湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」

2017年09月28日 | チャイコフスキー
○ハイフェッツ(Vn)ピアティゴルスキー(Vc)ルービンシュタイン(P)(RCA,BMG)1950/8/23,24・CD

この三人組の中ではいちばん分が悪いピアティゴルスキーが曲のせいか少し表に出てきて危なげの無い技巧をみせているが十分にその渋い魅力を発揮しているとは言い難い。かなりヴァイオリンとバトルを繰り返す楽曲にもかかわらず、圧倒的なハイフェッツの力(技巧は当然のように満たされていて、その上に「力」である)の前に聴き劣りは否めない。ハイフェッツだってラフだしルビンシュタインにいたってはてきとうに弾き流したりしているのだが、楽曲がドロドロの余分だらけのチャイコであることからしてもそういうあるていど流すスタイルのほうが爽やかで素直に旋律を聞きやすい。だからピアティゴルスキーはこれはがんばっているほうだけれども、ハイフェッツに歩み寄りをみせて音色を似せるなどすればきちっとアンサンブルとして聞けたと思う。まあ、とにかくハイフェッツ、とくに壮年期までのハイフェッツは「弦の王」であることを認めざるをえないです。どういう手だ。○。

※2007/1/17の記事です
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☆チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

2017年09月27日 | チャイコフスキー
○アーベントロート指揮ベルリン放送交響楽団(TAHRA)1950/11/28・CD

ちょっとびっくりするようなリリースだったわけで、録音状態もそんなによくはないがもともとなのかリマスターのせいか弱音部がなくひたすら強い音でガシガシ攻めてくる感じで驚いてしまう。いや、驚かされるのはそんなところじゃなくて極端なテンポ設定の変化、しょっちゅう止揚しそれでも重量級の歩みを止めないデジタルなルバートとかいったところで、縦が大事なドイツ解釈というのにそこに軋みを生じさせすらする嵐のような解釈ぶり、しかもちゃんとついていこうとするオケの反応ぶりには、目隠しして「晩年のシェルヒェンのライヴ」と言われても信じてしまいそうなくらいのものがある。まったく久々にこういう「奇演」を聴いた気がして懐かしいとともに、録音状態をまったく加味しなかった昔なら◎つけたろうなあと思う(ちなみに当のシェルヒェン盤(TAHRA)は凡演)。まあ、2楽章のものすごい作為的な遅さとか、3楽章の縦の揃った重量級の見得切りとか、4楽章の極端なテンポダウンと後半の慟哭のルバートとか、トスカニーニなどに慣れていたら顎が外れて超合金の頑丈な顎に付け替えられるくらいの衝撃を受けるだろう。いや、けっこうこういう解釈はあるのだが、きちっとした演奏にかえてしまえた指揮者というのは限られている。チャイコ晩年の音というのは中低弦の充実したかなり人間の声に近い緻密なものがあって、終楽章後半のひびきをこの音質で聴くとまるで高弦が歌いボントロが追随する下に、男声合唱がエコーを加えているような錯覚をおぼえさせられる。これがプロの作る音響なのだ。

※2007/3/8の記事です
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☆チャイコフスキー:交響曲第6番

2017年09月25日 | チャイコフスキー
○クーベリック指揮バヴァリア放送交響楽団(SOUNDS SUPREME:CD-R)1974/12・CD

近い年代の盤が廉価で出ている。こっちははっきり言ってそれほど録音状態がいいわけでもなく、別に持っている必要があるとは断言できないしろもの。クーベリックらしい直球勝負の火の玉演奏で、4楽章の感情的なグイグイもっていき方も、一方では2楽章の楽しげなワルツも実にいい。3楽章は勿論盛り上がるが圧倒的かというとそこまではいかないか。盛り上がっているけどクーセヴィツキーなんかに感じられる異様な力感はない。響きはやや雑なこのオケらしさが出ているもののライヴにしては精度はかなり高いほうだろう。ヴァイオリンの対向配置をかたくなに固持したクーベリックだが、途中あきらかにステレオ効果は聞こえるものの、終楽章冒頭など音の融合具合が豊穣で引き裂かれた旋律が引き裂かれたように聞こえない。録音のせいかもしれない。悪くはないが、特筆すべき演奏ではない。ライヴなのか不明。○。

※2005/2/23の記事です
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☆チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」

2017年06月13日 | チャイコフスキー
○ルイス・カウフマン(vn) クルト・レーラー(vc) テオドル・サイデンベルク(pf) (VOX)

