湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆リムスキー・コルサコフ:シェヘラザード

2017年04月23日 | リムスキー・コルサコフ
◎ベイヌム指揮ACO(movimente musica,warner)1957/4/30アムステルダムlive

イワーノフのシェヘラザードを手に入れ損ねて不完全燃焼の状態にふとこの盤を手にとる(イワーノフはかなりリムスキーをいれているのだが復刻が進まない。時代が悪かった、スヴェトラ前任者でモノラルからステレオの過渡期にいただけに陰が薄くなってしまった)。びっくり。

物凄い力感である。そうだ、アムスはこんなオケだった。シェフ次第ではこんなに剛速球を投げる名投手だったのだ。もちろん音色的には必ずしも目立ったものはなくソリストも特長には欠ける(ヴァイオリンソロのとちりには目をつぶれ!)。しかしベイヌムという非常に求心力の強い指揮者のもとにあっては、ひたすらケレン味も憂いもなく、アグレッシブに(3楽章でさえも!)強烈な音力をぶつけてくる。録音も非常に強い。撚れなどもあるが生々しさこの上ない。とにかく気分を発散できる演奏で、まるでライヴにおけるドラティのように「中庸でも玄人好みでもない」ヘビー級の剛速球を投げつけてどうだ、と言わんばかりの感じ、もちろんリムスキーの色彩のフランスライクな側面が好きな「音色派」や、解釈の起伏を楽しみたい「船乗り型リスナー」には向かないが、単彩なコンセルトヘボウを逆手にとった「とにかくこれが俺のシェヘラちゃんなんだよ!オラ!」と言わんばかりの男らしい演奏、私は決してこれが一般的に名盤とは思わないが、個人的に◎をつけておく。飽きません。コンドラシンですらこざかしい。
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☆カウエル:妖精の答

2017年04月23日 | アメリカ
○バーン(P)(ACTA)CD

サティ的に単純化したドビュッシーの前奏曲ふうの断章に内部奏法による掻痒なハープ式装飾が美しく色を添える。この時代にありがちな極めてフランス的な夜のアルカイズムがそのままシミュライズされており「これ、何だっけ?・・・」と頭を悩まされることうけあいだが、単純な美感はなかなか独特の粋を感じさせてよい。短いことが効を奏している。演奏はややぎごちなく、パセージ途中の間髪なき内部奏法導入の難しさを感じさせる。二人でやればスムースかもしれない。曲は単純に綺麗で内部奏法にも山っ気がなく素晴らしい。○。
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☆シベリウス:交響曲第4番

2017年04月22日 | シベリウス
○セル指揮クリーヴランド管弦楽団(CO)1965・CD

この曲は厳しい曲で、毛一本入る隙の無い音作りが求められる。アマチュアレベルの精度では1楽章冒頭のハーモニックなやりとりすら表せないのが実情だろう。中期以降のシベリウスというとメカニカルで前衛的と言ってもいいくらい入り組んだアンサンブルに尽きるが、これはアンサンブル自体簡素化されている。そこが小手先ではいかない難しさである。長大な音符を微弱な音量でどう綾付けていくか、こそこそした動きにどう意味をつけていくか、全ての動きが正しく複雑な和声として認識できるように響かせられるか、このあたり並大抵の技師にはできないし、オケには無理である。もちろん古い録音では再現は難しい。力技で押す以外の方法は無いし、その方法は殆ど失敗する。その点セルはオケ的にも録音年代的にも恵まれている。迫力もあるしニュートラルなシベリウスではあるが、逆にニュートラルにしか表現しえない曲なんじゃないかと思うことしきりでもある。バルビの名演はオケゆえに軋みを生じているところがあるが、これにはそれがない(しかしレガート表現のしなやかさにバルビを思わせるところがある)。起伏無く終わるのは同曲の悪い点としてよくあげられ、バルビなどは作為的に起伏を作っているが、セルは起伏を作らずに、でもちゃんと聴かせている。曲の魅力をスコアからそのまま素直にうつしたものと言える。スコアから素直に、というと、1楽章の音線にドビュッシー「海」からの影響が現れているのを認識することもできるし、なかなか「勉強」にもなる。けして押しの強い演奏ではないが、いいものではある。録音はこんなものか。○。
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☆グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番

