湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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☆マーラー:交響曲第8番<千人の交響曲>(1906)

2017年05月10日 | Weblog
◎ストコフスキ指揮NYP、イーンド、リプトン他(HUNT他)1950/4/6live・CD

~全作品中最も長大な交響的歌劇。存在不安の裏返し、壮大なる誇大妄想。第1部と第2部の雰囲気はやや異なり、前者は2番以降の過去の作品を、後者は「大地の歌」を想起させるところがあります。自身も己が作曲人生の集大成として意識していたようです。大成功のミュンヘン初演はクレンペラー始めさまざまな人間が関わっていましたが、立ち会ったメジャー指揮者で録音を残しているのはストコフスキくらいでしょうか。それほど録音に恵まれない曲でもあるのです。

<オラトリオでもあり、交響曲でもあり、歌劇でもある。まさに宇宙的な広がりを持つ「交響的ドラマ」だ。ミュンヒェン初演は歴史的な出来事となり、そこに集まった名士、作曲家、演奏家は、かなりの数に上る。英国近代音楽の泰斗ヴォーン・ウィリアムズも其の一人だ。“海の交響曲”は「復活」などからの影響が少なくないといわれる。初演ではなかったようだが、アメリカ前衛音楽の祖アイヴズも自作自演を聞いたらしい。アイヴズの交響曲第3番は、マーラーの健康状態が良ければ、この「千人」とともにヨーロッパ初演されるはずだったというが、マーラーが一部しかない原本のスコアをヨーロッパに持ち帰り、そのまま没してしまったため、50年近く埋もれるはめになってしまったという逸話が残っている(一応、当時のニューヨーク・フィル団員の話しとされている)。アイヴズやシェーンベルク(この二人もまた独特の関係があったらしいが)ほどではないにせよ、一筋縄ではいかない錯綜した曲で、「ファウスト」等に基づく複層的なストーリーとは別に、音楽的にもマーラーの多面性を露骨に反映したものとして注目されよう。第一部はオラトリオ風の冒頭からダイナミックな賛歌が続くが、私にはその響きが5~7番の充実した管弦楽~とくに6番のドラマティックな一楽章など~に近似しているように思われる。しかし、長大な第2部は前半陰うつな楽想に支配され、深い虚無感を感じさせる。3番の子供の合唱を想起させる楽想が顕れる後半においても、幸せな過去の回想が浮いては消える如き儚い調子で、明るい笑顔のすぐ後ろには虚無が有る。これは全く「大地の歌」に通じるものだ。マーラーはこの交響曲によって過去の総決算をしたように語ったというが、同時に残り僅かな未来をも歌ってしまったのだ。其の意味でもこれはマーラー「最大」の作品だ。>

8番の録音を残した著名指揮者の中で唯一ミュンヒェン初演に立ち会ったストコフスキ。このとてつもなく古いライヴの無茶な音の中から立ち昇る香気は何だろう。この音で初めて8番の素晴らしさに気付いたのだが、上手く説明できない。わかりやすさ、ニューヨークの音色の艶、何より歌手陣の(オールドスタイルによる)巧さが光っている。第2部をこれだけ聞かせるのは並ではない。長大ゆえかなり散漫なこの楽章を…
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