湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

アイヴズ:ピアノ・ソナタ第2番「コンコード・ソナタ」

2009年04月22日 | アイヴズ
◎J.カークパトリック(P)(COLUMBIA)1945・LP

使徒カークパトリックによる同曲の初録音盤。譜面のとっ散らかり含め難解な「曲」を史上初、弾けて聴ける形に校訂しただけあり・・・協会が出来て決定版が出るまでは交響曲すら氏の手書きスコアのコピーが通用していたくらい「貢献」しているのだが、改変と言える部分も多く、この曲の(必須ではなかったと思うが)フルートやヴィオラを省いた主観的な校訂も批判の対象となった・・・密度の高い音楽の細部まで非常にこなれた演奏に仕上がっている。

ライヴ感に溢れ、アーティキュレーションが強く付けられており、テンポ・ルバートも自然ではあるがかなり派手目で印象的だ。ロマンティックな起伏ある流れや美しく感傷的な響きを強調することで非凡なるアイヴズの才能の唯一の欠点「人好きしない」ところを補うことに成功している。完全にミスタッチに聞こえる(しかも細かくたくさんある)重音が随所に聴こえるはずなのに、ラヴェルが狙った”寸止め”の範疇として受け止められる。衝突する響きとして気にならない。

カークパトリックの技術力も高く表現も的確で、確かに同時代アメリカのルビンシュタイン的な押せ押せドライなピアニズムの影響もあるにせよ、思い入れの強さが心を揺さぶる音に現れている。とくにアイヴズの真骨頂と言える静かな音楽、懐かしくも逞しいメロディ、解体され織り込まれた運命のリズム、南北戦争後・世界大戦前のアメリカイズムを宗教的・哲学的側面から体言した、やはりもう「過去」となってしまった世界を音楽にうつしたものとしてセンチメンタリズムのもとに整理し、表現している。

シェーンベルクと同い年だったか、ドヴォルザーク・インパクトが強かった頃のアメリカである、つまりは完全に前時代の空気の中で活動した人である。ロマンティックな香りや膨らんだスコアリングも無理も無い。この演奏は多分譜面がどうであれアイヴズの内面的本質を突いている。コンサートには行かなくなったけどマーラーの指揮するときだけは出かけたという、そういう時代の人である。ウェーベルン後の無駄の無い抽象音楽と比較して批判するのはおかしい。戦後派ではない、戦後に評価されただけである。

ステレオの薄盤による新録(1968)が知られているが、旧録のほうが壮年なりの力感があり、揺れも小気味よく、アイヴズを前衛と捉えた、もしくは「真面目な音楽」と捉えた後発他盤には絶対に聴かれない世界観が私は好きだ。モノラル。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイヴズ:ピアノ・ソナタ第1番

2008年05月15日 | アイヴズ
○ノエル・リー(P)(Nonesuch)LP

かつてはそれなりに有名な録音だったし、このピアニストの人気からすればもっと取り上げられてもいいものだが、なぜか古いマニア以外には注目されない。第二番「コンコード・ソナタ」のほうが有名だから、とかそちらのほうが有名ピアニストがやるから、という程度の問題だろう。しかし曲としてはこちらのほうが抽象的で、文学的な側面や手法的な個性を主張するよりも純粋な創作欲をピアノ一本に籠めた作品であり、入りやすいと思う。少々長めだが現代作品のように頭を凝らす必要もなく、スクリアビンのような程よい前衛性に身をひたすことができるのである。この人の演奏はアメリカの「土俗的演奏家」とはまったく違うし、中欧の前衛派のヘンクのような厳しさもない。フランス的というわけでもないのだがそのへんの柔らかい表現がアイヴズの「男らしさ」に絹をまとわせ、かといって包蔵する哲学的な闇の世界を本質としてしっかりとらえ、必要最小限のところでははっきりした打鍵で不協和な風を吹かせてもいる。わりとわかりやすいほうに解釈した演奏と思う。アイヴズを聴いている感じがしない。改変うんぬんはめんどくさいのでよくわからないが、この時期には多少いじっている可能性はあるだろう。フルートやヴィオラの入る邪道な標題ソナタばかりがアイヴズだと思ったら大間違い。まずこの作品から入るべき。○。