稀に見る超即物的演奏である。憂いのない、かといって屈託ないわけではない。非常に純粋にテンションが高い。音は常に太く大きく、テヌートすることは決してなく、みな音を短く切り上げる。全て、である。余りにすぐに切ってしまうので紛れもない即物的演奏と言うのである。しかしさすが物凄いテンション奏者カウフマンのぶっといヴィブラート、これが迫力満点で、振幅が大きいのに全くブレがない。他の奏者もかなり巧い。決してのめりこむことはない。しかし、スポーツとしては非常に楽しめる。○。カウフマンは凄いとしか言いようのない迫力演奏家だ。あと、変なパウゼの頻発は録音の継ぎ目?

※2007/2/7の記事です
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☆チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

2017年06月02日 | チャイコフスキー
○パレー指揮デトロイト交響楽団(DA:CD-R)1963/1/9live

1楽章は雑な始まりかたでやる気を感じないが、緩徐主題の異常な素っ気無さは健在。ここまで新即物主義的な表現だとかなり変な感じがする。さっさと終わらせられるしっとりした場面のあと、テンペストってかんじのトゥッティに入るとオケの集中力が一気に凝縮され爆発。凄まじいパレーが聴けて、ここに持ってくるための布石か、と思わせる。このあたりの力強い揃い方は冒頭と同じオケとは思えない。緩徐主題の回想はスピードこそ速いインテンポなものの、弦の総力を結集して思い切り歌いあげる。こういう設計なのである。運命の鼓動がリズミカルに刻まれ爽やかに終わる。ほとんどおんなじ調子の2楽章も力強いテヌートで貫かれ、速いインテンポのまま音量変化で曲想を継いでいく。「チャイコの憂い」は足りないが無いわけではない。

3楽章冒頭からはさすがにこの高速でスピッカートが維持できず一流オケとの差が出てしまう。反面管楽器群のアグレッシブでスリリングな吹奏は拍手もの。ティンパニもダンダン響いて、音楽は恐竜パレーの独壇場になっていく。ある意味トスカニーニより新即物主義を貫いた演奏と言えるだろう。ここまでドライに突き通したスポーティなライヴはなかなか無い。雑味はあるけど、客席で聴いていたら間違いなく圧倒される怪演。ガシガシという軍隊行進曲のようなリズムに、黄金期デトロイトの自動車工場の機械音を聴け(謎)いつまでもスヴェトラとか言ってんじゃないよ。表現の幅ではミュンシュには及ばないけど。それにしても案外素晴らしいのは管楽器。アグレッシブな木管に拍手。いや拍手には早い。

4楽章はさすがにやつれた表情をきちんと出してくる。ある意味常套的でもある。やや即物的表現を保ちスピードもつんのめり気味なところもあるが、テンポ・ルバートが巧みに取り入れられていて違和感がない。意外と泣きの旋律に感情移入して、歌っている。フランスはチャイコ嫌い国と言われながらも結構好む指揮者がいるのだ。とにかくスピードが速いのであっという間に死の挽歌が低音ブラスから提示され、弦が入ると分厚くスピーディにちょっと盛り上げてしまうけれども、低弦が強く音量バランス的に突出はしない。余韻の無い演奏で心臓はあっさり発作的に止まり拍手も入りやすそうだ。独特の悲愴ではある。○。

(参考)パレーは協奏曲伴奏以外にチャイコの大曲を正規録音していない。かわりにこれまた独特のラフマニノフの2番シンフォニーを挙げておく。
フランク:交響曲
パレー(ポール)
ユニバーサル ミュージック クラシック

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交響曲第5番非正規盤についてはこちら

パレーについてはこちら

※2008/6の記事です
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☆チャイコフスキー:弦楽四重奏曲第2番

2017年05月30日 | チャイコフスキー
○コミタス弦楽四重奏団(COLUMBIA)LP

アルメニアの団体でコミタスは西欧向けの名称。ソヴィエト時代の名カルテットの一つだが、やや客観的で整えた演奏ぶりが比較的新しいロシア系団体の芸風に近い感じをあたえる。たとえばショスタコーヴィチ四重奏団といったところだ。ただ音色にかんしていえばより国民性というか時代性を感じさせる艶めいたものがある。この曲は西欧のやや古風な楽曲に回帰したような作品で、他の室内楽作品もそうだが1番などに比べると一層大規模楽曲向きのしっかりした楽想と構造を持った内容である。グラズノフの弦楽四重奏作品、とくに4番あたりに強い影響をあたえた(ロシア国民楽派内の)西欧折衷派らしさが遺憾なく発揮された極めて構造的な作品ということができる。渋いけれども「ロシア国民楽派」の純器楽曲書きの中ではずば抜けた技術と個性をもっていたことを証明する作品の一つであり、比肩しうるとすれば同国同時代ではボロディンくらいだろう。