2017年04月22日 | グラズノフ
○シシュロス弦楽四重奏団(melodiya)

この曲はLP初期にレニングラード・フィル協会弦楽四重奏団(タネーエフ四重奏団)が録音しており、そのせいか番号付きの作品の中では古くから知られていたようである。同モノラル録音を私は聞いたことが無いが※、このステレオ盤は恐らくそこからは相当にかけ離れたものであると思う。即ちすこぶる現代的であり、そつがなく、「いかにも新世代の演奏ぶり」なのだ。先入観を植えつけられず聞くことができるし、奏者の奏法解釈から殊更に民族性が煽られないぶん最初に入るのには適しているとも思える。実にそつがないのだ。綺麗だし、完璧。ただ・・・終わってみて、すれっからしは「何か足りない」と思ってしまう。少なくともショスタコーヴィチ四重奏団に比べて音のバリエーションや魅力が(民族性という観点において)足りない。グラ5から民族性を抜いたら単なるベートーヴェンである、というのは言いすぎかもしれないが、やや物足りなさを感じさせるのは事実だ。○にするのに躊躇はないが、ライヴで聞きたいかというとそんな気も起きない感じではある。いや、譜面は完璧に再現されてますよ。テンポ的にも遅くならず、完璧に。巧い。

※執筆当時
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☆アイヴズ:賛美歌(ラールゴ・カンタービレ)

2017年04月22日 | アイヴズ
○ニューヨーク弦楽四重奏団、ブラーム(Cb)(COLUMBIA)1970/5/25NY・LP

この曲はなかなかいいバランスの演奏がなくて困っている。思索的だがわかりにくくはなく、解体された賛美歌旋律がシェーンベルク張りの伴奏音形の上に元の姿へ組みあがっていくさまは密やかだが鮮やかで、短くすっきりしているところもアイヴズらしくないまでに完璧でいいのだが(3番交響曲の終楽章を短くもう少し現代的にしたような感じ)、全く透明で金属的に演奏してしまうと何か「物足りない」。アイヴズはドビュッシー同様「プラスアルファを要求する」。それが過度であってもならないということも含め。なかなかに難しい。バンスタ以外で納得いく演奏、しかも本来の弦楽五重奏型式で、となるとないのかなあ、と思っていたが、これは非常に注意深く、過度にロマンティックにも、過度に透明にもならずに最後までもっていっており、うまいとこだけ印象に遺すようにしている。かなり弱音で貫いているのでともすると聞き流しかねないものだが、「押し」ではなく「引き」で演じたところに成功の秘訣があるように感じた。○。最後は協和音で終わるのが通例だがこの演奏では不安な不協和音で終わらせている。非常に注意深く演奏されているので違和感がなく、却って曲の哲学性を深める良い出来になっている。
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☆プロコフィエフ:「ピーターと狼」~序奏と行進曲(ヴァイオリン編)

2017年04月22日 | プロコフィエフ
◎コーガン(Vn)ヤンポリスキー(P)(multisonic)1947・CD

録音はモノラルでこのくらいなら十分いいと言えるのではないか、まったくコーガンの腕は確かで、とくにこういった同時代音楽をやらせるとむちゃくちゃに巧い。性があったということだろう。有名なマーチは技巧的な編曲がなされているが安定した重音表現とキレのいいリズムで、子供の音楽ながらも聞き惚れてしまう。変にヴィルツォーソとひけらかさないところがすばらしい。ピアニストは私はヤノポウロとてきとうに読んでいたがヤンポルスキーとは違うのか?
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チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

