湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ウォルトン:交響曲第1番(1932-35)

2017年06月27日 | Weblog
◎ボールト指揮フィルハーモニック・プロムナード管弦楽団(LPOの変名)(NIXA/PYEほか)モノラル・CD

<遠くから、幽かに響くオーボエ。前期シベリウスを思わせる神秘的で壮大な開始部は、しかしシベリウスよりもロ マンティックで「世俗的」だ。シベリウスの影響下にネオ・ロマンティックな交響曲を書いた音楽的辺境の作曲家は数多いが、ウォルトンのそれはとりわけリズムの多彩さと旋律のわかりやすさ、さらに新ウィーン楽派の洗礼を受けた作曲家であることを窺わせる冷たい響きによって明確に記憶に残る。やや長大なきらいもあり、終楽章など弦の一部パートを細分化しすぎてアンサンブルがまとまりづらくなっているところもあるし、ヴァイオリン協奏曲や弦楽四重奏曲(2番)といった曲とほぼ同じ曲想構成の中で、同じ事を言おうとしているのだから、芸が無いといえば芸が無い(但し本作はそれら一連の作品の嚆矢に近い)。音楽としての質でいえば「至高」と言うわけにはいかないだろうし、シベリウスの高みとは比ぶべくもない。わかりやすいのか難解なのかわからないところもある。一番特徴的なのは2楽章で、最もウォルトンらしい嗜虐的スケルツオだが、人を惹きつけるのはやはり畳み掛けるような息の長い旋律を繰り返す1楽章、3楽章印象的な深みある音楽から再び立ち上がり終結へ向かって轟進する4楽章だろう。結部において、大団円を打ち切るようなティンパニの連打があるが、皮肉屋のウォルトンらしいアイロニーであり、戦争の影でもある。(1995記)>

BBCのクリアさも良いが、愛着あるのは古いスタジオ盤だ。LPでもレーベルによって音が違い、CDでも多分そうなのだろうけど(LPしか持ってません)、フルートを始めとする木管ソロ楽器の巧さ、音色の懐かしさ、ボールトの直截でも熱く鋭くはっきりと迫る音作り(1楽章、終楽章など複雑な管弦楽構造をビシッと仕切って、全ての音をはっきり聞かせてしまうのには脱帽・・・ここまで各細分パートしっかり弾かせて、堅固なリズムの上に整え、中低音からバランス良く(良すぎてあまりに”ドイツ的”に)響かせている演奏はそう無い)はどの盤でも聞き取れる。揺れないテンポや感情の起伏を見せない(無感情ではない。全て「怒っている」!)オケに、野暮も感じられるものの、表現主義的なまでの強烈なリズム表現は曲にマッチしている。50年代ボールトの金属質な棒と、曲の性向がしっかり噛み合った良い演奏。もっとも、ウォルトンの曲に重厚な音響、淡い色彩感というのは、違和感がなくはない。

※2004年以前の記事です
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プロコフィエフ:弦楽四重奏曲第1番

2017年06月27日 | Weblog
パスカル四重奏団(forgottenrecords) 1962/5/23live放送

このコンサートの主題は現代ソヴィエト音楽だったようで、プロコフィエフ1番、ストラヴィンスキー三つの小品、ショスタコーヴィチ1番とチェレプニンの五重奏という、ほとんどもう聴けないような貴重なプログラムになっており、とくに最初の三曲は個人的に、それぞれのこの分野における紹介的作品で極めて分かりやすく、なおかつ隙きのない引き締まったものだと思っていただけに驚きの並びである。プロコフィエフはカバルタ主題の2番ばかりが演奏されるが旋律の美麗さ、簡潔だが特有の書法の魅力、構成の完成度はこちらの方が明らかに上で、旋律がひたすら弾きまくりバックは入れ代わり立ち代わりながらも基本的に律動を表現するのみという前ニ楽章が2番より劣るという評価になるのかもしれないが、アンサンブルとしてのやりづらさと曲としての価値は別物で、一般人は2番はすぐ飽きると思われる。格別の雄渾な主題からいきなり入る一楽章はミスを誘発しやすい粗野な部分はあり、スピードを落として整える録音は多いが、これはライヴゆえか思ったとおりのスピードを堅持し頼もしい。弓の荒れた弾き方も格好がいい。ニ楽章は要で、フーガの錯綜する上行音形の嵐のギチギチするような伴奏は旋律よりも聞き所となる。ここも瑕疵を厭わずとにかく弾きまくり、旋律楽器はそれに負けないよう必死で太い音を出す、そのさまはこの曲のあるべき姿を正面から提示している。やはりスピードは肝要だ。三楽章は民謡ふうの単純なほの暗い音楽で子守唄のように堕ちて退嬰的に沈む、これは謎めいているというか何か暗示しているのか、しかしあざといくらいの効果を上げる。この演奏では、そのコントラストはそれほど強調はされない。総じてライヴ記録としても貴重であり、このスピードじゃなきゃ駄目なんだ、という考えを再確認した次第。
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ミヨー:交響曲第4番

