◎フォルデス(p)(jecklin)(JP6001-2)1982放送音源(スイス)、1998年12月21日フォルデス生誕85周年記念盤CD
1913年ブダペスト生まれのアンドール・フォルデスは世界中を渡り歩いたピアニストだが、良く知られているようにバルトークと深い交流を持ち、モノラル時代にはその紹介者として数々の独奏曲を録音しスペシャリストとしての揺るぎ無い位置を占めていた。コダーイとも後年非常に近しかったといわれる。 8歳のときモーツアルトの協奏曲でデビュー、20歳フランツ・リスト国際コンペティションでドホナーニ(父)の生徒としては最高の賞を得、これを機に国際的な活躍が始まり、39年にはアメリカへわたる。各地で演奏活動を続け、そのまま47年には市民権を獲得、アメリカ国民となった。背景に本国の国情があったことは言うまでもない。戦後再びヨーロッパ各地を演奏してまわり、ヨーロッパで行ったことのない都市は一つもなかったといわれる。さらには南アメリカ、インド、オーストラリア、ニュージーランドそして日本にまで幾度にもわたり演奏旅行を行う。日本への6度目の演奏旅行のさい天皇が皇居に招待して私的演奏会を開いたこともある。殊更評価されていたドイツでは、長年の音楽的功績、ならびにボンにベートーヴェン・ホールを再建するさい、甚大な助力を行ったことにたいして騎士十字章が贈られている。賞といえばフランスでもいくつか受賞した。著書はオックスフォード出版から初版されてのち十四か国語に訳されている。とにかく凄いキャリアなのだ。1961年以降はチューリヒ近くに居を置き、92年2月9日に静かに息をひきとっている。20代より死にいたるまで居を据えることのなかった故郷ブダペストには、今も生家が保存され記念銘が記されている。アカデミーにはフォルデス記念館が建てられた。(以上ジャケットより抄訳)
演奏面に移る。リストやラフマニノフの協奏曲なども録音しているがいずれも生真面目な解釈で、難しいパッセジをさらりと弾いてのける技術の確かさは聞き取れるものの、基本的に地味で慎ましやかなタッチは際立った印象をあたえない。バルトークも録音があるが、リヒテルなどを聞いてしまうとあまりに無個性に聞こえる。このひとは矢張り独奏曲だ。複雑な和音でも響かせかたが実に正確かつ明瞭で、打鍵は強すぎも弱すぎもせず、曲の流れにいささかの揺るぎもみせない。プロコフィエフとは異なりドゥビュッシー並みの響きの感覚が重視されるバルトークの独奏曲にあってこの人の占める位置というのは、いわばラヴェル演奏におけるペルルミュテール氏のようなところだ、といえば大体感じを掴んでいただけるだろうか(シャンドール氏はカサドゥシュの位置)。
前置きが長くなったが、op11は人気がある曲だ。バルトークも2、4、6を録音している(HUNGAROTON)。コダーイの長いキャリアの中では初期の作品にあたり、ドゥビュッシーの甚大な影響を指摘されるが、内容的にはエリック・サティの単純性や後期スクリアビンの不協和音に似通った性質を持っている。いくつか民謡主題を用いており、フェデリコ”歌と踊り” モンポウやカロル”マズルカ”シマノフスキに非常に近い聴感だが(それらよりは幾分単純だけれども)こちらが先駆だろう。
割れた硝子のように複雑な和音を、ごく単純な旋律線の上に、ぽつ、ぽつと並べたような曲構成。一曲めレントは後期スクリアビンふうの瞑想的前奏曲となっている。 2曲め「セーケイ族の民謡第1番」は同曲集のききどころで、素直な民謡主題を比較的モダンな響きで彩っている。ふとアイヴズ風の哀感を感じさせるところがある。3曲め巷に雨が降るごとく、4曲め墓銘碑はこの曲集の中心。中間部の緩やかな部分はサティ風だ。織り交ざる不可思議な響きを含めモンポウの作風に良く似ている。5曲めトランクイロ、6曲め「セーケイ族の民謡第2番」。終曲ルバートは悲劇的な響きを持ち、後半が凄い。
フォルデスの演奏はサティを聴くように哀しい。もしくは夜中にモンポウを聴くが如く透明な感傷をのこす。明瞭な打鍵とペダリングのあとに残る澄んだ残響が、果てしなく哀しく、懐かしい。旋律の流れに固執するような重さが、全くもって排されているせいだろう。夜中にひとりきいて涙を流せるピアノ曲は少なくないが、これは曲想が素直なだけにいっそう傷ついた心に染み込みやすい性質を持つ。曲も傑作だし、演奏も完璧だ。