(参考)アイヴズの1番

ヘンクの真面目な古典的名盤
Ives;Sonata for Piano No.1
Henck
Wergo

このアイテムの詳細を見る

縁深いコープランドとの好カップリング
Ives: Piano Sonata No. 1

Mode

このアイテムの詳細を見る


(参考)ノエル・リー

ソロ現役盤は殆どない。伴奏・アンサンブルものやアメリカ現代音楽は何枚か現役である。

ミヨー集に参加(廉価なのでミヨー入門盤としてお勧め)
Milhaud: Scaramouche; Le Bal Martiniquais; Paris

EMI

このアイテムの詳細を見る

(参考)自作自演集
No醇Rl Lee: Caprices on the name Sch醇rnberg

CRI

このアイテムの詳細を見る
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイヴズ:ニューイングランドの三つの場所(原典版)

2008年02月03日 | アイヴズ
○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(CBS)CD

交響曲ほど拡散的な莫大演奏にはならず、いや曲がもともと構築性を無視した印象派的なものだから莫大であっても気にならないからわからないが、オケの細部にわたる技術の高さを音楽の難解さにチャレンジさせ、結果としてあっさり難しさをなくすという高度なことをやっている。この曲はアイヴズの代表作で、パレードの音響的衝突が前衛的な聞かせどころなのだが、衝突する音塊のカオスを生じさせずロマン派的処理でまとめてしまうのは本来的にはアイヴズ的ではない。でも後者の方法論は振りやすさとわかりやすさがあるため一般的でもあり、それも一つの見識として批判に値するものではないと思う。前者の方法論の演奏はなかなか音盤では聴くのが辛いものがある・・・実演できちんと音場を立体的にとらえられないと意図は通じない。半端にヘンな音盤として聴くよりは、わかりやすい「処理」の加えられたもので親しんでいたほうがいい。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイヴズ:祝日交響曲~Ⅱ.デコレーション・デイ

2008年02月03日 | アイヴズ
○メータ指揮アメリカ・ソヴィエト・ユース管弦楽団(COMIN)1988/8/5ワシントンlive・LP

前進的で非常に力強く、バンスタよりドラティに似たライヴ感溢れる表現。やや前時代的な解釈ではあろうがアイヴズの「美質」をよく取り出しており、まだまだ壮年のメータの鮮やかなさばきぶりが聞かれる。オケがいい。昔のNYPのような激しさを感じるが乱れはない。いい演奏、○。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイヴズ:ヴァイオリン・ソナタ第1番

2007年05月20日 | アイヴズ
◎フルカーソン(Vn)シャノン(P)(BRIDGE)CD

アイヴズの作品名にはしばしば余り意味がないものや意図的に異化されたものがある。多くは商業的理由や演奏機会を増やすためのものであったらしいが、この曲、私自身は学生時分より譜面を取り寄せ好んでかなでていた中でも一番わけがわからず、錯綜した混沌しか読み取れない(アイヴズはやりようによっては混沌から純度の高い哲学(しばしば文学)的幻想を汲み取ることができる作品がほとんどである)生硬な作品として一番縁遠くかんじていたものだが、評者にはこの作品をアイヴズのヴァイオリン作品の中で最も高く評価する人もおり(アイヴズ自身も本気で取り組んだのはこれだけと言っていたというが)、田舎臭い賛美歌への奇怪な逆変奏をたどる終楽章(素材的に4番交響曲に転用されているし、この作品全体も4番交響曲と繋がるようなところがあるのだが)など陳腐で無骨でヘタなやり方に思えたものだからおかしなことだと思っていた。しかし半面2楽章の思索的な晦渋さにはアイヴズの最良の部分が(日寄ったほうでも過度な前衛でも)飾らず提示されているところには惹かれた。いずれヴァイオリン的には(番号なしのものや「5番」を除けば)技術的難度の低いものばかりの作品群の中では最も指とセンスを問われる作品として敬遠してもいた。