2017年06月27日 | Weblog
アドラー指揮VSO(SPA/forgottenrecords)1954

フランス二月革命百周年委属作で、ミヨーの大交響曲としては最高傑作として良いのではないか。古典的には自作自演しかなかった同曲にこのセッション録音が復刻された意味は大きく、ウィーンのチャールズ・アドラー(アメリカ人)の現代音楽LPレーベルSPAより一度きりしか発売されず、frはそれを単に板起こししたにすぎないとしても、手に入りやすい形となったわけで、貴重な記録としてもっと聞かれて良い録音だと思う。合唱を取り入れたり迷走した後のミヨーの以降委託交響曲(ほとんどの大交響曲は委託によるもので後期は交響曲の名すら外してしまう)のフォーマットとなった作品でもある。型式的にはいずれも完全に四楽章制の古風な佇まいを堅持し管弦楽のみによる。一楽章は行進曲風の進行の中に革命歌の旋律を取り入れ、そこに複調性をうまく融合させたものとして極めて取り付きやすい。4つの楽章には「蜂起」「共和国の犠牲者たちへ」「自由の回復の静かな喜び」「1948年の記念」という表題がつき、その通りの内容であるうえ、交響曲としての形式にもぴたりと当てはまり、内容を意識しなくともカタルシスの得やすい全曲構成。マーラー最後の弟子アドラーの指揮はそれほど強い印象を与えはしないが、癖のあるオケを使いながら純度の高い音でローカル色を排し、このいかにもフランス的な交響曲を戦闘的に、偉大に、力強く聞かせにかかっており、キッパリしすぎた終わり方でありながらも、しっかり大曲を聴いた感をのこす。モノラルなのは惜しい。
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ミヨー:バレエ音楽「世界の創造」op.81a

2017年06月26日 | Weblog
ロスバウト指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送交響楽団(forgottenrecords)1955/7/16live放送

録音が古ぼけて精緻な統制ぶりと的確な響きを引き出すテクニシャンぶりがほとんど伝わらず、耳を澄ませて集中して聴いて初めてこれがとても良くできた「クラシック」であることに気付かされる。ロスバウドのメシアンなど精緻であってもただ音符をオケの性質のそのままに音にしただけのような、モノクロームで魅力のない演奏になっているが、ミヨーにかんしてはほぼほぼジャズとして書かれているところを、ジャズに思いっきり振り切って吹かせておりまずはそれが単に楽しい。ガーシュインを先駆けたといわれるのもわかる。ロスバウトなので型に嵌められる堅苦しさはありドイツの重く渋い音の範疇ではあるが、それが逆にミヨーのアマルガムとわかるように書かれたアマルガムを、純粋なクラシックとして仕立て直し、きっちり纏めている。同曲をセミクラシックとしか認識できない向きは一度聞いてみるのも良いかもしれない。フランス物にはフランス物ふうの美しい演奏もなしたロスバウド、ここではそのての美観はなく、ジャズが主役である。
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ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番(ピアノとトランペットのための協奏曲)

2017年06月26日 | Weblog
ベルグマン(P)ロスバウト指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送交響楽団(forgottenrecords)1956/7/23live放送