2017年04月21日 | Weblog
トスカニーニ指揮NBC交響楽団(m&a/NAXOS)1941/4/19live・CD

m&a盤は原盤状態が悪いらしく二楽章の派手な音飛び(のレベルではない…)を始めとして、終始ノイジーかつ篭った音なのは、もう聞く側で何とかするしかない(とはいえ度を越したパチパチノイズは板起こしとはいえ鼓膜が痛い)(NAXOSはましとのこと)。前半楽章は高音が伸びないばかりか最強音で低音が全く聞こえず、上り詰めた先突然スカっと抜けてモヤモヤする。トスカニーニの悲愴としては3年前の綺麗な録音復刻をおすすめするが、特徴としてはそれより心持ち直線的であるもののリズミカルで、二楽章の歌い込みは独特の節回しが前に立ち堂に入り説得力がある。音符を短く切ってハッキリとした演奏を目している。翻って一楽章は4番交響曲を思わせる劇性が引き立ち、メンゲルベルクのような特殊なものではないがヴァイオリンの僅かなポルタメントがトスカニーニにしてはかかりまくっているようだ(茫洋としてわかりにくい)。それも歌謡性のうちにある。三楽章は時代的に皮肉にも「軍隊的」で、ここにきてティンパニーもしっかり轟き、叩きつけるような表現で最後まで突き通す。これはもう派手派手に、しかし筋肉を緩ませることのない素晴らしいものだ。比較的落ち着いた拍手が入り、いったん絞られ、改めて四楽章が収録される。強いパチパチノイズが気になるものの、トスカニーニらしく、秘められた情念を抉り白日のもとに晒し出した悲劇的なフィナーレ。意外と暗いトーンが録音状態に合っていて、それは演奏家の意図的なものではないが、驚く。終演後戸惑い気味の拍手がパラパラ入りかけたところでトラックは終わる。トスカニーニの悲愴は40年代までだろう。
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☆ピック・マンジャガルリ:弦楽四重奏のための三つのフーガ

2017年04月21日 | Weblog
○スカラ座四重奏団(URANIA)LP

美しくいかにもラテンな曲。高音の多用や時折の晦渋さ、和声感がミヨーのカルテットを思い起こさせる。とても円熟した技法が駆使されており、聴いていて安心感がある。半音階的だったり不協和音が多用されるなど思索的な場面も多いが、旋律そのものには独特の感傷的な匂いがあり終始聞かせるものがある。南欧的なあけっぴろげなところがある一方で、ささくれ立った現代的なパッセージも織り交ざり、それらのミックスされた、いかにも近代と現代の狭間の音楽らしい多彩な魅力を放つものになっている。○。ミヨーの室内楽が好きな人なら気に入るとおもうが、ミヨーがさっぱりわからない向きは聴かないほうがいいでしょう。
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☆チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

2017年04月21日 | Weblog
トスカニーニ指揮フィラデルフィア管弦楽団(IDIS他)1942/2/8(18?)・CD

セッション録音。YouTubeでも聴ける。18日表記のものは誤りと思われる。演奏全体としてはひたすら直線的で原典主義者ここにあり、といった感じである。あまりの即物性ゆえこの音楽の持つ湿った感傷性がさっぱり洗い流されて、何が面白いのかさっぱりわからない演奏となってしまっている。フィラ管は非常に表現力豊かな楽団であり、この指揮者をもってしてもある種の官能性が染み出てくる部分はあるが、それも悪い録音のせいもあり気付かないほうが多勢だろう。オケも調子がいいとは言えない。このオケにしては、たとえば3楽章の弦の刻みが繰り返されるたびにちょっとバラケてきてしまったり、勢いにまかせどんどん走っていってしまいそうになる場面もあったりと結構ヒヤヒヤもの。でもまあ崩れずに終わるのがさすがトスカニーニである。トスカニーニは時に余りに力強すぎる。4楽章の悲痛な音楽、ドラマティック過ぎる。まるでテカテカのボディビルダーが力いっぱい慟哭しているような、もはや繊細な作曲家チャイコのカケラもない音楽で苦笑してしまう。そういえばこの演奏で弦にポルタメントがかかるのはただ一個所だけで、フィラ管としてもこの時代の演奏様式からしても特異。指揮するヴェルディに「その指示、譜面に書いてない」と盾突いたトスカニーニの筋金入りの原典主義は、もはやそれそのものがエキセントリックな一つの芸風として孤高の位置を築いているわけだが、トスカニーニがまったく譜面に解釈を付加していないかといえばそうでもなくて、とくに旋律表現における意外と細かい歌いまわしや緩急自在の音量変化には少なからず感情的な迸りを感じる。「カンタービレ」という言葉をよく使ったそうだが原典主義の前にトスカニーニの中にはまずイタリア人らしい歌心が鎮座しているというわけである。いろいろ書いたが、結論。はっきり言えば聞かなければいけない演奏ではない。マニアでもRCA録音があれば十分だろう。無印としておく。,
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☆チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

