<暫定>
ミュンシュ指揮ORTF(SLS)1946/11/14シャンゼリゼ劇場live(フランス初演)
「怒りの日」が無茶苦茶怒っている。つんのめるテンポで怒涛の打音を繰り出し、ミュンシュがというよりオケ全体が怒り狂っているような、フランス国立放送管弦楽団の凄みを感じさせる。直前のロパルツも良いが録音から伝わる迫力が全然ちがう。弦楽器が噎せ返るような熱気を放つのに対し、ブラスが音色の爆ぜるのも構わず吠えまくるのが凄まじい。聴いたことのない典礼風で、度肝を抜かれた。アンサンブルじゃない、吠え合いだ。つづく「深き淵より」挽歌ふうの緩徐楽章もどこか乱暴で、かなり録音状態に左右された印象ではあろうが、それでも異様さはあると思う。ソロの音がいちいち強く、頭に余韻がなくいちように太筆描きである。眩いオネゲル牧歌が例えばとうていRVW的ではない、慟哭と希望と黙示録的暗示、何よりリアルをただ耳にぶつけ続けてくる。明滅する甘やかなメロディでも雑味をいとわず音、そのものを強くぶつける。これが胃にもたれるもとい、同時代性という強みなんだろう、今はこんなやり方はできないだろう。映画音楽的な表現なのにちっとも絵が浮かばない。しかし、これがたぶんチューリヒ初演をへてミュンシュの出した作曲家への答なのだろう。ミュンシュは他にも録音があるが、この演奏のリアリティは凄いものがある。答えのない質問に鳥の答えるフレーズより、「ドナ・ノビス・パセム」のシニカルな歩みが始まる。ファシズムの足音と言っても良さそうな骸骨のような、巨人の骸骨のような歩みが、ここではかなり早足で蹂躙を始める。しまいに蒸気を上げて重機関車が通り抜ける。このあたりは極めて描写的で、音の一つ一つに意味があるのだが、ミュンシュはそれを解体してリアルを失うよりも求心的な力強さを重視し、ハーモニーを合わせるよりノイズを固めるような、一見ラヴェル風の理知的な構造物であることより、これはメロディなのだ、という確信がある。メロディが悪しきものから善きものに変貌していく苦悩の一筋。この曲がショスタコにすら聴こえるから不思議である。録音がきびしいが、緩徐主題では不穏なショスタコではなく、あのカッコいいオネゲルになっているのがわかる。厚ぼったい表現はねっとりと人間性を取り戻す、ミュンシュらしさだ。嵐の去ったあとに高らかに舞う鳩ではない。妖しい色彩の降り注ぐ大地に、火の鳥でも舞っているような、何とも言えない、たぶんこの曲は「世界滅亡後の」平和を歌っているのだが、これはまさにそういう奇怪な平和にも聴こえる。拍手カット。
○ミュンシュ指揮NYP(SLS:CD-R)1947/1/26live
新発見の音源らしい。録音は貧弱だが緩徐部の極めて美しい響きは捉えられており、第一楽章ディエス・イレは録音起因の迫力不足であるものの、三楽章ドナ・ノビス・パセム終結部は聞き物。初演・献呈者による演奏、しかしオケによって少しの差異が出てくるのは醍醐味だが、ここでは個人的にどうも時々マーラーのように聴こえてきて面白かった。まあ、先入観のせいだろう。○。
ミュンシュ指揮ボストン交響楽団1956/4/20(21)DA他
モノラル録音ですのでデータに惑わされず。録音日も混乱しているが同一。確かに緊張感があり悲惨な戦争と勝利の光明といった文学的空想を掻き立てる。一楽章が印象的、ピアノがよく聴き取れる。
◎ミュンシュ指揮ボストン交響楽団?(DA:CD-R)1956LIVE
安定したモノラル録音でノイズもなく聴き易いがやや音量がない。演奏は極めて集中力が高く、鬼気迫るものがある。ミュンシュとオネゲルは相性抜群で、オケが比較的ニュートラルだがパワーのあるアメリカの老舗楽団というところも、お国オケで出させてしまう一種のアバウトな癖がなく強みになる。立派な演奏ぶりは静かに哀しみを告げるピッコロの一節より立ちのぼる盛大な拍手~ここにブラヴォはいらない~からもうかがえる。世俗的な旋律要素を引き立たせながらもそれ以上に構築性を強く打ち出した毛埃の隙もない名演。どちらかといえば前半楽章が凄い。
ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(VIBRATO他)1956/4/21live
VIBRATOはこの日のプログラムを全部一枚にいれておりアンコールにオネゲルの「喜びの歌」を録れている。印象的にはDAで2種あったうちの単に1956年としていたものと同じだろう(もう一つは4月20日となっていたが21日という説が強い(個人的にはわざわざ別で出す必要もなく放送日との混乱なら早い日付のほうが演奏日のはずで疑問符)、だがもはや全部を比べる気力がない)。録音は良いモノラルで安定しており、ミュンシュも戦後勢いのあった一番引き締まった時期で聴いていて引き込まれる。特に1楽章が集中力高く、2楽章の牧歌的なフレーズあたりも眩くきれい。3楽章は私は少しダレたようにも感じたが、こんなものだったかもしれない、曲的に。