終楽章が何といっても聴き物で、シンフォニーの5番あたりに近い聴感というか、カッコよい騎馬民族的な附点リズムの上でファーストがろうろうと歌うチャイコフスキー旋律、第二主題が余りに有名だ。ディープに聞くなら展開部の当時のロシアとしては異常に込み入ったフーガの書法に寧ろ着目すべきだが、あくまで格調高く引いた態度でせっし激情を持ち込まないことで見通しをよくするようにつとめたコミタスは賢明といえるだろう。2楽章のヘンなリズム(チャイコの室内楽の特徴であり国民楽派でいられたゆえんの民族的なリズム)を除けば同曲中ではダントツで訴える力の強い壮大な楽章であり、旋律の力も非常に強いため、却って楽曲構造的にこの中間部分がしっかり聞こえてこないとたんなる演歌の「つなぎ」と聴き飛ばされ、肝心の構造的意図が聞き取られず浅い楽曲と捉えられる可能性が高い。再現部で第二主題が壮大に再現される部分を生かすためには、このアンサンブルの見せ所はきちっと整えしっかり地盤を作りそのあとの上向音形から再現部への盛り上がりを演出しないと、といったところだ。個人的に再現部からコーダはもっと激してもいい気がするが当時の流行りのスタイルかとも思った。○。

※2007/1の記事です。
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☆チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番

2017年04月25日 | チャイコフスキー
○オボーリン(P)ガウク指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(VistaVera)1954/9/25live・CD

オボーリンの硬質で細部までおろそかにしないしっかりした表現が煌びやかな技巧の中から浮かび上がってくる演奏。ガウクは管弦楽曲ではグダグダな演奏をするのに協奏曲の伴奏は素晴らしくソリストと一体化して力強い共同作業を行っている。アグレッシブな終楽章ではこのソリストに珍しく派手なミスタッチも聴かれるが気にならないほど全体が音楽として成り立っている。面白いし飽きない。旧さに比して録音復刻状態もよい。ミスを引いて○としておくが個人的にこの曲のベストの一枚。
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☆チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

2017年04月21日 | チャイコフスキー
○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R/naxos他)1938/10/29live・CD

大変に立派な演奏。3楽章最後に盛大な拍手が止まらなくなってしまい、そのせいか4楽章冒頭が欠如してしまうという致命的な状態と、ピッチが低すぎるゆえこの評価にとどまった(DA盤の感想・naxos盤を確認したところピッチもおかしくなければ拍手はきっちり収まって冒頭より欠落なく四楽章に入る。同じ演奏なのだろうか?)。同年代の録音としては驚異的なクリアさで、トスカニーニが元気だったころのチャイコがここまで確信に満ちてびしっと表現され、板についたものとなっていた(即物的解釈なのに全くそれを感じさせない迫力が維持されるのだ)ことを認識させられなおした。とにかくこれを何度聴いても納得するだろう。ガウクのことを前に書いたが、言い方は悪いがガウクともレベルが違うとかんじた。バラケなんかもあるのだが、それが全く気にならない。3楽章は誰がやってもああなってしまう、とはいえスピード勝負とも言い切れない細かい操作がなされ決して手を抜いたり何もしない解釈にはなっておらず、録音状態というものの重要性を認識させられなおした部分もある。悲愴にはM&Aでステレオ完全補完版が出て話題になったが、それは聴いていないけれども(元の放送音源のほうはDAで聴いている)たぶんやはり、年齢の問題で決定的に完成度に差があることは確かだ。

トスカニーニの同世代でこんな垂直な演奏をやった人がいただろうか。しかし、垂直といってもそのフォルムの美しさは近代建築の美しさに通じるものだ。

(参考)トスカニーニの悲愴録音(特記しないものはNBC交響楽団)

1938L private(10/29?)
1938/10/29L DA/naxos/youtube
1941/4/19L music&arts/naxos
1942/2/8(18?)S Phila.O. IDIS/youtube
1947/11/24S RCA
1954/3/21L(stereo) music&arts/DA/IDIS/youtube
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☆チャイコフスキー:交響曲第5番