2017年04月21日 | チャイコフスキー
○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R/naxos他)1938/10/29live・CD

大変に立派な演奏。3楽章最後に盛大な拍手が止まらなくなってしまい、そのせいか4楽章冒頭が欠如してしまうという致命的な状態と、ピッチが低すぎるゆえこの評価にとどまった(DA盤の感想・naxos盤を確認したところピッチもおかしくなければ拍手はきっちり収まって冒頭より欠落なく四楽章に入る。同じ演奏なのだろうか?)。同年代の録音としては驚異的なクリアさで、トスカニーニが元気だったころのチャイコがここまで確信に満ちてびしっと表現され、板についたものとなっていた(即物的解釈なのに全くそれを感じさせない迫力が維持されるのだ)ことを認識させられなおした。とにかくこれを何度聴いても納得するだろう。ガウクのことを前に書いたが、言い方は悪いがガウクともレベルが違うとかんじた。バラケなんかもあるのだが、それが全く気にならない。3楽章は誰がやってもああなってしまう、とはいえスピード勝負とも言い切れない細かい操作がなされ決して手を抜いたり何もしない解釈にはなっておらず、録音状態というものの重要性を認識させられなおした部分もある。悲愴にはM&Aでステレオ完全補完版が出て話題になったが、それは聴いていないけれども(元の放送音源のほうはDAで聴いている)たぶんやはり、年齢の問題で決定的に完成度に差があることは確かだ。

トスカニーニの同世代でこんな垂直な演奏をやった人がいただろうか。しかし、垂直といってもそのフォルムの美しさは近代建築の美しさに通じるものだ。

(参考)トスカニーニの悲愴録音(特記しないものはNBC交響楽団)

1938L private(10/29?)
1938/10/29L DA/naxos/youtube
1941/4/19L music&arts/naxos
1942/2/8(18?)S Phila.O. IDIS/youtube
1947/11/24S RCA
1954/3/21L(stereo) music&arts/DA/IDIS/youtube
Comments (3)
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☆ブラームス:交響曲第4番(1885)

2017年04月21日 | Weblog
◎カルロス・クライバー指揮バイエルン国立管弦楽団(RE!DISCOVER:CD-R他)1996/10/21LIVE

これはもう3、4楽章の怒涛のように畳み掛ける音楽に圧倒されてしまおう。クライバーの棒は依然若々しく、楽団をぐいぐい引っ張っていく。楽団も通常以上の力を引き出されているかのようで、これがベルリン・フィルの演奏だと言っても騙せるくらい(ちょっと言い過ぎ)。4楽章は厳しい音楽だが古典的な佇まいから渋い録音が多かった。しかしこの録音は違う。悲哀を叫ぶ4楽章、そのスピーディーな音楽作りもさることながら、これほどの情報量が詰め込まれた4番の演奏はそうそうない。名演だ。
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☆グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(全曲版)

2017年04月21日 | グリエール
○ラフリン指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(RUSSIAN DISC)1974・CD