〇ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(multisonic/living stage他)1956/9/11プラハlive・CD
作曲家指揮交響楽団(MUSIC&ARTS他)1949・CD
有名な自作自演録音だがSP起こしだとかなり耳触り悪く実態が聴こえてこない。新しい復刻をあたるに越したことはない。極めて厳しく律せられた演奏で、あまりの硬直ぶりにオケが盛大に軋み、乱れるところも多々聴かれる。SPなのでスケールを捉えきれていないせいかもしれないが、およそミュンシュとは違う剛直さをもっている。逆にオネゲルの性格も透けてくるし、こういうスタイルでしか伝わってこないものもある。構築的で響きに非常に注意を払っており、録音のせいでちゃんと聞こえない場面も多いが、二楽章の弦の入る前はまるで教会のオルガンのような轟が曲の趣旨に立ち返らせてくれる。二楽章の長々しい歌のあと、三楽章は鼓膜が痛くなるような痛烈な連打が印象深く、行進のクライマックスではメカニカルにテンポを落とし、非情緒的に盛り上げる。そのあとは音が潰れているせいもあってオルガン的な響きの上に、弦および高音域の管楽器、ピアノが、一つ一つの楽節に音を切り詰め正確に嵌めていく。異様な清澄さをもって天国的な曲に収めている。これは現代の演奏に通じる大人の表現であり、一楽章冒頭のガラガラ崩れるかんじで聴くのをやめたら勿体ない。
フランス・デッカディスク大賞、作曲家による紹介付き,
○クリュイタンス指揮トリノRAI交響楽団(ARTS)1962/5/4live・CD
クリュイタンスらしい透明で繊細な抒情が漂う演奏で、同曲の暴力的な面は強調されないが、2楽章や終楽章終盤の優しく感傷的な旋律表現がとてもすばらしく、心惹かれる。ミュンシュの「禁欲的な凶暴さ」とは違い、感情的で人間的だ(だが精度は高い)。この時期にしては驚異的に良いステレオライブ録音(復刻)という評判どおり、微妙な色彩の揺れや緻密な構造がよく聞き取れ、楽曲理解の意味でもメリットがある。弦楽器に強靭さが足りないと感じる向きもあるかもしれないが、コントロールを全般に行き届かせるうえで、各セクションを抑制しつつトータルでオネゲルの意図をよく伝えようという指向に沿ったものといえる。過剰なアゴーギグでアンサンブルに乱れ(もしくは聴く側の「誤認識」)をもたらすことがない。かといって結構テンポは揺れているのだが。とてもカラフルでオネゲルの六人組時代の作風を連想する部分も多い演奏。○。同日の「放蕩息子」とのカップリング。
ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団(COLUMBIA,PATHE他)
1楽章「怒りの日」、いきなり厳しい音で始まるオネゲルの代表作、2番と共にゲンダイオンガク「ではない」手法で晦渋な世界を描ききった労作である。オネゲルをよく演奏したツィピーヌのものは、意外と素朴でほんわかした演奏だが、技術的なものや集中力こそイマイチなものの、暖かい音色と叙情的なフレーズの表現はちょっと魅力的である。この曲は六人組のひとりとして形式的なものを排し純粋な音楽の楽しさを求めていくというスタンスから大きく外れ、厳格な形式感をもってバッハに倣い、内容的には第二次大戦のもたらした惨禍への祈りとして一貫してシリアスな作風を保つという後期オネゲルの独自性を示している。もっとも中間楽章(3楽章制の2楽章「深き淵よりわれ汝を呼ぶ」)の繊細で抒情的な音楽は、「夏の牧歌」あたりの趣をいくぶん伝えている。この演奏で聞くとまるでヴォーン・ウィリアムズだ。実際この両者に共通点を見出す人もいるらしいが、この演奏で聞くとそれも真かと納得させられてしまうところがある。ヴォーン・ウィリアムズの4番を思い浮かべたのは私だけではあるまい(ヴォーン・ウィリアムズのほうが10年以上前だが)。荒んだ雰囲気の上に鳴り響くフルートの短いフレーズは、荒野の上に紫雲のたなびくさまを見ているようでとても効果的である。イマイチ悲劇度が足りない演奏ゆえ3(終)楽章「われらに平和を与えよ」では2楽章に近似したフレーズが耳につき、暖かい音楽に聞こえてしまい悲劇的な盛り上がりに欠ける演奏になってしまっているが、たとえばブリテンのシンフォニア・ダ・レクイエムのような祈りの音楽に近い感動を与えることには成功している。オネゲルはわかりにくい作曲家というイメージが有るが、たしかにそういう作品も数多いものの、とても熟達した作曲技法を駆使した緻密な作風は、演奏家にむしろ好かれる要素を持っているし、演奏家によっては十分に暖かい叙情味をかもすことのできる可能性も秘めていることがわかる。録音の古さからしてもあまり評価を上げられないが、特徴的な演奏ではある。無印。
○ザッハー指揮バーゼル交響楽団(PAN CLASSICS/ACCORD)CD