2017年04月17日 | チャイコフスキー
○ストコフスキ指揮デトロイト交響楽団(M&A)1952/11/20LIVE・CD

以前DAで抜粋を取り上げたが、試験的にステレオ全曲録音として残されたものの復刻である。無謀なカットや指示無視・勝手なアーティキュレーション付けに奏法指示などいちいち指摘していたらブログサーバがパンクするので書かないが、聴衆もわきまえていて1楽章の最後で拍手をし後の楽章間の意味不明なアタッカも受け入れて、やたらアグレッシブなころのストコ芸をアグレッシブなオケで楽しんでいる。いや、ほんとどうやっても崩しようのないかっちりした曲をこうも自分にたぐり寄せるか、といった次第で、この曲に飽きたかた・・・私含め・・・にはお薦めである。ゴージャスな響きより力わざでねじ伏せていく、素っ気ないところはとことんあっさり速く通してしまうなど、新しいものではなかなか聴けないストコ全盛期の精力的な指揮解釈ぶりが楽しめる。録音状態はけして良くはなく、正規盤としてはどうかと思う電気的雑音や高音割れ、部分的な左右位相逆転など問題はあるが、時期を考えるとデトロイトのこの時代のソリッドにアバウトな響きを聴けただけでもよしとすべきだろう。前プロの無名作曲家アブシャロモフの変な曲となぜかクーベリックがマーキュリーのオケを振ったタボールとのカプリング。
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☆チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」

2017年03月08日 | チャイコフスキー
◎アシュケナージ(P)パールマン(Vn)リン・ハレル(Vc)(EMI)1980/1・CD

評判悪い盤だと思ったのだが15年ぶりくらいに聴いてけっこう仰天した。もちろん録音マジックもあるのだろうがとにかく各人の幅のある表現力(あくまで表層的なアーティキュレーション付けなどの範疇だが)に音色の(一部単調で浅薄な部分もあるが)美しさには平伏である。アシュケナージの柔らかな抑制こそが美しいピアニズムが飛び抜けているのは言うまでもないが、パールマンも諸所に伸びやかかつ感情的な表現がはっとさせられるところがあるし、ハレルの音がよく拾えていて(この曲のチェロは普通だとピアノの左手の音域と同じだったりヴァイオリンとユニゾンだったりと何かと埋没しがちなのである、ロストロ先生でさえ)、この人は前から私は好きだったが何故マニアに疎まれることがあるのかよくわからない。表現力のあるボリュームたっぷりの奏者だと思う。そして全体のアンサンブルの調和もすばらしい。三者解釈が合わされ尽くされ、全体設計も非常に上手く作り上げられている。諸所若さというか浅薄に聞こえるところもあるしよく聴くと集中力にムラのある奏者もいるし、変奏フィナーレ(B部)のヴァイオリンなどいかにも最近よくある全て「飛ばし」で弾くことで粒だった正確なアンサンブルが構じられるものの客観性が表立ってしまいちょっと冷静になってしまった。最後の葬送リズムにのった1楽章主題のリヴァイヴァルは確かに譜面指示以上にルバートして唐突感を抑えようとしているがここはちょっとやはり唐突感を拭いきれていない。いや難しいのだけれども。演奏するうえでは非常に参考にできる演奏であり、往年の演奏が好きな向きにはどうかというところもあるが、今の聴衆にとっては最高のレベルのものと受け止められえるものだと思う。◎。
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☆チャイコフスキー:交響曲第6番

2017年02月21日 | チャイコフスキー
トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R/MUSIC&ARTS/IDIS)1954/3/21live・CD

DAはリハ付。本番は何とステレオ(一部モノラル、M&Aは入念なリマスターと擬似ステ化により補完しているとのこと)だが音が軽くまるでデルヴォーの悲愴を聴いているような軽量級の感覚があったのと、トスカニーニとは思えない人工的で生気の感じられない造形が随所にみられ、アンサンブルの弛緩のさまは1楽章の展開部でフーガ構造が完全に崩れ弦が崩壊してしまって木管にまで波及しているところに最もあらわれている。完全に「年齢を感じさせる」演奏になっている。巨匠系指揮者は感覚の鈍化を遅いテンポで補うものだが、この押しも押されぬ前世紀最大の(「最高の」かどうかは人により見解が違うだろうが)指揮者は高齢の中いきなり衰えが堰を切り引退したわけで、それにしてもこれはよくよく聴こうとすれば素晴らしいリズム処理の形骸は聞き取ることはできるものの、ちょっとかなり・・・である。凡百とは言わない、けれどもトスカニーニらしさがもう活かせない状態にまできてしまっていたのか、とちょっと残念に思うのも確かである。後期即ち録音時代のトスカニーニはそれまでよりも即物性が強くどんどん性急になっていったように言われているが、最晩年は少なくともスピードは落ちているし、メカニカルな魅力がもはや失われてしまう寸前までいっていたのだ、と思わせるところがあります。ひょっとしたら案外モノラルで巨匠と呼ばれている指揮者たちも、ステレオの明るみに出したらこんなもんなのかなあ(もちろん録音に限ってですよ)、というちょっと落胆するようなところもあった。「記憶力減退」とはこういう状態だったのだとわかります。いや、4楽章が意外と深刻でいいんですけどね。無印。4/4の引退決意公演の僅か前、そちらのワグナープログラムもM&Aで復刻されている。
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☆チャイコフスキー:交響曲第4番