ラフリンはウクライナ出身のユダヤ系で、キエフを中心に活躍したソヴィエト時代を代表する指揮者の一人。ショスタコーヴィチの初演で知られる雄渾系指揮者だ。1933年ムラヴィンスキーに次ぎ第1回全ソ指揮者コンクール2位に輝いて後全国的な活動を始め、第二次大戦中はムラヴィンスキー後のソヴィエト国立交響楽団を率いた。1966年カザンにタタール国立管弦楽団を組織、1979年に没するまで音楽監督として指導にあたっていた。この演奏は前半が聞き物。1楽章から大変磨き上げられ引き締まった演奏ぶりでびっくり。ブラスの響きなどロシアそのものだが、例えば色気ムンムンであるはずの2楽章などこれがグリエールか、というくらい立派で清潔な音楽になっている。でも雄弁でダイナミズムは失われていない。民族性や爛熟ぶりを過度に煽ることがなく、非常に真摯な曲作りは胸を打つ。ワグナーからの影響を強調するかのようなドイツ指向なところもロシア臭さが感じられない要因であろう。3楽章はテンポが遅く客観的で美に徹しているかのよう。この最もロシア的なスケルツォをこうやってしまうのもラフリンの個性か。いずれにせよこんな3楽章初めて聞く。再現部になるとだいぶ盛り上がりが戻ってくるのだが。終楽章はロシアオケの響き全開でやってくる。だが肝心の所で音外しがあったり、うねるような曲想の起伏が今一つパッとしないなど、ちょっと落ちる感がある。締まった表現はいいのだが、全編のフィナーレとしてはいささか一本調子ではないかとも思う。回想シーンなどの聞かせ所が浮き立ってこない。長いからそれだと飽きる。それでも雄渾さと緊張感は最後まで持続し、人によってはしっくりくるとは思う。あとは色彩かなあ。ちと単彩。総じて○。
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☆ルーセル:交響曲第1番「森の詩」

2017年04月20日 | フランス
○デュトワ指揮フランス国立管弦楽団(ERATO)1985/6・CD

ルーセルは漢。作風は所謂印象派、バーバリズムから新古典主義へ時代の流れに忠実に非常に明確に変化したが、変化の間にあいまいさは皆無に感じられる。但し、もともと理知的で無駄の無い単純さへの指向も強く、幾何学的な整合性がきっちりとれた作品を作る傾向があった。数学を好む合理的な人だったからカントゥルムの先生にうってつけでもあったわけだが、比較的初期作品にあたるこの作品においても、ドビュッシー=印象派の影響が濃いとはいえけして非論理的な構成構造はとっていない(そもそもドビュッシーが嫌った形式音楽である「交響曲」なのだ・・・表題はあるにせよ)。印象派の影響というのは主題と和声だけにあらわれ、精緻な管弦楽法への指向は寧ろラヴェルに近い。

極めて明るく透明で美しい音楽は前期ルーセルのメリットが存分にあらわれたもので、この時期だけをとっても非凡な才能であったことがわかる。個人的には一番素直な才能が発揮できていたのはむしろこの頃だと思うし、曲的に好きな時期だ。単調だがそれであるからこそ強い印象を与えるリズムへの指向は既に現れており、後期で濃くなりすぎたオリエンタリズムの曇りや構造起因の響きの重さが無いぶん聴きやすいのは曲のメリットだろう。

デュトワ盤はしばらく殆ど唯一の音盤として親しまれてきた。この人はいい意味で曲の個性の灰汁抜きができる人なので、後期作品の入門には最適なのだが、この曲のあたりは比較対象がもっとあれば「無難」とか言うこともできるんだろうけど、現時点では「最適」と書かざるを得ない。明るく繊細な表現はどこにも心を曇らせる要素が無い。フランス作品を爽やかに巧みに表現していた、いちばんいい時期のデュトワが聴ける。○。今は全集でも廉価でお得。
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ルーセル:交響曲第1番>

1楽章 冬の森
2楽章 春
3楽章 夏の夕べ
4楽章 牧神と森の精

表題からわかるとおりバレエ音楽的で、言うまでも無くドビュッシーの影響が現れている。20世紀初頭の10年間に描かれた作品であることを考えると、実に「流行に乗りやすい人だった」と思える。ルーセル自身は1860年代の生まれであり海軍経験をへての遅咲きである。ドビュッシー同様、リヒャルトのような中欧音楽に感化された時期が既にあっての作品で、単なる浮ついた若者の初期作品ではないことは明らかだ。

本サイトのルーセルの項目
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ドビュッシー:歌劇「アッシャー家の崩壊」(オーリッジ編・補筆完成版)