オネゲルの「人受けを狙った作品」はずるい。とにかくこの人、職人なので芸術と商売のバランスの重要性を熟認しており(六人組出身ということもある)、音楽は「聴かれなければならない」という・・・普通の音楽ファンにとっては当たり前のことなのだが・・・大前提をもって、このような「あざとい」作品を作り、同業者に揶揄されたりもした。結局現代においてその中途半端な立ち位置ゆえか、演奏「されない」のだが、それでも学生団体や室内合奏団のようなところは密度の高い書法に惹かれるのかやらないわけではない。極東の島国においてそういう状況であるのだから案外本国近くでもやられているのではないかと推測する。
そのあざとさは晦渋に聴こえてそのじつ、「情緒的な作曲家である」バッハの模倣を基調にしっかりした旋律を徐々に出していって最後にはこれもよく指摘されるところだがRVWの「無難な音楽」に近似した美しい牧歌を、「希望」という看板を掲げて歌い上げ、形式的に再びバッハに戻りはするものの、最後には木管の響きに2楽章の情緒の再現をもって印象的に終わる。
ザッヒャーは即物的な処理が向かないと思ったのか個人的な思いいれのせいか、似つかわしくないくらいロマンティックである。といってもテンポ・ルバートや表情記号の過剰な強調をなしているわけではない、音色への配慮が繊細で、機械的なアンサンブルをやかましく聞かせるのではなく、十分に入り込ませるような壮大な表現になっている。むやみな構造偏重ではない。そもそも構造なんて一寸聴きで感じるほどには複雑ではないこともある。無難にも感じるし、現代の他の演奏家のものと置き換え可能な範囲のような感じもしなくもないが、それでも何かしら残る演奏。やはり二楽章の表現の美しさが肝要なのだろう・・・○。
◎アンセルメ指揮バイエルン放送交響楽団(orfeo)1964/1/24live・CD
これは叙情的!2楽章などオネゲルの緩徐旋律を、これ以上無いほどロマンティックにしかし清潔に表現している。こんな曲だとは、という向きもいるだろう。アンセルメ向けの透明でかっちりしたアンサンブルを提示するBRSOも秀逸だ。かたやゴリゴリのバッハイズムの発揮された曲想の表現もアンセルメらしい鋭利で統制のきいたもので、クーベリックのオケとは思えない精度である。とにかく2楽章以降は暗い曲想もまったく叙情的に聴こえてしまうほどで、とにかく美しくて、ビックリ。◎。
○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(BMG/MELODIYA/SCRIBENDAM)1965LIVE・CD
ムラヴィンスキー唯一の録音だがこういう曲にはハマる。いつになく感情的に感じるのは同時代者としての共感のせいか、3楽章最後の平安の天上性は非常に感傷を煽るものがある。ロシアならではのソリストの上手さが光る。精緻ではないのだがミュンシュあたりの生臭さがなくて聞きやすく、前記のとおりライヴならではのアグレッシブさが(分析派にはどう聞こえるか知らないが)このオネゲルらしい抒情の盛り込まれた完成度の「高すぎる」精巧な作品に主情的に引き込まれる要素となっていて、素直に音楽だけを楽しめる。○。
カラヤン指揮ベルリン・フィル(DG)1969/9・CD
ゴージャスでスケールが大きく、少しブヨブヨし録音もシャープさに欠けるところもあるが、特徴的な演奏だ。ミヨーのような超高音でも一糸乱れぬヴァイオリン等々オケの技術的な高まりは、元来の音色の持ち味をニュートラルに鞣してしまっている側面もあるが、このフランスの曲ではむしろメリットである。この演奏は構成的な部分やドラマチックなたかまりを聴くより二楽章や三楽章終盤の緩徐部をじっくり聴くほうが楽しめる。ヴォーン・ウィリアムズに影響を与えたのではないかとも言われる(単純な響きだけの話で影響も何も無いと思うが)幻想的な抒情の漂うオネゲルの極めて美麗な側面を、カラヤンという指揮者の持つ「世俗性」が良い意味で的確にとらえ、「タリス幻想曲」の名演も思い起こさせる感傷的なものに仕立てている。オネゲルのこういう部分こそ、聴かれればもっとメジャーになろうものだが、いかんせん単品では「夏の牧歌」くらいしかなく、オネゲル自身もそれだけを聴かせたいとは思わないだろうので、仕方がないか。まあしかしこの秀逸さはベルリン・フィルあってのものではある。音響的に精緻に整えた演奏ではないが、だからこそ旋律が生きている。
◎カラヤン指揮ベルリン・フィル(SARDANA:CD-R)1984/12/12定期live
オネゲルの代表作で、一見「構造主義」的な晦渋さが人好きさせないように見えて、実際には近代オケという大きな楽器の機能をフルに活用したスリリングなアンサンブルがスポーツ的快楽をもたらし、明快簡潔な構造も適度に歌謡的なメロディも(2楽章はヴォーン・ウィリアムズかと思わせる)聴き易く、あざといまでにキャッチーな音楽であることがわかる。いや、それがわからない演奏はこの曲に失礼である(オネゲル自身でさえも)。
この曲をそのように魅力的にきちんと聴かせられる指揮者というのは数少ない。
ましてや現代の大編成オケで鳴らしまくり、軋みや違和感を感じさせない指揮者というのは。
