湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

マーラー:交響曲第4番

2006年10月10日 | マーラー
○テンシュテット指揮ボストン交響楽団、ブライン・ジュルソン(MEMORIES)1977/1/15live・CD

前半楽章は手堅い。2楽章にもデモニッシュなものは感じられず、明るくはっきりした演奏だ。しかし音符の一つひとつを慈しむかのような3楽章になるとやっぱりそこに力点を置いてきたか、といったところである。悲劇的な叫びや孤独で不安な歌いぶりから前向きな主題に回帰したとき、テンポを俄かに上げてしなやかにどんどんドライヴしてゆくさまにはテンシュテらしさ全開。オケとの相性もいい。というか弦が強力じゃないとボリュームが出ない曲だから弦がアンサンブル的にまとまっていてしっかり響かせられる音量を出せていないと、なかなか感情の綾の隅々まで表現を求めるテンシュテの芸風を活かすことはできない。テンシュテの場合オケの内面的燃焼度はあまり重要ではないからこそ(解釈は十分感情的なのだから)アメリカオケの機能性オンリーな性格にもあっている。4楽章もそうだがリズム取りは絶妙の域。激しいが見事。後期をさばくような構造面をしっかり把握したうえで起伏を盛り込んでゆく手法ではあるがこんな充実した4番もありだろう。この曲はそもそもマーラー屈指の構造をそなえた曲である。穏やかな独唱も綺麗。○。
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「オリギナール」なんてイマドキ無い

2006年10月09日 | Weblog
さっき飯作りながら思い出したけど、日清「麺の達人」の昔のCMソング(「メンタツは~まるっで生麺」)ってマーラーの4番1楽章第二主題の最終変奏からパクってるんですよね。マーラーだからあれもどっかから持ってきた可能性が高いと思うけど。そうそう、「ハウルの動く城」の戦前欧風キャバレー的なキッチュな音楽てたぶん直元はショスタコのジャズ組曲第二番ですよね。第何曲か忘れたけど構成がそっくり(楽想はショスタコ自体がギミってるものなので言い難いけど凄く似てる)。こんなん山ほどあるけどもうどうでもいいってかんじです。チャイコプロコにもちろんモーツァルトなんて無茶苦茶されてます。ヴォーン・ウィリアムズとかウォルトンとかはにやっとさせられるけど(さすがに日本でソレやられるとねえ・・・ウォルトンはブラスな人たちにはおなじみだろうけど)。
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ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ第3番