だが、さきほどこのアイヴズの番号付ソナタ全集(プレファーストや「5番」を除く)としては最も「フランス的」で聴き易く、技巧もセンスもそうとうの高みにたっしている盤の、まったく筆をつけていなかったこの作品を聴きなおしたとき、耳から気まぐれに鱗が落ちた。

これは他のソナタとは違う。これは、「ピアノを聴くべきなのだ」。アンサンブル曲であり、譜面の題名どおりのピアノ伴奏付「ヴァイオリン・ソナタ」ではない。

そういう耳で聴くと、僅か2本でアイヴズが創り上げようとした世界の大きさ深さに驚かされる。構造的創意も幾分直観的であるとはいえあの非標題的傑作「ピアノ・ソナタ第1番」並みのものがつぎ込まれている、つぎ込もうとしている。1楽章冒頭の6音からなるとつとつとしたノンペダルのフレーズ(対旋律の断片的変容)が曲の諧謔的かつ哲学的世界の幕開けと幕引きを知らせるあたりはまさに、クラシカルな音楽の枠をこえてモダンな昇華をへた世俗のカッコイイ感覚を持ち込んでいる。3,4番交響曲の終楽章をはじめ数々の曲で、有機的に紡ぎあげられるアーチ構造の両端を、硬度の高い静寂として描いている、その方法論が既にこの簡素なアンサンブルの中で、しかも成功例として提示されている。

↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い

1楽章のピアノがとにかくカッコイイ。アイヴズの楽譜は本人による決定稿がなく演奏家にバンバン変更されるものが多い。本人もわりと寛容(一部奨励)だったらしいが、この演奏においても日寄ったほうに改変されている可能性があるとはいえ(ピアノ譜をなくしたので確かめられないのですいません)、音楽的激変の10年であった1900年代に、シェーンベルクから生臭さを極端に抜いたような、たびたび比較されたストラヴィンスキーの鉄鋼製品のようなパッチワークに、アメリカ民謡をいじらず生のまま投入することで却って突き放したような醒めた感覚と純粋な旋律的叙情性を追加したような、そう、ストラヴィンスキーがやや距離をおきながらもアイヴズの作品を中心とした私的演奏会に行っていた、何故アマチュアイズムを嫌い無邪気な西海岸の前衛をけなしたストラヴィンスキーがアイヴズを聞いたのか、わかるような気がするのである。このドライな1楽章では、ウェットな楽器であるヴァイオリンはコンコード・ソナタのヴィオラくらいの役目しかない。

アイヴズは理論において父親の実践的探求をベースにアカデミックなものを意図的に遠ざけ、独自の机上研究(わりと得意だったオルガンやアップライトピアノはあったにせよ)を深めていったが、もともと創作屋であり分析屋ではないため、その論理性において奇怪なゆがみと甘さがあることは死後使徒がまとめたメモ集をなめれば理解できるだろう。だが亡命者シェーンベルクがアイヴズを驚異の目で見たのは恐らく理論ではない。創作されたそのもののはなつ、直観的先駆性の凄みそのものだろう。2楽章の哲学性は冷静にきくとそれほど煩雑で込み入ったものではない。創作者が聞けばそこに整理されないものの不恰好さより追求されようとした世界の異様さに圧倒されるというものである。最後の(アイヴズ特有のマンネリズムでもあるが)ピアノのノイジーな乱打にはまだトーン・クラスター指示はなかったと思うが、2番では弦同士の共振を計算して一定長の板によるクラスター奏法を指示したアイヴズ(その意図どおりの音響をはなつ演奏・録音はほとんどないし、やはりこの時点では机上論的だったのだが)、たぶん1番でもそれをやりたかったのだと思う。諸事情でやめたのだろう。この演奏ではやや綺麗すぎるおさまり方をしているのが惜しい。