(オネゲル自身小規模な弦楽合奏をオケの基軸と考えている節がある。そこに管楽ソロを加え曲を編成する教科書的な発想が確固としてある。難度が上がるゆえんでもある。)
カラヤンはその一人である。
BPOはカラヤンによってこの曲の「娯楽的価値」を飛躍的に高める「道具」となった。この演奏もライヴだからという点は無くレコードと変わらぬ精度と強度を提示し、3楽章制の比較的短いこの曲を、20世紀初頭までに多かった立派な大交響曲として見違えるように聴かせることに貢献している。技術力にくわえ程よい「古きよき音」もある。今のBPOの音ではなく、かといってフルヴェンの音でもないけれども、確実に両方の音の属性をも備えた幅広い音表現のできる一流オケである、それだけは言い切れる。
テヌート多用とか音の表層だけを磨いたとか、印象だけの評論で先入観を持っているかたがいるとすればこれを聴くといい。テヌートなんて多用しない、分厚い音をスラーでつなげてぐねぐねうねらせる横の音楽を作る指揮者なんて沢山いたが、カラヤンにとっては使い分けている属性の一つにすぎない。2楽章のカンタービレ表現は世俗的でも儀礼的でもない、だからこそ引き込まれる絶妙の手綱さばきだ。RVWの「タリス」を思い出させる、奥底の感傷を引き出されるような暖かい音楽。
素晴らしい演奏であり、典礼風の純粋に音楽的な魅力を引き出した記録である。意味とかイデオロギーとか、そんなものはどうでもいい。歪んだ政治的立場などとも無縁であり、オケとの確執など微塵も表現に出ない、これこそプロの仕事である。
音質も海賊盤としては素晴らしい。録音がいくつかある中でも新しい演奏であり、それでもここまで磨かれ、弛緩もしないというのはカラヤンならではのところでもある。
音の重心が低くブラスも渋く、オネゲルの演奏史における正統とはいえないような気がするし記念碑的なライヴ記録でもないが、満足しうる演奏である。
1957/8/13のザルツライヴが正規化された(orfeo)、但しボックス収録。正規盤はDG(1969/9/23教会での録音)。
○カラヤン指揮ベルリン・フィル(ORFEO)1957/8/13live・CD
録音はモノラルで篭りがち。遠くこじんまりとした聴感。特に弦が遠くマスとしてしか捉えられないのは痛い。1楽章ではブラスも荒い印象があり、2楽章もそれら整わない状況を前提とした「精神的な怜悧さ」が曲の暖かさを奪ってしまい、いくら美音で煽ろうともやや入り込むことができない。とはいえ個人技は素晴らしい。フルートなど重心の低い美しさを提示する。終楽章はその点すっかり集中力を取り戻した様相で、後年の演奏に聴かれるスリリングなアンサンブルとオネゲルのあざとい手法を的確に抉り出した気を煽るような表現を楽しむことができる。
Karajan -Salzburg Festival Concerts 1957 / Herbert von Karajan, VPO, BPO, etc
全般録音の問題が大きくカラヤンとしても板についていないようにも感じる。このためにボックスを買うならスタジオ盤をお勧めする。
~Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ途中
○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1966live
表記は2番だが3番の誤り。圧倒的に2楽章、緩徐楽章の美しさが光る。とにかく弦楽器、厚みのある音響のうねりが憧れと慟哭と悲哀を映画音楽的なスレスレの感傷を煽って秀逸である。ハリウッド映画音楽といってまず私が思い浮かべるのはストコフスキの演奏様式だが、しかし元の楽曲が深刻なものを孕んでいるだけにこの演奏はそういった表面的な美観に留まらない激しい感情の起伏を呼び覚ます力がある。そう、弦楽器だけでは決して無い。総体の響きはモノラルの(けして悪くない)音響の中でも圧倒的に迫ってくる。この迫真味はオネゲルの超絶的な書法だけではなく、ストコフスキという怪物のなせるマジックとしか言いようが無い。この中間楽章はほんとうに、素晴らしい。緻密でロジカルな1楽章なども、弛緩なく攻撃的な音楽が形づくられているが、心惹かれるのはやはり、RVWやミヨーにも通じる田園の穏やかな風景とそこにたなびいてはまた消える暗雲の風景、美しいヴァイオリンの響きと不協和であっても絶妙のバランスをもってそうではなく聞こえるコルネット以下ブラス陣の朗誦、優しい表情に戻ったところでさびしげに一人歌うフルートからクラリネット、これら総体がたとえようもなく美しく、最後に深刻な音楽の雲間から一筋の光をさしかけられる場面の感傷性といったらたとえようもなく、オネゲルはそうだ、「夏の牧歌」を作った作曲家なのだ、というところに立ち戻らせてくれる。ストコは強烈なだけの解釈者ではない。3楽章は途中まで収録。やや表層的に重低音音楽がホルンにより提示され始めると音楽は元の世界へ戻ってゆくが、旋律性はけっして失われない。構造に埋没しがちな旋律を鮮やかに浮き彫りにしつつ進む途中で、録音は終わる。どうせなら全部聴きたいところだった。○。