2006年10月08日 | イギリス
○メニューイン(Vn)フェンビー(P)(EMI)CD

枯葉の季節に格好の曲。LP時代以来久々の復刻とあって初回出荷はあっというまに売り切れたようだ。押し出しの強い、余裕綽々の演奏(この単純な曲でまで何故技術的余裕を見せつける必要があるのか?)に辟易としはなから数少ない盤を全て受け付けなかった私は、なぜかこのメニューヒンの衰えの目立つ演奏には惹かれた。多分にその(ディーリアスの)白鳥の歌にふさわしき老齢ぶりと今は亡き晩年の使徒フェンビーの伴奏であるという文学的理由によるところは大きいだろう。ただ伴奏のピアノにしても、曲の内実をわかっている(自分の筆で書いたものなのだから当たり前なのだが)フェンビーの解釈しない「引きの芸風」がそっと寄り添うさまなど、20年前にレコ芸かなにかで評論家の苦言を呈していた「技巧的問題」ウンヌンはあくまで傍出的状況にすぎずこの曲はそもそも技巧などひけらかしてはダメなのである。民謡風旋律の線的な繋ぎ合せによってのみ構成されている単純なさまは何も口述筆記によるからとかディーリアスの体調に由来するとかいったわけではない、体調もあくまで作曲家にとっては「状況」にすぎない。「これ」が書きたかったからこそ「こう」書かせたのだ。極めて単純化されたディーリアス独特の転調が諦念の篭った緩やかな旋律を風揺らせてゆくさまは、恐らく本作を4作(以上?)あるヴァイオリン・ソナタ中で最も聴きやすいものにしているし、ディーリアスという作曲家がどういう作曲家だったのかを簡潔に知らしめるのに適したものにしている。この曲にディーリアスの全てがあり、結論があると言ってもいい。演奏する側にしてみると、単純であるがゆえの難しさというのはまずある。冒頭に書いたように単に普通のピースとしてこれを弾いている若い演奏家には、まずもって枯れ果てた哀しみの荒野にそれでも憧れのロマンほのかに香る「この境地」を表現するのは至難だろう。メニューヒンですら音が甘すぎるように思うが、技巧に走らず(他の番号のものを聴けば別にこの曲レベルでは「走れず」ではなかったと思う、感情を抑えられないという意味での衰え・・・それを衰えとっていいものかどうかわからないが・・・がきかれるというのであれば同意する)白い五線の上にぽつぽつと配置された音符の一つ一つを明確にしむやみにロマン派的なルバートをかけないやり方をしている人を殆ど聴いたことがない私は、これに相対的に最高評価をつけざるを得ないのである。元よりリヒャルトとドビュッシーを掛け合わせたような非論理性すれすれの「ディーリアスの転調」が非常に単純化されたがゆえに危ういバランスを保っているからこそ難しいところもある。1楽章クライマックスあたりの極めて短い間に展開される激しい転調がイマイチ内面的に把握できないダメな私でもあるんだけど、メニューヒンはそれすら殆ど「解釈していない」。ロマン派的に読み取ってルバートなどしない。だがこれは解釈する必要はあるのか?これは「諦念」なのだから・・・晩年のシゲティがやったらどうなっただろう。フェンビーのじつにそくっとした遠い音、余りプレイヤー向きとはいえない無個性な演奏振りも意図なのだろう。ディーリアスはプロフェッショナルな作曲家であったがゆえにこの曲もしっかり決め事を守ったソナタに出来あがっていはいるしむやみに「哲学的要素」を読み取るべきではない、たんなる思い出のロマン派回帰の曲だと片付けてもいいけど(それまでの難解さすらあるソロヴァイオリン作品と比べればそう読めるから)、しかしこのニ楽章で軽やかに民族舞曲を盛り上げるのは違う、もちろんディーリアスは中間楽章としてきっちりそう構想したんだろうけど、無意識的にはぜったい、スケルツォ的な舞曲と考えてはいない。これは「舞曲への思い出」なのだ。そしてメニューヒンとフェンビーだけである、「こんなに暗い二楽章」を表現しているのは。それだけでも私は十分「受け取ることができた」。アイヴズふうに言うならば白い譜面を埋めるのは演奏する「貴方」である。楽器が弾けると口に出せるくらいの腕のアマチュアなら「簡単」におつりがくるくらいの譜面だろうが、「貴方の解釈を白い部分に埋め込むことで完成する」たぐいの作品なのだと理解して臨んだほうがいい。解釈に共感できるかどうかで単純な曲の演奏の印象は決まる。それはネガティブでもポジティブでもいいのである。誰かに共感させることすら必要ないかもしれない。晩年のディーリアスの心情は少なくとも、他人の感想などどうでもいい荒んだものだったのだから。

これをききながら私は二番目の師匠のことを思い出していた。老齢の震え掠れる不確かな音は確かに鑑賞に耐えうるものではない。しかし、そこには何か心を打つものがあった。表面上の下手は確かである、だがその根こそが重要である。心を打つのは表面にあらわれないきっと、非常に些細なポイントの積み重ねなのだ。些細なポイントを全部押さえているというのはようするに、それまでの人生の中でどれほど高みの演奏を行ってきたかというところに尽きる。「行うことができていた」かは、「聴こうという意志と耳さえあれば」聴き取ることができる。その指導を受けながら私は自分の想像力と感性を磨かれたように思う。技術的側面よりも知識よりも、それが最も価値があり、残るものとなった。

今は自分で磨くしかない。
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ショスタコーヴィチ:交響曲第5番

2006年10月08日 | ショスタコーヴィチ
○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(bbc,img)1963/2/22live・CD

カップリングの運命と違って無茶はまるのがおもしろい。直球勝負のトスカニーニぽい演奏ぶりだが3楽章はしっとりしたバルビらしい悲歌が聞き取れる。予想の裏ぎらなさ(盛り上がりかた)が安心して聴ける反面職人性が出てしまっているようでバルビらしさがないと思うが、ハレ管ともども攻撃的に攻め立てるさまはおもしろくないと言ったらうそになる。録音は古いがかなり耐用度(何度も繰り返し聴ける)の高い秀演奏。
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ベートーヴェン:交響曲第5番