2017年02月09日 | チャイコフスキー
○コンヴィチュニー指揮ドレスデン・シュターツカペレ(VIBRATO:CD-R)1960/4/23

おおむね勢いのある演奏振りで清清しい。2楽章(の一部)と4楽章(のテンポ)はややダレるが、4楽章については大仰な大音響で煽るのがこの人のやり方なのでテンポが重いのは仕方ない。バレエではなく歌劇の終幕のような構成を想定しているように聞こえる。出色は1楽章の攻撃性と3楽章のピチカートの胸のすく疾走ぶり。コンヴィチュニーはどんくさく感じることもあるが、縦 ばかり気にして客観性が強いドイツ系にありがちな指揮者ではないので、うまくハマると重くも力強い音と良く揃った剛直さを兼ね備えた破格の勢いに圧倒される。けしていつも万全ではないし、この人の4楽章は私も余り好きではないが(ルスラン張りに疾駆してほしい)、緩徐部などオケの分厚い響きをよくうねらせて男らしい叙情を感じさせる。オケはちょっと鈍重で機能性に問題があるがこの時代からすれば別に問題はなかろう。1楽章ファンファーレの再現が、直前の部分の音量と差がなく余りしっかり印象付けられないが、その後の暗黒はいい。もっともそこから英雄が復活するところは律儀なテンポで、どうもカタルシスが得にくい。しかし音響は派手になっていきコーダは実に胸のすくスピード感を伴い、この指揮者のいいところがしっかりと出る。チャイ4の演奏、しかもコンヴィチュニーの非ドイツものとしてはなかなかいいと思う。○。

(参考)店頭では非正規盤が出ているが現役盤ではないようだ。コンヴィチュニーは時代柄仕方なくロシアものも振った。参考までにフレンニコフの現役盤。カルミナも入っていて御得盤だが非正規ゆえ品質は保証しない。別項にも記述。
ブリテン:DIVERSIONS(左手のためのピアノ協奏曲)、フレンニコフ:交響曲第2番、オルフ・カルミナ・ブラーナ

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☆チャイコフスキー:ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」

2016年12月15日 | チャイコフスキー
○バシュキーロフ(P)ベズロドニ(Vn)ホミツェル(Vc)(MELODIYA)STEREO

実に軽やかに自然な流れが出来ていて、非常に美しい。いい意味で聞き流せるというか、ヴィルツオーソの顔合わせの類の多い曲であるがゆえに、この「アンサンブルの手本」のような演奏ぶりには耳からウロコ。そう、ピアノ三重奏はソリストの顔合わせ用の編成じゃない、こういう各声部が完全に有機的に絡み合い、どこにも突出したところがない全体として非常に音楽性の高い「アンサンブル」に仕立てることが可能なのだ。バシュキーロフ先生をはじめとしてロシアの若きテクニシャンたちは殊更に自己主張するでもなく、まるで四重奏を演奏するようにこの曲を組み立てている。こういう観点から演奏する団体があっただろうか?少なくとも録音として残されているものには「ロストロ先生」「リン・ハレル」「百万ドルトリオ」などといったものばかりが目に付き、そのどれも魂を揺さぶられる熱演であったりもするけれど、いささか油っぽく胃にもたれる。はっきりいって変奏曲を全て聞きとおすのは至難のわざだ。しかしこの軽やかな演奏には無理が無い。無個性が逆に各声部の融合をいっそう緊密なものにして、おおらかではあるけれども技術的な隙は一切無い。この曲の「悲愴さ」が苦手な向きにはぜひお勧めできる。若手やセンセイがたにしかなしえない「無為の為」かもしれない。○。LPはモノラル盤もあるが同一演奏。フィナーレの提示部後半(再現部でオクターブ低い部分から始まる)が全カット(カット可と原譜指示もある箇所だが、指示より大きい気がする。。)という点は痛い。
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☆チャイコフスキー:交響曲第6番