ミュンシュ指揮ORTF(SLS)1946/11/14シャンゼリゼ劇場live(フランス初演)
「怒りの日」が無茶苦茶怒っている。つんのめるテンポで怒涛の打音を繰り出し、ミュンシュがというよりオケ全体が怒り狂っているような、フランス国立放送管弦楽団の凄みを感じさせる。直前のロパルツも良いが録音から伝わる迫力が全然ちがう。弦楽器が噎せ返るような熱気を放つのに対し、ブラスが音色の爆ぜるのも構わず吠えまくるのが凄まじい。聴いたことのない典礼風で、度肝を抜かれた。アンサンブルじゃない、吠え合いだ。つづく「深き淵より」挽歌ふうの緩徐楽章もどこか乱暴で、かなり録音状態に左右された印象ではあろうが、それでも異様さはあると思う。ソロの音がいちいち強く、頭に余韻がなくいちように太筆描きである。眩いオネゲル牧歌が例えばとうていRVW的ではない、慟哭と希望と黙示録的暗示、何よりリアルをただ耳にぶつけ続けてくる。明滅する甘やかなメロディでも雑味をいとわず音、そのものを強くぶつける。これが胃にもたれるもとい、同時代性という強みなんだろう、今はこんなやり方はできないだろう。映画音楽的な表現なのにちっとも絵が浮かばない。しかし、これがたぶんチューリヒ初演をへてミュンシュの出した作曲家への答なのだろう。ミュンシュは他にも録音があるが、この演奏のリアリティは凄いものがある。答えのない質問に鳥の答えるフレーズより、「ドナ・ノビス・パセム」のシニカルな歩みが始まる。ファシズムの足音と言っても良さそうな骸骨のような、巨人の骸骨のような歩みが、ここではかなり早足で蹂躙を始める。しまいに蒸気を上げて重機関車が通り抜ける。このあたりは極めて描写的で、音の一つ一つに意味があるのだが、ミュンシュはそれを解体してリアルを失うよりも求心的な力強さを重視し、ハーモニーを合わせるよりノイズを固めるような、一見ラヴェル風の理知的な構造物であることより、これはメロディなのだ、という確信がある。メロディが悪しきものから善きものに変貌していく苦悩の一筋。この曲がショスタコにすら聴こえるから不思議である。録音がきびしいが、緩徐主題では不穏なショスタコではなく、あのカッコいいオネゲルになっているのがわかる。厚ぼったい表現はねっとりと人間性を取り戻す、ミュンシュらしさだ。嵐の去ったあとに高らかに舞う鳩ではない。妖しい色彩の降り注ぐ大地に、火の鳥でも舞っているような、何とも言えない、たぶんこの曲は「世界滅亡後の」平和を歌っているのだが、これはまさにそういう奇怪な平和にも聴こえる。拍手カット。
○ミュンシュ指揮NYP(SLS:CD-R)1947/1/26live
新発見の音源らしい。録音は貧弱だが緩徐部の極めて美しい響きは捉えられており、第一楽章ディエス・イレは録音起因の迫力不足であるものの、三楽章ドナ・ノビス・パセム終結部は聞き物。初演・献呈者による演奏、しかしオケによって少しの差異が出てくるのは醍醐味だが、ここでは個人的にどうも時々マーラーのように聴こえてきて面白かった。まあ、先入観のせいだろう。○。
ミュンシュ指揮ボストン交響楽団1956/4/20(21)DA他
モノラル録音ですのでデータに惑わされず。録音日も混乱しているが同一。確かに緊張感があり悲惨な戦争と勝利の光明といった文学的空想を掻き立てる。一楽章が印象的、ピアノがよく聴き取れる。
◎ミュンシュ指揮ボストン交響楽団?(DA:CD-R)1956LIVE
安定したモノラル録音でノイズもなく聴き易いがやや音量がない。演奏は極めて集中力が高く、鬼気迫るものがある。ミュンシュとオネゲルは相性抜群で、オケが比較的ニュートラルだがパワーのあるアメリカの老舗楽団というところも、お国オケで出させてしまう一種のアバウトな癖がなく強みになる。立派な演奏ぶりは静かに哀しみを告げるピッコロの一節より立ちのぼる盛大な拍手~ここにブラヴォはいらない~からもうかがえる。世俗的な旋律要素を引き立たせながらもそれ以上に構築性を強く打ち出した毛埃の隙もない名演。どちらかといえば前半楽章が凄い。
ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(VIBRATO他)1956/4/21live
VIBRATOはこの日のプログラムを全部一枚にいれておりアンコールにオネゲルの「喜びの歌」を録れている。印象的にはDAで2種あったうちの単に1956年としていたものと同じだろう(もう一つは4月20日となっていたが21日という説が強い(個人的にはわざわざ別で出す必要もなく放送日との混乱なら早い日付のほうが演奏日のはずで疑問符)、だがもはや全部を比べる気力がない)。録音は良いモノラルで安定しており、ミュンシュも戦後勢いのあった一番引き締まった時期で聴いていて引き込まれる。特に1楽章が集中力高く、2楽章の牧歌的なフレーズあたりも眩くきれい。3楽章は私は少しダレたようにも感じたが、こんなものだったかもしれない、曲的に。