何でも振ってしまうなあというロスバウトで、ショスタコのシニカルな雰囲気をかもす薄い書法、スピーディで軽い協奏曲の雰囲気を重要視せずウィリアムテルからの剽窃すら抽象化してしまい、色彩感を排した音の饗宴、古典的なピアノ協奏曲として(トランぺッターもクレジットされているものの)重量感を持たせビッチリ、オケを統制して聞かせてくる。ロスバウドはあくまで職人的にきっちり仕立てたふうで曲にはあまり思い入れはなさそうだが(聴かせどころを作るようなことはせずスコアの再現に専念する)、旋律より構造に力点を置いた特徴的な演奏といえる。オケは指揮者のきびきびした指導のもとに、トランペットソロを含め全く危なげなく極めて明瞭にやっているが、ノイジーでかなり擦れた録音で、さらにバランス的にオケが引っ込んでいるため、細部はわからない。ソリストは技巧的で安定しているが殊更に特徴はない。あきれるほど巧いトランペットがかえって小粒感を煽ってしまう不思議。
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オネゲル:交響曲第5番「三つのレ」

2017年06月26日 | Weblog
フレイタス・ブランコ指揮ORTF(forgottenrecords)1960/2/11live

意外と深刻な音楽でびっくりする。晴明とした楽想が現れるとツィピーヌ的な明るさは顔を出すが、ミュンシュ張りの緊張感をもって曲をザクザク切りすすめ、掘り下げている。この両指揮者の演奏との共通点を感じる、「正統な演奏」というふうで、ブランコ独自の娯楽性やラテン的なノリ、リリカルな余韻はあまりないが、ルーセル4番とこの曲という取り合わせを考えてもこの日のコンサートの性向がわかるというものだろう。リアルなレの発音による終わり方はミュンシュ的。意外とおすすめである。モノラル。
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☆ガーシュイン:セカンド・ラプソディ(1931)

2017年06月26日 | Weblog
◎シーゲル(P)スラットキン指揮セント・ルイス交響楽団(VOX)、
レヴァント(P)モートン・グールド&彼のオーケストラ(SONY)CD

私がガーシュインをクラシック音楽家として初めて意識したのがこの”ピアノ協奏曲風作品”であり、(「パリのアメリカ人」を彷彿とする)喧騒の主題が展開した副旋律(リズミカルな伴奏音形にのって夢見るようにかろやかに謡われる)はガーシュインのクラシック中では一番好きな旋律だ。ブリッジ構造の中間を謡い尽くす緩徐主題(まさにガーシュイン・アリア)の直後で、小太鼓のリズムに乗って勇壮に再現されていくところは、転調にあきらかなプロコフィエフの影響がみられるものの、秀逸。ここだけでも当時脂の乗り切っていたガーシュイン自身をして「これまでの自分の交響的作品中もっとも優れている」といわしめたのがうなづける。ガーシュインをソングライターあるいはめまぐるしい旋律の連環を聞かせる作曲家と考えていた聴衆の半数はしかし、長いわりに主題が二つしかなく、しかも変奏曲としてみるにはいささか平板でお定まりの音色変化や他のクラシカル・ミュージックからの剽窃的表現に終始する、などといって余り評価しなかった。ハードカバーの評伝「アメリカン・ラプソディ」では多少好意的だったように思うが、どこかへいってしまったので(すいません)引用できないのは口惜しい。クレルマンの「ガーシュイン」ではあきらかにそういった意味のマイナス評価がくだされている。でも、たとえばラプソディ・イン・ブルーやハ調のピアノ協奏曲に感じる、大管弦楽におけるガーシュイン・ミュージックの「座りの悪さ」が、このハナから大管弦楽で演奏されるよう企画された曲には殆ど感じられず、特にここに挙げたスラトキンの廉価盤など、ピアノ独奏以外の部分がじつに明るく透明なニュアンスに富んで耳を惹き止まず、立派な近代クラシックとしての「まとまり」を強く感じさせる。作曲家はこの曲を「ピアノ独奏とオーケストラのための曲」ではなく「ピアノを伴ったオーケストラのための曲」とした。其の点を良く意識した演奏だけが真価を探り当てることができるのだろうか。ガーシュインが自ずより巧いと評価したレヴァント盤の即物的表現(オケも恐らく版が違うのか手を入れられていて、編成が細く生彩に欠ける)はあくまでピアノ独奏をきわだたせるような演奏だ。この力強いだけの演奏を聴く限りでは、クレルマンや同時代の評論家のいう”素材に対して長すぎる音楽”という表現は当てはまる気もする。・・・要は演奏なのだ。ちょっと目を転じこれをロシア音楽として捕らえた場合、 14分前後はけして長くはない。トスカニーニをへてクーセヴィツキーにまわった初演権は日をあけずに翌年早々ボストンとニューヨークで披露された。作曲家独奏による。ちなみに作曲家は今までの例にならい、完成前に独自のオケをやとって試演したものをNBCに録音しているが現在一般にきくことはできない。はじめに言ったとおり評価は二分され再演機会は殆どなくなってしまったのだが、スラトキンの引き締まり徒にジャズ・ラインを取り入れない真摯な棒は、この曲がガーシュインの管弦楽曲にしてはかなり凝った音響を目していると再認識させるに十分だ。パリのアメリカ人に比べれば水をあけざるをえないが、秀作といっていいだろう。もともと映画「デリーシャス」の素材を流用したものである。作曲家が一時期呼んでいた「マンハッタン・ラプソディ」の名を、個人的には凄く気に入っている。

