マルケヴィッチ指揮フィルハーモニア管弦楽団(COLUMBIA/HECTOR他)1952/9
録音は悪いが指揮もオケもノッている。この曲は完全に○×が別れると感じていて、適性のない指揮者はいかな大家でも何の気も煽られない。決然とした表現と柔和な流れ、色彩的な捌きとリズムのキレ、それらの調和のうえにいかなる人工的な印象もあたえてはならない。マルケはバレエ指揮者としての経験上こういう曲はまるで別人のように南欧的な感興を煽りたてる。チェリとは似て違う、チェリ同様に厳しく絞り上げるタイプのはずなのに、オケから自発的な血の滾りを感じさせる音を引き出す。じつに効果的な解釈で前進的な音楽だが、同時にオケの曇りのない鮮やかな色彩(高度な技巧に裏付けされたもの)を活かし、終曲の終盤ではスピードを落としアンセルメふうの響きの透明感で意外な着地点を求めてゆき、ドガジャーンと戻ると、これはセッション録音なので整えた感は残るは残るし、やや低音ブラスが弱いものの、全体としては歌劇の終幕を思わせる壮麗さに若干の「ロシア的デュナーミク」が少し山葵となって、大きな山場を作って長延ばしで終わる。カラフル。
録音は悪いが指揮もオケもノッている。この曲は完全に○×が別れると感じていて、適性のない指揮者はいかな大家でも何の気も煽られない。決然とした表現と柔和な流れ、色彩的な捌きとリズムのキレ、それらの調和のうえにいかなる人工的な印象もあたえてはならない。マルケはバレエ指揮者としての経験上こういう曲はまるで別人のように南欧的な感興を煽りたてる。チェリとは似て違う、チェリ同様に厳しく絞り上げるタイプのはずなのに、オケから自発的な血の滾りを感じさせる音を引き出す。じつに効果的な解釈で前進的な音楽だが、同時にオケの曇りのない鮮やかな色彩(高度な技巧に裏付けされたもの)を活かし、終曲の終盤ではスピードを落としアンセルメふうの響きの透明感で意外な着地点を求めてゆき、ドガジャーンと戻ると、これはセッション録音なので整えた感は残るは残るし、やや低音ブラスが弱いものの、全体としては歌劇の終幕を思わせる壮麗さに若干の「ロシア的デュナーミク」が少し山葵となって、大きな山場を作って長延ばしで終わる。カラフル。