〇ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(multisonic/living stage他)1956/9/11プラハlive・CD
作曲家指揮交響楽団(MUSIC&ARTS他)1949・CD
有名な自作自演録音だがSP起こしだとかなり耳触り悪く実態が聴こえてこない。新しい復刻をあたるに越したことはない。極めて厳しく律せられた演奏で、あまりの硬直ぶりにオケが盛大に軋み、乱れるところも多々聴かれる。SPなのでスケールを捉えきれていないせいかもしれないが、およそミュンシュとは違う剛直さをもっている。逆にオネゲルの性格も透けてくるし、こういうスタイルでしか伝わってこないものもある。構築的で響きに非常に注意を払っており、録音のせいでちゃんと聞こえない場面も多いが、二楽章の弦の入る前はまるで教会のオルガンのような轟が曲の趣旨に立ち返らせてくれる。二楽章の長々しい歌のあと、三楽章は鼓膜が痛くなるような痛烈な連打が印象深く、行進のクライマックスではメカニカルにテンポを落とし、非情緒的に盛り上げる。そのあとは音が潰れているせいもあってオルガン的な響きの上に、弦および高音域の管楽器、ピアノが、一つ一つの楽節に音を切り詰め正確に嵌めていく。異様な清澄さをもって天国的な曲に収めている。これは現代の演奏に通じる大人の表現であり、一楽章冒頭のガラガラ崩れるかんじで聴くのをやめたら勿体ない。
フランス・デッカディスク大賞、作曲家による紹介付き,
○クリュイタンス指揮トリノRAI交響楽団(ARTS)1962/5/4live・CD
クリュイタンスらしい透明で繊細な抒情が漂う演奏で、同曲の暴力的な面は強調されないが、2楽章や終楽章終盤の優しく感傷的な旋律表現がとてもすばらしく、心惹かれる。ミュンシュの「禁欲的な凶暴さ」とは違い、感情的で人間的だ(だが精度は高い)。この時期にしては驚異的に良いステレオライブ録音(復刻)という評判どおり、微妙な色彩の揺れや緻密な構造がよく聞き取れ、楽曲理解の意味でもメリットがある。弦楽器に強靭さが足りないと感じる向きもあるかもしれないが、コントロールを全般に行き届かせるうえで、各セクションを抑制しつつトータルでオネゲルの意図をよく伝えようという指向に沿ったものといえる。過剰なアゴーギグでアンサンブルに乱れ(もしくは聴く側の「誤認識」)をもたらすことがない。かといって結構テンポは揺れているのだが。とてもカラフルでオネゲルの六人組時代の作風を連想する部分も多い演奏。○。同日の「放蕩息子」とのカップリング。
ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団(COLUMBIA,PATHE他)
1楽章「怒りの日」、いきなり厳しい音で始まるオネゲルの代表作、2番と共にゲンダイオンガク「ではない」手法で晦渋な世界を描ききった労作である。オネゲルをよく演奏したツィピーヌのものは、意外と素朴でほんわかした演奏だが、技術的なものや集中力こそイマイチなものの、暖かい音色と叙情的なフレーズの表現はちょっと魅力的である。この曲は六人組のひとりとして形式的なものを排し純粋な音楽の楽しさを求めていくというスタンスから大きく外れ、厳格な形式感をもってバッハに倣い、内容的には第二次大戦のもたらした惨禍への祈りとして一貫してシリアスな作風を保つという後期オネゲルの独自性を示している。もっとも中間楽章(3楽章制の2楽章「深き淵よりわれ汝を呼ぶ」)の繊細で抒情的な音楽は、「夏の牧歌」あたりの趣をいくぶん伝えている。この演奏で聞くとまるでヴォーン・ウィリアムズだ。実際この両者に共通点を見出す人もいるらしいが、この演奏で聞くとそれも真かと納得させられてしまうところがある。ヴォーン・ウィリアムズの4番を思い浮かべたのは私だけではあるまい(ヴォーン・ウィリアムズのほうが10年以上前だが)。荒んだ雰囲気の上に鳴り響くフルートの短いフレーズは、荒野の上に紫雲のたなびくさまを見ているようでとても効果的である。イマイチ悲劇度が足りない演奏ゆえ3(終)楽章「われらに平和を与えよ」では2楽章に近似したフレーズが耳につき、暖かい音楽に聞こえてしまい悲劇的な盛り上がりに欠ける演奏になってしまっているが、たとえばブリテンのシンフォニア・ダ・レクイエムのような祈りの音楽に近い感動を与えることには成功している。オネゲルはわかりにくい作曲家というイメージが有るが、たしかにそういう作品も数多いものの、とても熟達した作曲技法を駆使した緻密な作風は、演奏家にむしろ好かれる要素を持っているし、演奏家によっては十分に暖かい叙情味をかもすことのできる可能性も秘めていることがわかる。録音の古さからしてもあまり評価を上げられないが、特徴的な演奏ではある。無印。
○ザッハー指揮バーゼル交響楽団(PAN CLASSICS/ACCORD)CD