※2004年以前の記事です
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ガーシュイン:パリのアメリカ人

2017年06月25日 | Weblog
クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団(columbia/erato/warner)1949/2/15-16シャンゼリゼ劇場・CD

SP期の珍しいセッション録音で、しかもガーシュインのこの曲というのはかなり少なかったのではないか。パリのアメリカ人と言いながらパリで録音されるのはグローフェのオーケストレーションに更に編曲を加えた「ジャズ版」ラプソディ・イン・ブルーくらいで、一応、ガーシュイン単独の管弦楽曲としては、何の素材を流用した、あるいはする前提にせよ円熟期の代表作として「クラシック音楽として」纏められた作品で木琴を叩いた(これが上手いのだがほんとだろうか)自作自演もあるくらいで、個人的にもジャズ・クラシックの金字塔と思っているくらいだから、車のクラクションなどすでにサティで飽き飽きしていたパリの聴衆に受けなかったのかどうかわからないが、やっと戦後に、しかもこの後もあまり演奏されていないのは不思議なものである。パリを揶揄している側面もあるからだろうか。評論家ドビュッシーにしても案外と音楽そのものより背景を重んじる芸術の都である。前置きが長くなったが、アメリカ人はドビュッシイズムの影響下に現代音詩というものをわりと多く書いている。これもその範疇に入れられるだろう、即物的表現より感傷的な響きと何より旋律の美しさ、それらの構成の明瞭さが際立っており、どの作曲家のものより優れて耳に残るし、悪口を書くのも難しい。ジャズとクラシックの融合(併合)をはかったポール・ホワイトマンからはすでに遠く離れた「ガーシュイン」という音楽ジャンルになっている。ミヨーがフィードラーに強いられて書いた凡作「ニューヨークのフランス人」を見ても、ミヨー自身ヨーロッパに帰ってジャズをクラシックにも取り込みうるイディオムを持つものとしていち早く作品化した先駆者だっただけに、長年かかって世界戦争二度も終わってまだ、クリュイタンスにしか許されなかったのかという…つまりは著作権的なものやレコード会社の都合もあったということか…録音事情に、ミヨーがそんな感じになってしまっていたのも仕方ないかとは思う。とまれ、これはけして状態はよくないが、従来通りブラスセクションにはジャズふうの奏法を取り入れているところもあるけれども、クリュイタンスらしくあくまでクラシック音楽として整え、血気盛んな(?)オケを上手にさばきながら、今にも通用するレベルのガーシュインにまとめてきている。根本がジャズであることを下品な響きで強調したり、スコアの再現を精緻に行って却って旋律音楽の底浅さを炙り出してしまったりなどしない。うまいところで「寸止め」している。時代としてはよくやってくれたという気はする。すくなくとも、このまだ懐かしい響きを残したオケで。
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☆ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番