2016年09月10日 | チャイコフスキー
○ガウク指揮レニングラード・フィル(新世界レコード、CBS?)1958/5/12日比谷公会堂live・LP

モノラル。この来日記念盤PLS-44、たぶん手に入りません。聴きたい方は国会図書館へ行きましょう。ここの盤もけっこう古びて音が荒れています。かつてマニアが少なかった頃は普通に出回っていたようですが、同時発売の白鳥の湖抜粋EPのほうは国会図書館にもありませんのであしからず。

1楽章。録音自体の問題として、元からかなり音量が小さい。篭るのは会場のせいか。レニフィルはソビ響と違い合奏の音の揃い方が違う。ガウクら自身が認めているとおり当時最高の演奏家がオケマンとして集められていたのがムラヴィンスキーのレニフィルなのであり、たとえばムラヴィン英国録音のDGのチャイコが貶められるのも二軍オケしか持ち出せなかったためとも言われる。ここで聴かれるレニフィルがどのような構成なのかはわからないが、他のロシアオケとは土台から違うことは確かだろう。引きずるような序奏のあと、ややきつめのアゴーギグがムラヴィンとの違いを示す。高音がほとんど伸びず音量変化が聞き取りづらいので、音量的な盛り上がりはわかりにくい。緩徐主題はテンポ的には余り粘らない。しかしレニフィル弦の艶のある音とささやかに伸縮する音符がムラヴィンとの違いを出している。ロシア式ホルンをはじめブラス陣の艶も揃っていて綺麗だ。意外とテンポよく展開部が進んでいく。けっこうインテンポであることを意識しているかのようだ。二度目の緩徐主題で一気に表情がつき、やっとガウクらしい見得を切るような表現も聴かれる。そのあとの沈潜も中々に哲学的である。

運命の一打でザッツがやや乱れる。しかしここから雑味をも味とするガウクの本領発揮だろう。ロシア式に開放的なボントロの響きからじつに艶めいた赤銅色に揺れるホルンの音色、ガウクらしい拡散傾向をはらみつつ曲はしかし比較的インテンポで進む。この性急さもまたガウクなのだ。テンポが前に流れそうになるほどで、タメは一切無い。チャイコらしいソロの掛け合いはさすが完璧である。それにしても、録音が弱い。重量感のあるクライマックスはドラマ性に満ち、三回目の緩徐主題の再現を待つ。しかし再現部のテンポは割合とまたあっさりしており、細かい抑揚で表情をつけている。洗練された感じが、少しガウクのイメージに無い。それほど灰汁の強い表情付けのないまま沈潜するように1楽章は終焉へむかう。最後のクラのソリスティックな伸縮にのみテンポの揺れが認められる。コーダは録音特性でブラスのボリュームが出ないが、荘重なテンポで落ち着いた行進がきかれる。全般、かなり長いと感じた18分7秒。

2楽章は編集が性急でいきなりアタッカでなだれ込むように聞こえるがじっさいは5秒ほどあいているはずである。颯爽とした速いテンポで弦の旋律表現が木管へ受け渡されじつにムラヴィンぽい完璧なアンサンブルが、逆に引っかかり無く進んでいく。このレベルを一回性のライヴで!すごい。バランスのものすごくとれた演奏であり録音である。第二主題の暗黒への鮮やかな切り替えはガウクらしいコントラストで、こちらのワルツはアゴーギグがつけられ結構強いボウイングでアタックをつけテヌートを駆使し、意外と表情が変化している。休符の取り方も面白い。木管はあっさりしているが弦はかなり気が入っている。ヴィブラートが音色を揺さぶる。そのまま速いテンポで三部目に突入すると、表情自体けっこう抑揚がつけられたまま、「ああオケ暖まってきたな」といった自然な起伏が流麗の上に引き続き聞かれるようになる。テンポがとにかく粘らないので人によっては不満もあるかもしれない、非常に速いワルツである。やさしく旋律断片の受け渡しがなされていき、最弱音のピチカートと、いささか短く切り詰められた低音ブラスでさっさと終わる(編集・収録時間のせいかもしれない)。