オネゲルの「人受けを狙った作品」はずるい。とにかくこの人、職人なので芸術と商売のバランスの重要性を熟認しており(六人組出身ということもある)、音楽は「聴かれなければならない」という・・・普通の音楽ファンにとっては当たり前のことなのだが・・・大前提をもって、このような「あざとい」作品を作り、同業者に揶揄されたりもした。結局現代においてその中途半端な立ち位置ゆえか、演奏「されない」のだが、それでも学生団体や室内合奏団のようなところは密度の高い書法に惹かれるのかやらないわけではない。極東の島国においてそういう状況であるのだから案外本国近くでもやられているのではないかと推測する。
そのあざとさは晦渋に聴こえてそのじつ、「情緒的な作曲家である」バッハの模倣を基調にしっかりした旋律を徐々に出していって最後にはこれもよく指摘されるところだがRVWの「無難な音楽」に近似した美しい牧歌を、「希望」という看板を掲げて歌い上げ、形式的に再びバッハに戻りはするものの、最後には木管の響きに2楽章の情緒の再現をもって印象的に終わる。
ザッヒャーは即物的な処理が向かないと思ったのか個人的な思いいれのせいか、似つかわしくないくらいロマンティックである。といってもテンポ・ルバートや表情記号の過剰な強調をなしているわけではない、音色への配慮が繊細で、機械的なアンサンブルをやかましく聞かせるのではなく、十分に入り込ませるような壮大な表現になっている。むやみな構造偏重ではない。そもそも構造なんて一寸聴きで感じるほどには複雑ではないこともある。無難にも感じるし、現代の他の演奏家のものと置き換え可能な範囲のような感じもしなくもないが、それでも何かしら残る演奏。やはり二楽章の表現の美しさが肝要なのだろう・・・○。
◎アンセルメ指揮バイエルン放送交響楽団(orfeo)1964/1/24live・CD
これは叙情的!2楽章などオネゲルの緩徐旋律を、これ以上無いほどロマンティックにしかし清潔に表現している。こんな曲だとは、という向きもいるだろう。アンセルメ向けの透明でかっちりしたアンサンブルを提示するBRSOも秀逸だ。かたやゴリゴリのバッハイズムの発揮された曲想の表現もアンセルメらしい鋭利で統制のきいたもので、クーベリックのオケとは思えない精度である。とにかく2楽章以降は暗い曲想もまったく叙情的に聴こえてしまうほどで、とにかく美しくて、ビックリ。◎。
○ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル(BMG/MELODIYA/SCRIBENDAM)1965LIVE・CD
ムラヴィンスキー唯一の録音だがこういう曲にはハマる。いつになく感情的に感じるのは同時代者としての共感のせいか、3楽章最後の平安の天上性は非常に感傷を煽るものがある。ロシアならではのソリストの上手さが光る。精緻ではないのだがミュンシュあたりの生臭さがなくて聞きやすく、前記のとおりライヴならではのアグレッシブさが(分析派にはどう聞こえるか知らないが)このオネゲルらしい抒情の盛り込まれた完成度の「高すぎる」精巧な作品に主情的に引き込まれる要素となっていて、素直に音楽だけを楽しめる。○。
カラヤン指揮ベルリン・フィル(DG)1969/9・CD
ゴージャスでスケールが大きく、少しブヨブヨし録音もシャープさに欠けるところもあるが、特徴的な演奏だ。ミヨーのような超高音でも一糸乱れぬヴァイオリン等々オケの技術的な高まりは、元来の音色の持ち味をニュートラルに鞣してしまっている側面もあるが、このフランスの曲ではむしろメリットである。この演奏は構成的な部分やドラマチックなたかまりを聴くより二楽章や三楽章終盤の緩徐部をじっくり聴くほうが楽しめる。ヴォーン・ウィリアムズに影響を与えたのではないかとも言われる(単純な響きだけの話で影響も何も無いと思うが)幻想的な抒情の漂うオネゲルの極めて美麗な側面を、カラヤンという指揮者の持つ「世俗性」が良い意味で的確にとらえ、「タリス幻想曲」の名演も思い起こさせる感傷的なものに仕立てている。オネゲルのこういう部分こそ、聴かれればもっとメジャーになろうものだが、いかんせん単品では「夏の牧歌」くらいしかなく、オネゲル自身もそれだけを聴かせたいとは思わないだろうので、仕方がないか。まあしかしこの秀逸さはベルリン・フィルあってのものではある。音響的に精緻に整えた演奏ではないが、だからこそ旋律が生きている。
◎カラヤン指揮ベルリン・フィル(SARDANA:CD-R)1984/12/12定期live
オネゲルの代表作で、一見「構造主義」的な晦渋さが人好きさせないように見えて、実際には近代オケという大きな楽器の機能をフルに活用したスリリングなアンサンブルがスポーツ的快楽をもたらし、明快簡潔な構造も適度に歌謡的なメロディも(2楽章はヴォーン・ウィリアムズかと思わせる)聴き易く、あざといまでにキャッチーな音楽であることがわかる。いや、それがわからない演奏はこの曲に失礼である(オネゲル自身でさえも)。
この曲をそのように魅力的にきちんと聴かせられる指揮者というのは数少ない。
ましてや現代の大編成オケで鳴らしまくり、軋みや違和感を感じさせない指揮者というのは。