1913年ブダペスト生まれのアンドール・フォルデスは世界中を渡り歩いたピアニストだが、良く知られているようにバルトークと深い交流を持ち、モノラル時代にはその紹介者として数々の独奏曲を録音しスペシャリストとしての揺るぎ無い位置を占めていた。コダーイとも後年非常に近しかったといわれる。 8歳のときモーツアルトの協奏曲でデビュー、20歳フランツ・リスト国際コンペティションでドホナーニ(父)の生徒としては最高の賞を得、これを機に国際的な活躍が始まり、39年にはアメリカへわたる。各地で演奏活動を続け、そのまま47年には市民権を獲得、アメリカ国民となった。背景に本国の国情があったことは言うまでもない。戦後再びヨーロッパ各地を演奏してまわり、ヨーロッパで行ったことのない都市は一つもなかったといわれる。さらには南アメリカ、インド、オーストラリア、ニュージーランドそして日本にまで幾度にもわたり演奏旅行を行う。日本への6度目の演奏旅行のさい天皇が皇居に招待して私的演奏会を開いたこともある。殊更評価されていたドイツでは、長年の音楽的功績、ならびにボンにベートーヴェン・ホールを再建するさい、甚大な助力を行ったことにたいして騎士十字章が贈られている。賞といえばフランスでもいくつか受賞した。著書はオックスフォード出版から初版されてのち十四か国語に訳されている。とにかく凄いキャリアなのだ。1961年以降はチューリヒ近くに居を置き、92年2月9日に静かに息をひきとっている。20代より死にいたるまで居を据えることのなかった故郷ブダペストには、今も生家が保存され記念銘が記されている。アカデミーにはフォルデス記念館が建てられた。(以上ジャケットより抄訳)
演奏面に移る。リストやラフマニノフの協奏曲なども録音しているがいずれも生真面目な解釈で、難しいパッセジをさらりと弾いてのける技術の確かさは聞き取れるものの、基本的に地味で慎ましやかなタッチは際立った印象をあたえない。バルトークも録音があるが、リヒテルなどを聞いてしまうとあまりに無個性に聞こえる。このひとは矢張り独奏曲だ。複雑な和音でも響かせかたが実に正確かつ明瞭で、打鍵は強すぎも弱すぎもせず、曲の流れにいささかの揺るぎもみせない。プロコフィエフとは異なりドゥビュッシー並みの響きの感覚が重視されるバルトークの独奏曲にあってこの人の占める位置というのは、いわばラヴェル演奏におけるペルルミュテール氏のようなところだ、といえば大体感じを掴んでいただけるだろうか(シャンドール氏はカサドゥシュの位置)。
前置きが長くなったが、op11は人気がある曲だ。バルトークも2、4、6を録音している(HUNGAROTON)。コダーイの長いキャリアの中では初期の作品にあたり、ドゥビュッシーの甚大な影響を指摘されるが、内容的にはエリック・サティの単純性や後期スクリアビンの不協和音に似通った性質を持っている。いくつか民謡主題を用いており、フェデリコ”歌と踊り” モンポウやカロル”マズルカ”シマノフスキに非常に近い聴感だが(それらよりは幾分単純だけれども)こちらが先駆だろう。
割れた硝子のように複雑な和音を、ごく単純な旋律線の上に、ぽつ、ぽつと並べたような曲構成。一曲めレントは後期スクリアビンふうの瞑想的前奏曲となっている。 2曲め「セーケイ族の民謡第1番」は同曲集のききどころで、素直な民謡主題を比較的モダンな響きで彩っている。ふとアイヴズ風の哀感を感じさせるところがある。3曲め巷に雨が降るごとく、4曲め墓銘碑はこの曲集の中心。中間部の緩やかな部分はサティ風だ。織り交ざる不可思議な響きを含めモンポウの作風に良く似ている。5曲めトランクイロ、6曲め「セーケイ族の民謡第2番」。終曲ルバートは悲劇的な響きを持ち、後半が凄い。
フォルデスの演奏はサティを聴くように哀しい。もしくは夜中にモンポウを聴くが如く透明な感傷をのこす。明瞭な打鍵とペダリングのあとに残る澄んだ残響が、果てしなく哀しく、懐かしい。旋律の流れに固執するような重さが、全くもって排されているせいだろう。夜中にひとりきいて涙を流せるピアノ曲は少なくないが、これは曲想が素直なだけにいっそう傷ついた心に染み込みやすい性質を持つ。曲も傑作だし、演奏も完璧だ。