2006年10月08日 | ドイツ・オーストリア
○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(bbc,img)1966/12/1live・CD

最初からもうばらけたハレぶりで、「やっぱり感」がある。ただバルビの力づく技に救われている。2楽章の強引な横の流れ重視の演奏ぶりには確かに聴けないこともない、独特の情緒はある。でもバルビとしてもベートーヴェンを意識しすぎて却って半端になっている。フルヴェンぽさが耳につく。3楽章からは壮年期バルビらしい強さの中にうねるような歌ごころを織り込ませたところもきかれ、ハレの復調したアンサンブルがやはり甘さは残るもののバルビの鷹のような目でドライヴされてゆくさまは結構強烈だ。録音のいかにもライヴ的なささくれだった荒れた感じも印象を強くする。バルビのベトは交響曲でも三つくらい遺されているがどれも曲のせいもあって二回聴けたものではない。荒れ狂うライヴのよく似合う運命くらいはまだ聴けた。贔屓目で○。
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マーラー:交響曲第3番

2006年10月07日 | マーラー
○テンシュテット指揮LPO&合唱団、イートン校少年合唱団、マイヤー(MEMORIES他)1986/10/5ロイヤル・フェスティバル・ホールlive・CD

非常に質の悪い「海賊盤の海賊盤」のようなMEMORIESのCDは買ったらすぐ聴いておかないと劣化します・・・はいいとしてやはりどうしても音質、とくに耳ざわりな放送雑音の混入には鼓膜が破れるかと思うくらいだ・・・は言いすぎだが、この演奏は円熟期のテンシュテットだからそれなりに深みもあるのだが決して暗さはなく、はつらつとした趣さえある。若々しい覇気がみなぎり前向きな演奏ぶりはオケや演奏家たちのやる気にもつながっているようだ。ロンドンとの相性というか慣れた調子は安心して聴ける。ロンドン・フィルの巧さは決して強い個性を押し出してはこないがどんな曲でもその曲の内実を色付けずに引き出して聞かせてみせるところにある。寧ろドイツ臭くもユダヤ臭くもない演奏ぶりはマーラーのコスモポリタンな側面を反映した正統な演奏と言ってもいいのかもしれない。コスモポリタンと言えばアメリカオケの意気雑然や逆に理路整然としたマーラーなどと比べてもどこかヨーロッパ的なしなやかさと滑らかさが感じられ耳ざわりがいい。だから録音が気になるのだ・・・。うまく調整してスピーカーできききましょう。終楽章の盛大でロマンティックなうねりには今聴かれないたぐいの古来のマーラーも宿る。小売初出はCD-Rレーベル。○。

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マーラー:交響曲第4番

2006年10月04日 | マーラー
◎クレンペラー指揮ベルリン放送交響楽団、トレッチェル(HUNT他)1956/2/18・CD

うーん、何度聞いても名演だ。ユダヤ臭はないが古典的整合性を重視とかいう次元じゃない境地である。唸りながらノリまくりのクレンペラー、かれに全幅の信頼をおいているかのように自在に操られる完璧なオケ。クレンペラーにはやはりベルリンが似合う。リズミカルで明確な刻み、しかし繊細な配慮の行き届いた音量変化をはじめとするルバート、必要以上にむせ返らないがてんめんなところはとことんてんめんな香気、全てがコントロールされているのにいささかもノリが失われず、とにかく愉しさすら感じさせる異例さで、他録も同じだがクレンペラーとこの曲の適性を考えさせられざるをえない。ワルターのように三楽章だけ突出することもなく(二楽章の舞曲表現の血も感じさせる見事さは特筆すべきだろう)全体としてコントラストがはっきりしているのにまとまっている。ライヴでこの精度とは。クレンペラー壮年期の物凄さを聞こう。HUNTにしては音もいい。◎。