3楽章はやはりどうしてもヴァイオリンに耳がいってしまい、交響曲第4番の器楽編曲という不恰好なものにきこえてしまうのだが、ピアノをやはりきくべきで、ヴァイオリンは「ユニヴァース・シンフォニー」で言えば「背景に連なる美しい峰峰」にすぎない。いや、アイヴズの作品はその「情景」を構成する視覚的諸要素をそれぞれ音にうつしかえて五線という印画紙に投射したものでありそもそも「旋律もしくは音列と構造の対比」という概念が(本人がどう意図したかによらず)薄いのである。

二本の楽器ではいくらピアノをつかっているとはいえ限界はあり、上記のことを念頭に置かないとまともに鑑賞できないというのは作品の欠点ではある。ただ、賛美歌が無造作に構築されたあとの動きの不可思議さには、自然への畏敬と一種超自然的なもの(宗教的に言えば神なのだろう)への崇敬の感覚を持ち続けたアイヴズの美学があらわれている。

こんなに長く書くつもりはなかったが、2番4番のわかりやすさや3番の陳腐さ、プレファーストの非音楽的な晦渋のどちらの極端にもよらない、やはりアイヴズのヴァイオリンソナタでは一番に推されるに値するものではある。そして入門盤として硬質なリリシズムをたたえたこのコンビは最適である。

TREview
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイヴズ:答えのない質問

2007年02月10日 | アイヴズ
ストコフスキ指揮日本フィル(M&A)1965/7/8武道館live・CD

有名な割りに最近は演奏されない、冨田版が時々BGMに使われるきりの曲だけれども、映画の世界ではたとえば「世界」を象徴する弦のコラール部だけが引用されたり、問いかけと応唱の部分のクライマックスだけが編曲転用されたり(ロックやテクノの世界でこの曲を使ってる人はけっこういたりする)、実は割合と聴いているはずである。静謐な世界にただ不可思議な問答が繰り返され、誰も答えられないまま最後に質問だけが空しく残る。その間じゅう弦楽器はひたすら違うリズム構造の上でろうろうとコラールを形作る。シンプルだが計算されつくした空間的音楽だ。ストコフスキの編曲はいただけない。ちょっと「楽曲として」成り立たせ過ぎている。勘違い演奏というやつだ。アイヴズはそれを許容する人ではあるが、実存に対する無理な質問に無調的に答える楽器が最後には異様に分厚いブラスバンドになってしまい、楽曲のシンプルであるからこそ描き得た哲学的表現がまったく生かされていない。何一つ分かっていない演奏と思われても仕方なかろう。ストコフスキにはこの曲がまともな伝統的なクラシックに見えたのだろう。これははっきり前衛的なコンテンポラリー曲である。無印。オケもあけっぴろげすぎだが音響的に武道館だからそう聞こえるのか。スター指揮者であったことを伺わせる拍手ぶりである。そういえばビートルズのころか。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイヴズ:スケルツォ(ホールディング・ユア・オウン)

2007年02月06日 | アイヴズ
○クロノス四重奏団(ELEKTRA NONESUCH)CD

僅か1分23秒の曲だが(いかにもアイヴズ)紛れも無くスケルツォである。それ以外の何者とも形容しがたい「もの」である。「アイヴズにしか書けなかったスケルツォ」である。がちゃがちゃした、でもどこかに統一性のある断章。着想1903年、完成1914年というのもいかにもアイヴズらしい「校訂の重ね方」である。クロノスの出世作に併録され話題となったもの。クロノスはさすが現代音楽専門団体である。「ハロウィーン」を複雑化したようなこの曲に「現代音楽風の」整理をつけている。○。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイヴズ:答えのない質問