2017年06月25日 | ラフマニノフ
○オボーリン(P)ガウク指揮ソヴィエト国立放送管弦楽団(appian他/melodiya)1947・CD

国内盤CDでも出ていた有名録音だが、最近お徳用で集成されたappianの組盤を買い初めて聞いた。とにかく驚いた。これ、完全にLPからの単純板起こしでしかも、かなり劣悪な盤を使用している!!!自分でCD-Rに焼いたほうがいくぶんましなほどだ。酷い。聞いていられない。音場が安定しない、雑音は露骨に入り続ける。メロディヤの古い録音にありがちなぼやっと遠い再生がそのまま雑音塗れで提示され、正直ガウクの音なんて殆どわからない。酷すぎる。2楽章なんて音場が左に寄ったままふらふらしている。変な擬似ステレオ効果が更に酷くしている。盤としてはまったくダメだが、無理して音をきくとこれが直線的でけっこう解釈しないものでありながらも、オボーリンはとにかく余裕しゃくしゃくで豪快に弾ききっているし、ガウクはその赴くままにブラスを鳴らしまくってロシアオケの長所を最大限に引き出そうとしている。演奏的にかなり堂に入ったすばらしいもので、繊細な叙情や音色の妙こそ聞き取れないものの、とくにオボーリンの指の強靭さと確かさには舌を巻くばかりだ。○。

※2007/6/14の記事です
Comments (4)
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☆ディーリアス:二つの水彩画(フェンビー編)

2017年06月25日 | イギリス
○バルビローリ指揮ロサンゼルス室内管弦楽団(DA,VIBRATO:CD-R)1969/11/17LIVE

ウォルトンなどと一緒に演奏・放送されたもの。この曲は非常に簡素なオーケストレーションの施された弦楽合奏曲で、合唱曲「水の上の夏の夜に歌わる」から編纂されたものだが、動きのない和声的な一曲目と、民族舞踊ではあるが「早くはなく」との指示があるいかにもディーリアス的な二曲目からなり、演奏技術よりも、いかにアーティキュレーションを効果的につけるか、表現の振幅をこの揺れの無い微温的な楽曲のうえに描き出すかが鍵になっている。バルビは好んでこの曲を演奏したが、ディーリアスの他の「簡素なほうの」曲で示した独自の耽美世界をここにも描き出そうとしている。しかし曲自体それほど長くも激情的でもないだけに、バルビ的というほどの個性はきかれず、フレージングの節々でみられる微細なポルタメントなどバルビ特有のものはあるものの、爽やかに聞き流せてしまう。いや、この曲ではそれで十分か。○。録音の位相がおかしい。元からの可能性もあるが、左右逆かもしれない。

※2007/4/3の記事です
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☆ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲

2017年06月25日 | イギリス
○ジースリン(Vn)フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団(melodiya)live

ライヴならではの瑕疵が独奏者・オケともども相当にあるものの、しかしそれを力技で押し切ったような演奏。技量に沿わない高速で、「良く言えば」若々しさを前面に出し切ったような力感、結果指が回らなかったりとちったり何弾いてるんだかわからない部分が散見されたりと、コンクール的視点からだと「悪い意味で」やばい。だが何かしら、英国やその他「綺麗に弾こうとする」国々の演奏家と違った、「これでいいのだ」の魅力がある。フェドもフェドで褒められたバックアップではないが、独奏者とマッチしてはいる。技巧的にめろめろと言ってもいい演奏だが、ウォルトンのバイコンと言われて真っ先に思い浮かぶのは、この演奏だったりするのだ。○。前は細部まで聴くスタンスじゃなかったのでベタ褒めしてしまっていましたねえ。