(オネゲル自身小規模な弦楽合奏をオケの基軸と考えている節がある。そこに管楽ソロを加え曲を編成する教科書的な発想が確固としてある。難度が上がるゆえんでもある。)
カラヤンはその一人である。
BPOはカラヤンによってこの曲の「娯楽的価値」を飛躍的に高める「道具」となった。この演奏もライヴだからという点は無くレコードと変わらぬ精度と強度を提示し、3楽章制の比較的短いこの曲を、20世紀初頭までに多かった立派な大交響曲として見違えるように聴かせることに貢献している。技術力にくわえ程よい「古きよき音」もある。今のBPOの音ではなく、かといってフルヴェンの音でもないけれども、確実に両方の音の属性をも備えた幅広い音表現のできる一流オケである、それだけは言い切れる。
テヌート多用とか音の表層だけを磨いたとか、印象だけの評論で先入観を持っているかたがいるとすればこれを聴くといい。テヌートなんて多用しない、分厚い音をスラーでつなげてぐねぐねうねらせる横の音楽を作る指揮者なんて沢山いたが、カラヤンにとっては使い分けている属性の一つにすぎない。2楽章のカンタービレ表現は世俗的でも儀礼的でもない、だからこそ引き込まれる絶妙の手綱さばきだ。RVWの「タリス」を思い出させる、奥底の感傷を引き出されるような暖かい音楽。
素晴らしい演奏であり、典礼風の純粋に音楽的な魅力を引き出した記録である。意味とかイデオロギーとか、そんなものはどうでもいい。歪んだ政治的立場などとも無縁であり、オケとの確執など微塵も表現に出ない、これこそプロの仕事である。
音質も海賊盤としては素晴らしい。録音がいくつかある中でも新しい演奏であり、それでもここまで磨かれ、弛緩もしないというのはカラヤンならではのところでもある。
音の重心が低くブラスも渋く、オネゲルの演奏史における正統とはいえないような気がするし記念碑的なライヴ記録でもないが、満足しうる演奏である。
1957/8/13のザルツライヴが正規化された(orfeo)、但しボックス収録。正規盤はDG(1969/9/23教会での録音)。
○カラヤン指揮ベルリン・フィル(ORFEO)1957/8/13live・CD
録音はモノラルで篭りがち。遠くこじんまりとした聴感。特に弦が遠くマスとしてしか捉えられないのは痛い。1楽章ではブラスも荒い印象があり、2楽章もそれら整わない状況を前提とした「精神的な怜悧さ」が曲の暖かさを奪ってしまい、いくら美音で煽ろうともやや入り込むことができない。とはいえ個人技は素晴らしい。フルートなど重心の低い美しさを提示する。終楽章はその点すっかり集中力を取り戻した様相で、後年の演奏に聴かれるスリリングなアンサンブルとオネゲルのあざとい手法を的確に抉り出した気を煽るような表現を楽しむことができる。
Karajan -Salzburg Festival Concerts 1957 / Herbert von Karajan, VPO, BPO, etc
全般録音の問題が大きくカラヤンとしても板についていないようにも感じる。このためにボックスを買うならスタジオ盤をお勧めする。
~Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ途中
○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1966live
表記は2番だが3番の誤り。圧倒的に2楽章、緩徐楽章の美しさが光る。とにかく弦楽器、厚みのある音響のうねりが憧れと慟哭と悲哀を映画音楽的なスレスレの感傷を煽って秀逸である。ハリウッド映画音楽といってまず私が思い浮かべるのはストコフスキの演奏様式だが、しかし元の楽曲が深刻なものを孕んでいるだけにこの演奏はそういった表面的な美観に留まらない激しい感情の起伏を呼び覚ます力がある。そう、弦楽器だけでは決して無い。総体の響きはモノラルの(けして悪くない)音響の中でも圧倒的に迫ってくる。この迫真味はオネゲルの超絶的な書法だけではなく、ストコフスキという怪物のなせるマジックとしか言いようが無い。この中間楽章はほんとうに、素晴らしい。緻密でロジカルな1楽章なども、弛緩なく攻撃的な音楽が形づくられているが、心惹かれるのはやはり、RVWやミヨーにも通じる田園の穏やかな風景とそこにたなびいてはまた消える暗雲の風景、美しいヴァイオリンの響きと不協和であっても絶妙のバランスをもってそうではなく聞こえるコルネット以下ブラス陣の朗誦、優しい表情に戻ったところでさびしげに一人歌うフルートからクラリネット、これら総体がたとえようもなく美しく、最後に深刻な音楽の雲間から一筋の光をさしかけられる場面の感傷性といったらたとえようもなく、オネゲルはそうだ、「夏の牧歌」を作った作曲家なのだ、というところに立ち戻らせてくれる。ストコは強烈なだけの解釈者ではない。3楽章は途中まで収録。やや表層的に重低音音楽がホルンにより提示され始めると音楽は元の世界へ戻ってゆくが、旋律性はけっして失われない。構造に埋没しがちな旋律を鮮やかに浮き彫りにしつつ進む途中で、録音は終わる。どうせなら全部聴きたいところだった。○。