しくても、なんだか幸せに生きていける。浅野はひょうひょうと見事な存在感でこの役を演じている。
この映画にはもうひとり忘れられない印象を残すへんなおじさんが登場する。鶴瓶が演じる奈良のおじさんである。この困ったオヤジは、まさに寅さんそのものだ。好き勝手して、みんなに迷惑をかけている。でも、憎めない。母べえは、彼を見ていたらなんだかほっとする、と言う。息の詰まるような毎日の中で、気付くと彼に救われた気分になるのだ。これこそまさに寅さんそのものではないか。
山田洋次は全く変わる事がない。この映画の隅から隅まで、すべてに彼のエッセンスが詰まっている。今、もう一度、この不安な時代の中で、あの頃を振り返り、あの時代を生き抜いた家族の姿を通して人間にとって幸せとは何なのかをしっかり問いかけてくる。
吉永小百合と浅野忠信という新旧2大スターを共演させることで成立する奇跡のように素晴らしい傑作である。自分の心を貫き通して生きることが困難な時代にあっても、しっかり自分自身の本音を大切にし、それを守り生きる。誰もが心の中にそれを隠し持っている。表面では穏やかな表情をしながらも絶対に譲らない。そんな強さがこの映画の底にはしっかり流れている。
途中からは照べえ(佐藤未来)の視点から当時の僕の母親の姿(もちろん、僕はその時、生まれてもいなかったが)をそこに重ねて映画を見ていくようになった。まぁこの映画自体の視点も、この子にあり、彼女が母親を見上げるような感じになっている。母親である母べえ(吉永小百合)はもちろんこの映画の主人公ではあるし、彼女を中心にしてドラマは展開されていくが、彼女の目から見た物語ではなく、子供目線で昭和15年から17年という時代を中心にして、この家、家族そのものをみつめていく、というスタイルになっている。
治安維持法により、思想犯として拘留される父べえ(坂東三津五郎)、父のいない不安な日々を体を寄せ合うようにして(文字通り本当に体を寄せ合っている)2人の娘と母は生きていく。一家団欒の姿を(でも、父はいない)何度も重ねて描いていきながら、あの暗い時代を生きた家族の姿を山田洋次はとても丁寧に見せていく。
戦争の中、不安な中で、それでも幸せに1日1日を過ごしていく家族の日々のスケッチである。とても温かくて優しい。彼女たち3人のところには、頻繁に父の妹である久子(檀れい)が訪れてきて子供たちの世話を焼いたりもしている。そんなある日、山ちゃん(浅野忠信)がやって来るところからこの映画は本題に突入する。
山ちゃんは父べえの教え子で、何から何までこの家族の面倒を見る。気付くと彼はこの家になくてはならない人になっている。ぼーっとしているけれど、熱血で、とても優しくて、彼がいるだけで和むし、安心する。どうしてここまで、と思うくらいに世話をする。子供たちは彼が大好きだ。そして母べえも久子も、彼を頼りにしている。(久子は彼を好きになるが、彼が密かに母べえを慕っているのがわかるから何も言えないのが切ない)
このちょっと不思議なおじさんの存在がこの映画にとっても柱となる。彼は山田映画にとって一番大切な存在である『男はつらいよ』シリーズの寅さんのようなポジションにある。もちろん寅さんのような困った人ではないし、誰よりも頼りがいのある人なのだが、とらやにいつもふらっと帰って来て、陰でとらやという家を支えていた寅さんは、この映画の山ちゃんのように、とらやには(家族には)なくてはならない人だったはずだ。寅さんのいないとらやなんて、灯の消えた家と同じだ。ふらっとやって来てみんなを幸せにする存在。彼がいるからどんなに苦しくても、なんだか幸せに生きていける。浅野はひょうひょうと見事な存在感でこの役を演じている。
この映画にはもうひとり忘れられない印象を残すへんなおじさんが登場する。鶴瓶が演じる奈良のおじさんである。この困ったオヤジは、まさに寅さんそのものだ。好き勝手して、みんなに迷惑をかけている。でも、憎めない。母べえは、彼を見ていたらなんだかほっとする、と言う。息の詰まるような毎日の中で、気付くと彼に救われた気分になるのだ。これこそまさに寅さんそのものではないか。
山田洋次は全く変わる事がない。この映画の隅から隅まで、すべてに彼のエッセンスが詰まっている。今、もう一度、この不安な時代の中で、あの頃を振り返り、あの時代を生き抜いた家族の姿を通して人間にとって幸せとは何なのかをしっかり問いかけてくる。
吉永小百合と浅野忠信という新旧2大スターを共演させることで成立する奇跡のように素晴らしい傑作である。自分の心を貫き通して生きることが困難な時代にあっても、しっかり自分自身の本音を大切にし、それを守り生きる。誰もが心の中にそれを隠し持っている。表面では穏やかな表情をしながらも絶対に譲らない。そんな強さがこの映画の底にはしっかり流れている。