※2009/10/8の記事です
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ルーセル:交響曲第4番

2017年06月24日 | Weblog
フレイタス・ブランコ指揮ORTF(forgottenrecords)1960/02/11live

派手でガツンガツンくる精力的な演奏で、謎めいた暗闇、あるいは浅浅しい律動を一貫して意味あるものとして、正面から突き通していく。スピードや力感こそミュンシュを思わせるも、ミュンシュ特有の肉感的な変化の付け方はせず、音色はカラフルで旋律はリリカルで、そこにド派手な音響で有無を言わせない。ブランコにこういう暴力的ですらあるやり方ができたのか、という面と、ルーセル適性を強く感じる。ルーセルの中でもクセのある構成の交響曲だと思うのに、ベートーヴェン的起承転結がついて、拍手でおわる。モノラル。
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ラヴェル:マ・メール・ロア組曲

2017年06月24日 | Weblog
アンゲルブレシュト指揮ORTF(forgottenrecords)1961/7/4live

モノラルではあるがこれは素晴らしいライヴ。アンゲルブレシュトのちから強く確信に満ちた表現に心奪われる。七曲それぞれ夢幻溢れる美しく無邪気で、時に劇的に、最後には春の光差す庭園の緑の霞むが如く管弦楽版を感情的に…感傷的に描ききっている。アンゲルブレシュトは独自の編み方をしているが、ライヴ記録なりの迫力があり、オケも瑕疵なく一心同体となってラヴェルの世界を展開していく。拍手も盛大。
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ラヴェル:マ・メール・ロア(ピアノ四手原曲)

2017年06月23日 | Weblog
ダルレ、フェヴリエ(p)(forgottenrecords)1958/6/17パリlive放送

放送エアチェックか、混信的なノイズが入る。この原曲の難しさがよく伝わってくる。ラヴェルのお気に入り(というか友人の子供という感じで可愛がった)フェヴリエは後年のような遅いテンポはとらず速いダルレにつけているが、いかんせんテンポ感や、こんな重音アリかというような響きの調和において、ズレを感じさせる。この不格好さはライヴだから仕方ないともいえるし、フェヴリエのタッチにクセが強いせいのようにも感じた。よたるというか、音圧のかけ方に偏りを感じる(Adesセッション録音集ではスピードを落としてもペルルミュテールなどにくらべ音色はともかく表現にクセは残っていたように思う、、、サイン入りLPが二束三文で出ていたなあ、CDあったから買わなかったけど)。雰囲気(音色)はギリギリというか、ラヴェルなので、繊細にするにも単純なのに工夫が強すぎて限界があり、録音状態のせいかもしれないが、強過ぎる寸前の感。妖精の園はそれでもゆったりとしているから、終わりの方はリズムも交錯しないし無茶な重音もないので、鐘の音の下で木琴のグリッサンドのように残響のないタラララをやって、拍手は普通。
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ミヨー:エクスの謝肉祭

2017年06月23日 | Weblog
ダルレ(P)デゾルミエール指揮ORTF(forgottenrecords)1947/10/30パリlive放送

ラヴェルが嫉妬したといわれるバレエ音楽「サラド」の改作op.83bだが圧倒的にこちらのほうが有名である。民謡調と世俗味に彩られた12曲の旋律音楽はミヨー好きにはむしろ分かりやすすぎる剽窃感あふれる即物的な雰囲気を持つが、特有の和声感や構成感は若干のノイジーなものも含めて至るところに顔を出し、六人組の一員として時代の先駆にいた、この作風をずーーーーーーっと1970年代まで貫いたんだ、という嚆矢の初々しさを味わうのも良い。ヴァイオリンの超高音の下で滑らかにピアノが流れるなど、どちらの楽器も良くしたミヨーならではの感覚が活きたりしている。録音がややノイジーで古ぼけているのと、デゾルミエールのどこか緩いのにテンションの高い伴奏ぶりが気になるところもあるが、ミヨーの書法には気合を入れないと弾けない側面はあり、そこをデゾは理解しているともいえる。意外と色彩感は出ていて、ダルレの鮮やかだが力任せには決してしない弾きっぷりと合わせて、往年の色褪せた演奏の感はしない。この音楽の「現役感」はさすが同時代+後代の音楽の擁護者デゾ、メシアンはさすがに厳しかったがジョリヴェは立派にやっていたし、ミヨーだともう時代的には同志ということになろう(サティをめぐっては総体としては離反した六人組のあとにアルクイユ派と称し入ってきたわけだが)。
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