2017年04月20日 | Weblog
ミューラー指揮ゲッティンゲン交響楽団他(PanClassics)2013/12live・CD

フランス近代音楽の研究家にしてコレクターでもあるオーリッジ氏のドビュッシー補筆完成プロジェクトについては既に何人もの方が言及されているし、「成果」発表会の一部をYouTubeで閲覧することもできる。ほんの五線の欠片からも1つの管弦楽曲を仕立ててしまう、前に鐘楼の悪魔について触れた通りそれら(氏が発掘し買い集めた断片的作品が含まれる)の要素にはオーリッジ氏が意思的に「作曲」したものが非常に多く含まれている。「現代にドビュッシーが生きていたらこう作曲したであろう」というと前衛手法を駆使し異化されたものを想像されるかもしれないが、氏のスタンスはあくまで「ドビュッシーの時代において「聴ける」音楽」の範疇にとどまる。これはかなり巧く、「聴ける」もので、この盤もそうだが演奏家に恵まれると音楽的に楽しむことすらおおいに可能だ。ただ、例えばサティにおけるカビー版とオーリッジ版の違いがどうなっているかはわからないがそれはマーラーの10番シンフォニーの補筆完成版においてクック版とカーペンター版が違う、というレベルの違いではないだろう。元は考証的であり、この盤(完成版の初演メンバーだが初演記録ではない)などほぼ完成されプレートルらの録音した部分を除いたところを聴く限りも、これほどの編曲ができるのならばクックがマーラーにおいてなしたこと(初版は最低限の管弦楽配置に留まっており盤でも聴ける、つまりアルマへの配慮もあろうが非常に分析的なところから始まったプロジェクトではあった)より余程巧緻な作曲センスの発露がみられる。ただ、繰り返すが、やはりドビュッシーが「完成していない」後半部の大部分に関しては、ドラマチックに過ぎる。現代の耳からすれば半端な前衛性、耳新しさに欠けた、いうなればカプレに構想だけ伝えられたものが没後に書かれたくらいの感触であり、管弦楽は迫力があるが(「遊戯」に似た本人筆の部分とは異質の明瞭さを示すも有機的に繋がってはいる)、歌唱が陳腐というか、フランス的ではないようにも思う。テクストは完成しているはずなのだが、そのうえでペレアスのような歌唱と管弦楽の完全に融和した流れはなく、単なるオペラ編曲になっている。いや、しかし、これはオーリッジ氏の作品としては最も良くできているドビュッシーだとは思う。…室内楽など、さすがに…らしい(聞いたことはない)。YouTubeに別日の録音が全曲あるし、レヴァインだったか、断片的なものもあるので、CDを求める前にそちらで試してみてください。
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☆ドビュッシー:管弦楽のための映像~Ⅱ.イベリア

2017年04月20日 | Weblog
◎トスカニーニ指揮フィラデルフィア管弦楽団(IDIS他)1941/11/18・CD

げげっ、凄いや。フィラ管に比べたらNBCなんてクソオケか。噎せ返んばかりの芳香に満ちた、非常に色彩的でとてつもなくイマジネイティブな演奏だ。これがトスカニーニか、と思うほど恣意的な表情の入る演奏ぶりで、しかもハープの突出に代表されるちょっと余りに印象派的な幻想が一層トスカニーニらしくない、でも紛れも無くドビュッシーであり、その最高の演奏であることを見せ付けるようなものになっている。うーん、うまく言えない。とにかく、最初の「街の道、抜け道を通って」だけでも聴いてみてください。確かに録音はサイアクのたぐいだが、ストコフスキの鍛えたオケにトスカニーニというシェフが付くとここまで凄くなるのか、という見本のような演奏です。リズム感も素晴らしい。トスカニーニの放つ絶妙のリズムをしっかり音として表現しきっている。そこには自発性すら感じられ、その点でもトスカニーニの専制君主的なイメージとは違うものを感じる。コンサートホールに響き渡る音響を想像しながら聞くと一層この演奏の魅力は増すだろう。こんなにノったトスカニーニも珍しい。名演。
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