3楽章。そくっと弱音から速いテンポで始まるスケルツォ。しかし少しバラけている。ムラヴィンならこれは無い(しかし大抵のオケはバラける)。気合のテンポ指示声が僅かに入り、少し音色のバランスの悪いブラス間のフレーズの受け渡しから弦の刻みによる結構激しい山にのぼりつめ、主部に入る。勇壮な正攻法の行進曲で、テンポは相変わらず速い。行進曲になるとかっちりし、合奏も乱れなくなる(そういう書法なのだが)。冒頭のスケルツォ動機の再現はいくぶん「まし」である。みなテンポとリズムを手中にとれたのだろう。ややアバウトさが出始めるが、曲自体雄弁なので「ガウクだ!」と思わせるだけに留まる。迫力の行進曲再現でもタメもなく突進していく。ティンパニの律せられた打音が印象的である。

しかしやはり「レニフィルの」アレグロであり、ガウクのアレグロではない(ガウクがこのオケの自発性にまかせれば十分、と自ら言っていたように)。ブラスのテヌート気味の表現などを除けば感情的な「ガウク要素」は薄いかもしれない。そのために、完成度が上がっているとも言えそうだが。。クライマックスの壮麗な表現も引き締まったリズムの上にきっちりとまとめられて終わる。もう少しバス領域の音圧が欲しい。8分39秒。

そして、問題の4楽章である。この演奏でガウクを聴くならこの楽章しかない。

いきなり止揚する「ロマンティックなテンポ・ルバート」に驚かされる。つか、ここってファーストとセカンドが両翼で一音ずつ交互に下降メロディを形成する分裂症的なところで、モノラルだからいいものの、こんなに抑揚をつけるのも至難だと思うのだが、一本の図太い旋律線として揺れまくって聞こえるのがすごい。レニフィルの「弦にかぎっていえば」いかに音色が揃っているかの見本だろう。ふつうのロシアオケでは音色は西欧ほど揃えない。それはソヴィエト時代にソリストとして育てた音楽家をオケに投入し続けるというものすごく贅沢なことをやっていたことに起因するのかと思っていたが、その中でも飛びぬけて技術的に高い連中が集められてできたオケとされるレニフィルの弦の音がこうもしっかりひとつに作り上げられていることに感銘を受けざるをえないのだ。

この音楽にのみガウクがいると言ってもいい。これぞガウクの起伏である。泣きの主題にいたっては、まさに「そくっと」始まり、感情のままにアッチェルし、また止まり、ホルンの甘い音色とまた別のレベルで、慟哭する。高音の弱い録音がそのボリュームを捉えきれていないのが残念。

しかし暗くはない。ここは非常に印象的なブラスの強い朗誦と弦の歌う感情がないまぜになった、男らしい「ガウク」である。この曲には印象的なパウゼがあるが、いずれも非常に厳しく、いつ終わるかわからないほど長い。序奏主題の再現(ここは旋律線がきちんと一声部に統一されている)はもう強いアクセントと聞こえないくらいの小音を組み合わせた「高潔な演歌」である。ヴァイオリンの弦に叩き付けるアタック音が尋常じゃないくらい聞こえてきて背筋が凍る。どんどん暗くなってゆく。小アッチェルのあと、ドラマティックにうねり続けるレニフィル、このあたりで暗さはすごいことに至っている。静かな銅鑼、重く小さいコラールのあと、再び弦が主主題の断片を中低音で思いっきり再現し、ここでレニフィル低弦の力感は抑制され、そのぶん緊張感をもったまま、運命の心臓の鼓動は止まる。

こんな凄い4楽章は初めてだ。9分41秒かかる。
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☆チャイコフスキー:交響曲第7番(ボガチレフ補筆完成版)

2016年09月03日 | チャイコフスキー
ギンズブルグ指揮ソヴィエト国立交響楽団(VICTOR/MELODIYA)1962/7

有名な珍曲で今更何をというかんじではある。断片だけなら企画もので取り上げられることもある。有名なところでは新し物好きオーマンディ盤があげられる(現役かどうかしらないが)。もともとは未完の変ホ長調交響曲として悲愴の前に位置づけられているもので、1楽章のほぼ完成版と他楽章はスケッチのみという形で残された。1楽章についてはとくに悲愴初演直前の93年10月にピアノ協奏曲第3番1楽章、即ち遺作として転用完成されている(2,3楽章はピアノスコアのみ)。ちなみにピーコン3番はタネーエフが1楽章初演をにない2,3楽章のオーケストレーションを施して「ピアノと管弦楽のためのアンダンテとフィナーレ」という作品に仕上げている。