2006年08月07日 | アイヴズ
△カラヤン指揮ロス・フィル(KAPELLMEISTER:CD-R)1959/7/2ハリウッドLIVE

素朴な演奏ぶり。もちろんほとんどの悪印象は録音やオケのせいというところだが、正直カラヤン自身もこれをどう演じたらいいのか皆目見当がつかなかったのではないか。のちの犬猿バンスタがオハコとした因縁もさることながらこれは表現者が積極的に解釈して、自分の作品として表現することを求めるアイヴズ作品のたしかに特異な一面を体言した曲でもある。バンスタは「作曲家」として入り込み易かったということもあるだろう。文学的内容をきちんと理解して、最後まで問い掛けを続けるペットと、不毛な議論を繰り返し仕舞いにほうり出して消えてしまう木管たち、それら卑俗のものの背後の自然界を超越的に彩る弦のコラール、この三者を独立した三部の音群として並列させないと、下手に論理的にリズムから交通整理しようものならぶかっこうな珍曲と化してしまう。それでもわかりやすい構造だからバンスタのような単純化も可能であるのに、カラヤンは何かぶっきらぼうに即物的に音を出させているだけでやる気もなく、聞く人々の反応も悪い。ここまで理解されないまま演奏されたアイヴズは珍しい。

↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
素晴らしい すごい とても良い 良い

TREview『音楽・映画・テレビ』ブログランキング
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイヴズ:交響曲第2番

2006年07月21日 | アイヴズ
バーンスタイン指揮NYP(WME:CD-R)1986live・CD

録音状態がまずい。放送エアチェックでしかもモノラルである。この時期にはバンスタも芸風が変わっていたのだが、ちょっと聴きまるで50年代初演当時のような味気なさがする。ライヴならではというか引き締まっており、緩徐楽章以外はロマン性よりひたすら前進性を煽る。2楽章と5楽章の結部をまったく粘らず早々に打ち切るさまはほんとに50年代を彷彿とする。

しかし折角アイヴズがセンセイに敬意をはらってワグナーやブラームスふうに構造的に書いている場所でも音が潰れて旋律もしくは低音部しか聞こえてこない。これは音盤としてだめだ。頭の中で補いつつ聴けばそれなりに面白く、感銘も受けるし、終演後のブラヴォも理解できるのだが、それにしても・・・これはいただけない。オケは気合十分だしバンスタの解釈も至れり尽くせりなのだが。

それにしてもアメリカ人はこれを聞いてどう思うんだろう。日本に置き換えるならば演歌メドレーにはじまり御詠歌やら旧制高等学校寮歌やら仏教声明やらをぶちこんでブラームス風の交響曲に仕立て上げたようなもんだ(らんぼう)。この曲は巧みなリズム構造にも特徴があり、完全にポリリズムになってしまう直前で巧く聴きやすい形にまとめている。そこが対位法的構造とあいまって、打楽器が活躍する2,4楽章ではとても気分を高揚させるのだが、

この録音じゃろくに聞こえてこない。無印。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイヴズ:交響曲第1番

2005年02月23日 | アイヴズ
○オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(RCA)