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ルーセル:小組曲

2006年10月03日 | フランス
チェリビダッケ指揮ミュンヒェン・フィル(WME:CD-R)1990/2/10live

重いし感興がない独特の演奏。喜遊曲なのに喜びも遊びも感じられない。客観主義の権化というか、確かにもっと(もっと!)いい音で、たぶん会場であればルーセルに秘められた響きの変化の素晴らしさに感動しこの録音の最後にきかれるようなブラヴォを叫ぶようなこともあったろうが、この粗雑な録音ではちっとも「カロリー低いなあ」以外の魅力を見出し得ない。一日違いのライヴについて以前書いた印象と同じ。下手すると同じか?WMEは全般エアチェックなだけにとどまらず音が悪いので注意。
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ドビュッシー:夜想曲

2006年10月03日 | ドビュッシー
○アンゲルブレシュト指揮ORTF(DM)1963/12/17・CD

ディスク・モンテーニュの豪華盤から今や廉価でぜんぶ手に入るようになっているアンゲルブレシュトのステレオライヴ選集の一曲。これは今聴くと割合と地味で、透明で怜悧な解釈ぶりと適度な感興のバランスで聞かせているようにも感じる。解釈は時代的には独特だったことだろう(このころはもう分析的指揮もたくさん出てきたわけだが)、まるで解剖実習のような楽曲分解・再構築の成果として聞こえる。ミュンシュのドライヴ感とはまったく対極である。しかし清清しいリリシズムにはしっかりしたポリシーが宿り、ただ綺麗なだけのデュトワにもなっていない(クリュイタンスと言わないとこがミソ)。アンセルメの薄味とも違うのは、ライヴであることと無関係ではあるまい。その解釈ぶりが余りに「ミュージシャンズ・ミュージシャン」的であるがゆえに、また録音に奥手だったことも加えて恐らく今後もイマイチ評価の上がらない人かもしれないが、小曲ばかり残してしまったことも大きな理由である。ペレアス(いちおう別録とされているINEDIT盤ライヴもある)のような大曲で緻密繊細かつ大局的な解釈ぶりの巧緻が生きてくる人だと思う。特徴を短い曲で説明すると、手を伸ばしかねる人が出てくることを逆に私は恐れる。いずれこれは、私自身朝に他のことをしながら聴くには最適といいながら、しっかり耳を揃えて聴かせていただく、躍らせていただくというにはちょっと・・・他を選ぶかも、というくらいの位置づけにある。○。ほんとは夜想曲じゃなくて「イベリア」を含む大曲「映像」ステレオライヴがあれば聴きたかった。
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マーラー:交響曲第6番

2006年10月03日 | マーラー
◎ラトル指揮BPO(BP)1981/11/14,15live・CD

ラトルの「衝撃のベルリン・デビュー」をベルリン・フィル自主制作盤として再編集したもの。ベルリン自主制作シリーズは全般、海賊盤CD-Rなどに比べれば全然聞きやすいが期待ほどではなく、環境雑音も比較的入る(モノによってはエアチェックのような趣さえあるが、ほうぼうから掻き集めてきたものをシリーズで出したようなので仕方ないだろう)。しかも私の盤だけかもしれないが4楽章24分直前より26分くらいにかけて音飛びのようなものが聞かれる。短いがプレイヤーによってはかなりプチプチといわゆる「修復不能な劣化音」に近いものが聞かれ不安を煽る。いずれ自主製作ものとはそういうものなので仕方ない。

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<後日記>交換したところ全く支障なくなりました。たんに盤が駄目だったようです。したがって聴きなおしたところかなり耐用年数の長い「うまい作り」であるという観点から◎に上げておきました。確かに性急でストレートではありますがとてもよくまとまっている。ベルリンも全幅の信頼というわけではなくバラケもなくもないがドライヴがすこぶるいい。何よりたぶんリマスターがいいのでしょう。<後日記終わり>

録音がクリアなだけあり印象が以前の海賊盤とはあきらかに違う。エッジがやわらかく丸められたことで逆にボリュームと聞きやすさが増し、雑味とも受け取れた角がとれている、いずれ「若い演奏」ではあるのだが非常に気分を高揚させられる巧さがある。本番はもっと違ったのだろう。つくづく録音状態、盤質というものが音楽の本質自体を悪いほうに歪めて伝える可能性というものにおもいはせた。怖い。

楽しんで聞くには十分の素晴らしいドライヴ感、オーソドックスかもしれないが若さゆえの先走りという部分もなく巧緻のうえに実力も感じさせる。何度聴いても楽しめます。それゆえの強烈な個性は無いが。
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