ボガチレフはチャイコの原譜にピーコン3番とタネーエフ補筆版の「アンダンテとフィナーレ」を参考に4楽章の大交響曲を完成させたが、それはもう戦後55年になってからのことであり、西欧では61年に出版されたとたんオーマンディが定期で取り上げたのがよく知られるようになったゆえんである。したがってこれはまずもって「チャイコのシンフォニー」とは言い難いものであり、破棄された断片による校訂参考版としてはマーラーの10番にすら及ばない「薄さ」である・・・チャイコは事実上この交響曲を「断念」し、素材は他の曲に転用したのだから。「人生」という副題もチャイコが想定していたとはいえ完成しなかったのだから絵に描いた餅である。

正直、この曲は楽章ごとにかなり印象が異なる。1楽章など叙事詩的で、冗長な流れはマンフレッド交響曲に近いかんじもある。また全曲の印象としては「二流(三流ではない)ロシア国民楽派作曲家の交響曲」といったところもあり、チャイコらしい創意や気を煽る独特のノリは余り感じられない。特にグラズノフの作風を髣髴とさせるところが随所にある。

ギンズブルグはロシアでは端整な指揮をする人とされていたような感があるが、適度に客観的で引き締まっているもののロシア的な豪放さ・アバウトさも宿らせたメリク・パシャーエフとガウクの中間のような芸風をもっている。マニアにはそれなりに人気があるものの余り録音が出てこない。1901年生まれであったか、その点からすると決して新しい人ではないのだが、ポストにそれほど恵まれなかった人であることからしてそうそうたる大指揮者の間に埋もれてしまったということだろう、現在の知名度の低さは。ポーランド生まれのモスクワ音楽院育ちであり、指導者としてご記憶の人も多いかもしれない。

1楽章はチャイコの習作としてみなしていいものだろう。非常に冗長である。同曲の中ではやはりだんとつに創意がみられるものの、シンコペとか音選びがフランクぽかったりワグナーふうだったり迷いがみられる。西欧折衷派ならではの表現と言うならばそれこそグラズノフの中期以降の交響曲に非常に接近していると言ったほうが適切だろう。この年代にはチャイコにとって子供のような年のグラズノフも既に交響曲作家としては晩年にあり、当時のロシア・アカデミズムの混沌が象徴されているとも言うべきところなのかもしれない。ギンズブルグの切っ先は決して鋭くないが雄弁ではある。とにかくこの曲はこの楽章でまずは判断すべきで、あとの3楽章は蛇足。

2楽章・・・何この幸福感。切羽詰まらないところがチャイコの晩年らしからぬ安定感を煽り、むしろアメリカで安定しきったころのラフマニノフ晩年の作風に似た雰囲気をもっている(3番交響曲のような)。雰囲気というか、息の長い木管ソロの扱いが似ていて、震えるロシア奏法でやられると完全に同じ領域にいる感じがする。1楽章との統一感に欠ける感は否めない。グラズノフ的なところもある。

3楽章は弦楽器の短い装飾的な音符によるかけあい・フーガ構造やらチャイコ特有のフレーズの癖やらが、やっと「らしい」感じをもたらす。だがわざとらしい。ほとんど旋律の魅力と、バレエ曲から剽窃した素材がモザイク状にでこぼこに組み合わされたような感じである。普通に聴けば楽しめるが、この位置で、しかもチャイコ晩年作として聞くとどうか。

4楽章は「それらしく」大仰な構えで始まるが。オーケストレーションの薄さは否めない。「西欧折衷派ならでは」という感じの曲で、チャイコというより「あのあたりの作曲家」といった風情のモスクワ臭いものだ。教科書的によく作られているが正直威容をほこる5、6番に挟まれた交響曲として扱うのはやはりどうかと思う出来である。強いて言えばチャイコ交響曲の奥座敷第3番(奇しくも?「ポーランド」)の終楽章に近い感じで、諸所チャイコらしさや面白みはあるが、とりたてて喜ぶほどではない。きちっとした構成なのに散漫で冗長に聞こえてしまうのである。

演奏はとても立派だが、このオケらしいと言うべきか弦については妙にアンサンブルの歯切れのよい部分とごちゃっと雑然と崩れてしまう部分がランダムにあらわれてやや聴きづらい。4楽章で精彩に欠けるのは疲れてしまったせいか?曲の盛り上がりとオケのテンションが比例しないところに、曲の限界もまた感じた。
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