完全なる習作である。エール大学卒業制作であり、師匠ホレイシォ・パーカーを皮肉ったようにしつこくソナタ形式を守って冗長にしたり(卒業したかったんだろう)、父親から受け継いだ雑多な響きのミクスチュア・ミュージック的語法も顔を見せ、その間の齟齬が方々で軋みを生じているのは仕方の無い事だ。響きやコード進行の新鮮さは特に1楽章~たぶんこの曲この演奏で一番うまくいっている秀逸な旋律(既存素材よりオリジナルが美しい)、楽想(終盤のコラール風音楽の陶酔!)に彩られた楽章~の音線のいくつかに垣間見る事ができる。冒頭の憂愁の旋律はちょっと学生のものとは思えない、後年のプロコフィエフ旋律を聞いたときの印象に似たものを感じさせるほどに魅力的だ。ただそれは長続きせず凡庸なヨーロピアン・クラシカル風旋律と民謡旋律の断片が野暮な重いロマン性を持ち込み、それぞれ発展せずただ明滅交錯していく。といってもちゃんと構造におさまっており(その構造が邪魔であり冗長を呼んでいるとも言えるのだが)、師匠におもねったのか皮肉ったのかブラームス的な楽器法も露骨に挟まったりしている。後年まで多用するも結局あまり巧くなかった(そのへんがシェーンベルクとの違いだろう)対位法的書法も教科書的にしっかり組み込まれ、リズム的にはどうも危ういが基本的には合理性を重視しそれなりの出来になっている。やがてその中にも響きやリズムや楽想変化の新鮮さが(学生の筆誤りスレスレではあるが)出てきて、モザイク状に既存素材を積み上げ刺激的な響きを産み出す方法論の萌芽が聴いてとれるようになる。とにかく1楽章は長いがキレイな部分も多いので聴いてみて損無し。ちなみに1番1楽章でここまで惹かれたのはこの演奏が初めてである。弦楽器に無理を強いる(この曲でもスラーのついた細かい音符をえんえんと弾かせるところが目立ち、リズムが噛み合いづらい)アイヴズの書法、フィラ管の強力な弦楽器をもってやっと聴けるレベルになっているというべきか。2楽章はドヴォルザークとの関係を指摘されるも、アメリカの批評家の弁を借りればアイヴズの書いた最も美しい楽章ということになる。だがその主旋律も響きが薄くけっこう弾きづらいものになっており私は余り馴染めない。ここにきてメリハリのないだらだらした演奏という印象が強くなってくる。オーマンディのアイヴズはシンフォニーだと4番を除く4曲(祝日含む)、いずれもこののっぺりして「だらだらした」演奏ぶりがマイナス点として指摘できるのだが、逆にそれだけまとめづらい曲であり、テンポを落として小節線を固持して組み立てる必要がある、つまりはそこまでしてやらないと曲にならないのだろう。だが終盤に向かうにつれ音楽はソロ楽器により美しく収斂していく。あきらかに新世界を思わせる構造だが楽想はどちらかといえばアメリカン・ヨーロピアンといった感じだ。3楽章はスケルツォだがいきなりフーガで始まり欧風の随分と古風のなりをしている。ブラームス的でもあるが、楽想には明らかにアメリカ民謡(ラグ?)的要素も入っていてミスマッチの面白さがある。だらだらした長い音符が通奏低音ふうに響き続けるが、その上のリズミカルな主旋律表現はしっかりしている。異常に細かい音符が不規則に混ざるところでどうしてもごちゃっとなるが演奏家の責任ではあるまい。終楽章はこの曲のハイライトである。各楽章でアイヴズが投入してきた美しい創作旋律が(アイヴズはマトモに旋律作家になっていたらどんなにか美しい旋律を産み出していったことだろう!)次々と登場し最後は国民楽派的な盛り上がりから派手なブラスのぶっぱなしでフィナーレに雪崩れ込む曲。しかし・・・オーマンディ配下のフィラ管がここまで戸惑いやる気を失っている演奏というのも珍しい。思い切ってメータのような超カット再編成をしていればかなり盛り上げることもできただろうに、このころ(70年代半ば位)オーマンディは「完全版」というものにハマっていたとみえてここでもラフマニノフのように冗長な曲を辛抱強く演じ切ろうとしている。だいたい提示部の繰り返しをしたら気が遠くなるような長さなのに良くぞまあ・・・というところ。余りの実直ぶり、或る意味個性的な演奏であるが後半弦楽器のバラケかた(バラケるのが普通なのだが)にフィラ管らしくない匙の投げ方を感じる。原曲はこんなに散漫で山の作り方が下手だったのだなあ、といった感触を受けた私はメータ盤の愛聴者であるが、この曲に興味を持たれたかた、ぜひメータを最初に聞いてください。オーマンディやヤルヴィを最初に聞くとこの終楽章でフィラ管でなくても匙を投げたくなるだろう。メータ盤のようなコーダの激烈な盛り上がりも無く、音量だけは上がって散漫なままに終わる。ブラスのステレオ効果も収録できていない。うーむ。。不完全燃焼。1楽章の評価ということで○。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする