湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ドビュッシー:チェロ・ソナタ

2017年06月23日 | Weblog
ジャンドロン(Vc)フランセ(P)(forgottenrecords)1957/9/22live放送

互いに良く知った曲ではあるが、ここではかなり落ち着いた雰囲気より始まる。プロローグはなかなか聴かせる。セレナーデからフィナーレにかけてジャンドロンの腕の衰えがかなり感じられるところがあるが、スピードも起伏も抑えることなく、やろうとしていることはわかる。雰囲気(響き)の調和はフランセの機械的ながらも柔らかく細かい音のうえにしっかり作られており、大ミスがあったにしても温かい拍手で終わる。録音はややノイジー。
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ストラヴィンスキー:バレエ音楽「火の鳥」組曲

2017年06月23日 | Weblog
アンゲルブレシュト指揮ORTF(forgottenrecords)1958/6/21シャンゼリゼlive

五曲を選んでのライヴだがina.fr配信のもの同様、録音の悪さ、弱さは気になる。ただこちらの方が盤であるせいもあってか音の迫力はいくぶん大きく、そのぶんオケの乱れやミスが目立ってしまってもいるのだが(やはり機能性を売りにしていないオケにとってストラヴィンスキーは鬼門のようだ、野暮ったいところもある)ドスンドスンと重く壮大にやるアンゲルブレシュトのロシア物への流儀が後半適用されており、抜粋だから盛り上がりどころを分散させてしまった感もあるが最終的には凄みを感じさせる。客席はまあまあの反応。
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☆アイヴズ:ウィリアム・ブース将軍の天国入り

2017年06月23日 | アイヴズ
○ドレーク(B)グレッグ・スミス指揮コロンビア室内管弦楽団、グレッグ・スミス・シンガース(COLUMBIA)1966/5/4・LP

前衛手法がかなり露骨に使われている人気曲である。昇天の皮肉な情景に見えなくも無いがちゃがちゃした内容だが、弦の驚異的なグリッサンドや微分音(だと思うんですけど譜面見てません)の繊細な「ざわざわ感」や叫び風の合唱など、交響曲第四番二楽章にも使われた素材のカオスはこれはベリオかと思わせるような感じだ。部分的にはストラヴィンスキーの初期作品の構造的なバーバリズムを想起させたりと、アメリカ住まいのストラヴィンスキーも私的演奏会に通ったという(しかし微妙な)精神的近似性もさもありなんと思わせるところだ。表出力に優れかっこいい演奏であり、まずはこれでも十分楽しめるだろう。室内楽的で、なかなか緊密だがしかし自由さもありよい。歌唱はろうろうときをてらわないものだ。(救世軍のブース将軍のこと)

※2006/3/23の記事です
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☆ボロディン:弦楽四重奏曲第2番

2017年06月23日 | ボロディン
○ポルトロニエリ四重奏団(columbia)SP

この楽団の国民楽派録音では他にドヴォルザークのアメリカ全曲、チャイコのアンダンテカンタービレがあるというが未聴。しかしpristineで復刻されたマリピエロが余りに素晴らしかったので盤面状態を顧みず買ってしまった。ノイズリダクションの課題はあるものの演奏自体はやはり素晴らしい。トスカニーニのようだ、という表現が正しいか。歌心を保ちながらもオールドスタイルからは一歩抜け出したテンポ設定。ボロディン2番はグズグズになりがちなので即物的なスタイルになる演奏も多くプロ奏者には決して受けない印象があるがこれは、ほんとに細かいところで作為がうまく組み込まれており、とくにソリストとしても活躍したポルトロニエリの全体の流れを乱さないフレージングの独特さ、ルバートのかけ方が素晴らしい。細かい指摘をするのが好きではないので所を明確にはしないが1楽章の「この二度目は付点音符を切ってくれ!」と常々思っていた個所、4楽章の「ここの付点音符はよたったように詰めてワルツ感が欲しい!」と常々思っていた個所が悉く解釈として提示されているのに瞠目した。俺100年前の人間だったのか。そうじゃなくて、これは決してでろでろではないが、確かに「音楽を解釈することで人を楽しませた時代のアンサンブル」なのだ。スケルツォの勢いも素晴らしい。ノクターンは全体の中ではいささか長い感じがするがSP奏者にありがちな音のヨタりがなくかといって単調な美観をはっするでもない、イタリア四重奏団の古い録音の音を思い出す良さを発揮している。◎にしないわけはハッキリ、私の盤の状態の悪さが邪魔して真相が見えないところがあるから。あと、4楽章序奏部フレーズの繰り返しがカットされているのも痛い。4楽章はどうも急いて終わってしまう(盤面にして僅か一面)。夜想曲の人気が高かったからと言ってこれは全体構成上おかしい。○。
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☆グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(1909-11)<完全版>

2017年06月23日 | Weblog
ファーバーマン指揮ロイヤル・フィル(UNICORN-KANCHANA)1978/12/14,15,17・CD

<ここにはムソルグスキー(2楽章)、チャイコフスキー(4楽章)、グラズノフ(3楽章)、スクリアビン(2、4)らの、それまでの全てのロシア音楽が包蔵され、一方でワグナーからリヒャルト・シュトラウス、マーラーといったドイツ・オーストリア世紀末音楽の残響(1、2)、プロコフィエフに繋がるような民族的主題の現代手法による料理(3)、兎に角さまざまな20世紀初頭的要素が混在している。この一曲でロシア民族楽派の終焉と新しいソヴィエト音楽の夜明けが体験できる。無論表題交響曲であるから劇音楽風だが、内容的にもチャイコフスキーの悲愴を思わせる結末では、それがリストの影響色濃いロシア楽派本来の伝統だと気付かされよう。この曲が革命に向かって雪崩落ちる帝政ロシア最後の爛熟大作であることを考えるとさらに感慨深い。スークのアスラエル(死の天使)交響曲と並び、近代と現代の過渡期における最後の民族主義交響曲として、これからも長く名を残すであろう。グラズノフと一括りにされることがあるが、グラズノフが結局ロシア帝国時代の作曲家であったのに対して、グリエールは新しい時代の作曲家であった。この差は聴けば歴然である。>

~なっがーーーーーーーーーーーーーーーい!!
45分目処の曲だと思ったら大間違い、ほんとの全曲版は93分かかるのだ。短縮版と同じく4楽章制で各楽章の表題も同じ。全楽章がだいたい半分くらいに縮められているのがわかる。長い英雄譚の筋書きに基づいて書かれている表題音楽だが、ワーグナーの楽劇が必ずしも話の筋を知らなくとも楽しめるように、「イリヤ・ムーロメッツ」という人物がどんな波乱に満ちた人生を送ろうとも、それから解き放たれて自由に想像を膨らませることができる。大編成のオーケストラでこれだけの長さをもった誇大妄想的な交響曲を書いたロシア人はグリエールぐらいだろう。この作品をもってグリエールは世紀末的な爛熟したロマン性を包蔵した音楽を書くことを止めてしまう。革命後、まるで社会主義体制に寄り添っていくが如く、簡潔で平易な作風に転じる。社会主義リアリズムの思想に賛同し、積極的に体制側につく。いくつかのバレエ音楽で知られるがいずれもこの作品のようにドロドロした暗いロマン性は微塵も持たない作品となっている。まあ、そうはいうもののイリヤ・ムーロメッツは西欧の世紀末音楽に比べればずいぶんと簡単でわかりやすいものであり、「わかりやすい」ことこそがグリエールの本質なのかもしれない。旋律の魅力はグラズノフほどではないにせよその後継者たるべき素質は十分にあったわけである。だが、短縮版で目立ったメリハリある表現、魅力的な旋律は、この完全版で聞くとのべつまくなし、やたらと繰り返されていいかげんイヤになるほどである。比較的ゆっくりとした部分の多い楽曲の中で唯一グラズノフ的な祝祭的雰囲気を持つ、スケルツォに相当する3楽章は、7分(短縮版で5分弱)かけて気分を浮き立たせるが、他の楽章が27、8分という異様な長さのため、それらの中であまりに目立たない。2楽章など私は好きなのだが、まるでスクリャービンの後期交響曲の法悦的場面がえんえんと続くような生暖かい楽章となっている。いや、スクリャービンを通して見たワグナーの影響と言った方が妥当か。最初は好きだから楽しんで聞いているのだが、そのうち「おいっ!!」とツッコミを入れたくなるほど長々と続く法悦に嫌気が差してこなくも無い。終楽章なども長い。寝てしまう。ムーロメッツは石となって死んでしまい、ほかのすべてのロシアの勇士も死んでしまうという悲愴な楽章だが(いかにも帝政ロシア末期的発想だ)まあ楽想は面白いものの、ここまで長々とやる必要があるのか?と思ってしまう。まあ、1楽章もそうなのだが。ファーバーマンは定評ある指揮者だが、若干綺麗すぎる。ロイヤル・フィルのチャーミングな音色も曲のロシア色を薄めている。だがしかし、もしロシアの演奏家による全曲版を聴いたとしたら、あまりの脂身の多さにヘキエキすることは間違いなく、やはりこのような穏やかで美にてっした演奏こそが正しいやり方なのだろうとも思う。録音が弱い。もっとメリハリのある音がほしい。・・・とりあえずは参考記録として無印にしておく。この他に完全版の録音を知らないから相対評価できません。NAXOS盤は全曲版と称しているがどう考えても70分台に抑えられるとは思えないので、あやしい。(未検証ですが。)

※2004年以前の記事です
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グリエール:交響曲第3番「イリヤ・ムーロメッツ」(短縮版)

2017年06月23日 | Weblog
ストコフスキ指揮フィラデルフィア管弦楽団(victor/andante他)1940/3/27・CD

ストコフスキーは作曲家本人了承済の短縮版を使用していたが大曲志向のストコフスキー、せめて構成的に偉大な盛り上がりを作る終楽章くらい切らないで原典でやってほしかった。表題交響曲ではあるが世紀末爛熟交響曲としてはスクリアビンの跡を継ぐ(二楽章が露骨な)作風であり、しつこいくらい繰り返されるモチーフのカッコよさ、噎せ返るような総合的な響きはせっかくフィラデルフィア管弦楽団なことだし、とくに妖しい色彩をはらむ二楽章は新しい音で聞きたいもので、想像力をもって補わなければならない戦前戦中録音だと辛いところもある。それでも同曲をこのんで録音したストコフスキーのSPの中でも新しい方で、グラズノフ流の三楽章の素直な力強さはこのオケの弦楽器の骨頂をみせているのが(まあまあ)聴き取れる。ノイジーだが音そのものはクリアはクリアなのだ。音に少しキレがなくなってきているのは、トスカニーニにも似たイケイケスタイルだったのが独自のぼわっとしたボリュームに特化した音表現に変わりつつあることを示している。テンポ的にはまだ押せ押せではあり、迫力はある。四楽章はもういきなり暗闇から焦燥感が飛び出し、切り詰められたドラマが音色変化の鮮やかさやリズム処理の常套的だが効果的なさまを次々ハイハイと提示してくる。長々しく楽しめる版ではないので、耳を峙てできるだけノイズ除去しリバーブをかけてしっかり聴いてほしいところである。モチーフをくっきり浮き立たせ、回想的フレーズを織り交ぜつつ壮麗な響きを背景にチャイコフスキーふうの構造を盛り込んだドラマをこれでもかと積み上げてから、各楽章にあらわれる主題の明確な回想を走馬灯のように流しつつ退嬰的に終わる。後半はいいのだが前半端折ってしまうのが、どうにもこの版のいただけないところだが、グラズノフ&チャイコフスキーという終わり方は好きな人はとても好きだと思うし、そのように切り詰めた版として全曲版より好む人もいるだろう。

(後補)CD化していた。音質もかなり良いとのこと。以下過去記事(2004年以前、andante盤評)より改めて転載します。

ストコフスキ/フィラデルフィアの録音は戦前戦中の時代にしては驚異的な良い音で残されている。この録音も古さは感じるものの聴くのにとりたてて支障はない。また、短縮版とはいえ46分を要しており、十分な聞きごたえだ。3楽章がちょっと短い感じはするが、長い曲が苦手な人にはオススメではある。この曲を駄作と断じる人もいるようだが、帝政ロシア末期という爛熟した時代の産んだ最大の記念碑的作品であり、グラズノフのつたえた伝統をしっかり受け継いだ作品としても重要である。そんなにしゃっちょこばらなくても、多彩で美しい旋律だけを追っていても十分に楽しめよう。晦渋さは無いとは言わないが殆ど気にならない。旋律の流れは分厚い音響に埋もれることなくきちんと自己主張している。この演奏はそのあたりの配慮が行き届いているので、「ロシア物?チャイコフスキーくらいしか知らないよ」という面々にも理解しやすく出来ていると思う。ストコフスキの面目躍如、颯爽と、さわやかに、ロシアの昔話を語ってみせたかれの非凡さに打たれた。なんだかんだ言っても録音が古いので、○ひとつとしておく。それにしてもああ、何て面白い曲なんだろう。
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ラヴェル:スペイン狂詩曲

2017年06月23日 | Weblog
フレイタス・ブランコ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(forgottenrecords)1959/04/17ジュネーヴlive放送

放送エアチェックレベルのノイズや撚れが気になるモノラル録音。中プロとして演奏された、得意のラヴェルである。色彩的で力感もかなりのまっとうな演奏であり、音色は透明でアンセルメ的だが表現はフランスの指揮者である。細かい音符まで明確に聴かせる指示もこのオケにとっては当時お手の物だったろう。ロザンタール的なテンポの落ち着きはあるが、打楽器の重い音による派手っぷりは少し違う。技巧的にも問題ない(すこうし反応が遅いか)。壮絶な終曲にブラヴォ終演。
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シャブリエ:スペイン

2017年06月23日 | Weblog
フレイタス・ブランコ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(forgottenrecords)1959/04/17ジュネーヴlive放送

ポルトガルの指揮者にしてフランスで活躍したブランコにとってラテン物はお手の物だろう。明るく、しかし開けっぴろげにはせず、軽快に楽しくやってのけブラヴォで終わっている。モノラル。
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プロコフィエフ:交響曲第7番「青春」

2017年06月23日 | Weblog
フレイタス・ブランコ指揮スイス・ロマンド管弦楽団(forgottenrecords)1959/04/17ジュネーヴlive放送

録音状態は放送エアチェックレベルで3楽章からはノイジーで聴きづらいところもある。モノラル。これは一楽章冒頭から超高速インテンポで度肝を抜かれる。ボレロとは真逆、音に全くこだわりなく心のない即物的解釈。こんな極端なのは逆にブランコの個性だろう。ただ設計の通りらしいのは展開部から中低音域に重みが出てきて、それらしい「音楽」になってくるところで、再現部に頂点を持ってくるよう意図されているのだ。中間楽章はまともだし瞬間的には恣意的なルバートもかかるし、何より四楽章で一楽章主題の再現は盛大なフォルテにより盛り上げている。緩急の緩が意図的に暗くせず流されているのはブランコならではだが、変な思い入れのある演奏「にすべきではない」曲という考えもあるのかもしれない。ラストの軽快な版の選択も当然で、客席は大ブラヴォ(この日のメインプロである、恐らくアンコールを除くコンサート全曲がこの盤におさめられている)。独特のライヴを聴きたいならお薦め。frの発掘音源でブランコをシリーズで復刻している。スイス・ロマンドはアンセルメに鍛えられた技術、透明で明るい色調へのこだわりを良い方向に持って行っている。曲のローカル色を廃しフランス的な音響配置によりむしろブランコとの相性がよくなっている。
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サン・サーンス:動物の謝肉祭組曲

2017年06月22日 | Weblog
チッコリーニ、ワイセンベルク(P)プレートル指揮パリ音楽院管弦楽団(erato,EMI,icon)CD

腕利きの家具職人の手遊びで作った小物が後世衆目を集め文化財になった。そんな存在がこの曲集である。精密機械のようなワイセンベルクにしては重くてギクシャクした冒頭はチッコリーニとの敢えてのカリカチュア表現かもしれぬ、と終曲のパロディで猥雑さを実に下卑て描くプレートルらの上で滑らかに音符を並べ立ててみせるさまを聴きながら思う。「水族館」「白鳥」などソリストにやはり弱さを感じつつも、終わり良ければすべてよし。こういうプレートル節好きにもアピールするだろう。
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ラヴェル:ラ・ヴァルス

2017年06月22日 | Weblog
ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(RCA)CD

何といっても正規セッション録音を先ずは聴くべきだろう、戦後ミュンシュのラヴェルは。この曲はたくさんライヴ録音がのこっているがすくなくともBSOとのセッションは必ずコンサートで披露してからの周到なもので、妙な破天荒さを求めなければ、そのライヴより劣っていることはけっしてない。この演奏もボストン交響楽団のパワー、あけっぴろげに轟かせる響きを存分に聴かせるよう録音されており、こんな音を出すオケなんだという見本で、ラストへ向かっての畳み掛けもミュンシュはテンポを揺らさず真っ直ぐに圧をかけていく、オケはそれを忠実に、明確にはっきり打ち出してくる。軋みも生じようものだがセッションではギリギリの線でぶつけてくる。ワルツの愉しみなどといった生温いものはない。破滅へと向かうデモーニッシュな舞踏を、ミュンシュのもとに叩きつけてくる。これを軸に興味があれば、いろいろ聴いていくと幅は広がって行くだろう。
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☆ドヴォルザーク:チェロ協奏曲

2017年06月22日 | 北欧・東欧
○ロストロポーヴィチ(Vc)クーベリック指揮クリーヴランド管弦楽団(DA:CD-R)1976/2/16live

いよいよもってソロは円熟味を増し無理も強引さもなくなめらかに大きな音楽のうねりを作っていく。ロストロ先生絶頂期の記録といっていいだろう。だがバックがジュリーニ並に大きくさほどうねらないのが意外だ。クーベリックがアメリカのオケを振ると時々こういうライヴになる。無個性的ですらある。ほんと老年ジュリーニに似ている気がする。演奏総体としても、ジュリーニや小澤あたりのバックとつけた正規盤に近い感じがし、しかし膝録ゆえ音がヘンな遠近感で聞こえるゆえ、評価はし難い部分もあるが、とにかくロストロ先生の音がインホール録音にもかかわらず「マイクなんか使わずに」ダントツでオケを抑え雄弁に、がっちりと語りかけてくる。ゆえ、真ん中の○としておく。最後の爆発的なブラヴォーに、臨席できなかった無念を思う。絶頂期ロストロ先生のドヴォコンを聞けなかった無念を。まさに低弦の王はカサルスではなく、この人であった。

※2007/2/26の記事です
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☆ドビュッシー:フルートとハープ、ヴィオラのためのソナタ

2017年06月22日 | ドビュッシー
○ランパル(Fl)ノルドマン(Hrp)ブルーノ・パスキエ(Va)(SAPHIR)1999・CD

ランパルの音線がさすがに細く、速いパセージでは心もとない指遣いも気にはなるが、それを補って余りある他二人の演奏へのパッションが全般として心地よい聴後感をあたえることに成功している。とくにヴィオラが凄い。ランパルの最早個性も押しの強さもない達観したような音遣いはむしろドビュッシー的な幻想味を全般に雰囲気としてあたえ、ノルドマンも個性的ではないが確かな表現をけして雰囲気を邪魔しないように綺麗にのせてきている。3楽章のパスキエを中心とした火花散る音楽の交感が聴き物だろう。ここでのヴィオラは非常に激しく、込み入ったアンサンブルを面白くまたなめらかに聞かせてくれる。改めてドビュッシーがこの曲に「取り戻した」形式感の存在を感じ立体的な音の交錯に耳を奪われる一方で、モザイク状に組み合わされた変則リズムを如何に違和感なくすっと聴かせるかだけではなく、「その違和感こそがドビュッシーなのだ」という部分もちゃんと残している。ドビュッシーを一本の音線で聴くとけっこう無作為で気まぐれなリズム変化や転調が頭を混乱させる結果になりかねないが、そこがやはりドビュッシーの現代性でもあり、ラヴェルにはできない特異な才能の発揮されている部分なのである。二拍三連的な変拍子の多用もドビュッシーが切り開いたアンサンブル技巧の世界だが、その不思議な聴感に不思議な軽い不協和音をともなう旋法的旋律が載ることによって「初めて完成する」世界であることを忘れてはならない。これは表裏であり渾然一体となっており、拍子だけだったらロシア国民楽派が既にやっているマンネリズムだし、不協和音や旋法なら先発後発にいくらでも使い手がいる。それだからこそ、ドビュッシーには「印象派」という言葉によってしか表現しえない部分が存在する。晩年作品には形式を重視しすぎてどっちつかずになってしまうものもあるように思うが(ヴァイオリン・ソナタなどもそう思う。折角のピアノソロ曲にも通じる美しい素材を生かしきれずに形式でカヴァーしてしまったような)、この曲は牧神から一貫して創り上げてきたアルカイックな世界の一つの終着点として、また形式との折り合いをもっともよくつけたものとして(3楽章など驚異的である)特筆すべき、室内楽における最高峰である。編成のわりに「情熱」すら受け容れる曲なのだなあ、と改めてパスキエの表現を聴いて思った。○。

(お詫び)なんでかわかりませんがいつもとんでもない間違いをします。チェロじゃなくてヴィオラでしょうに・・・(シュヴァルツコプフをソプラノと書いて以来

※2006/12/20の記事です
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ストラヴィンスキー:ペトルーシュカからの三つの楽章

2017年06月22日 | Weblog
ルービンシュタイン(P)(Ariola他)1961カーネギーホールlive・CD

依属者唯一の記録とされる。作曲家に超絶技巧曲を要求してその想定レベルを遥かに超える編曲を返され、数年は演奏するも年齢を重ねてから取り上げることはほとんどなかった。そんな70代のリサイタルでの貴重な記録。やはり冒頭から難度の高い一曲目では指のブレ、打鍵の衰え(なのかもともとこういう発音の仕方なのか)、リズムの狂いにより精度をかなり落としてしまって非常に聴きづらい。一方でこの曲には作曲家が言うようなメカニカルなものだけが存在するのではなく、依然抒情が存在すると論議をかけたという伝説を裏付けるが如く、意図して取り出し弾き直すかのようにペトルーシュカ原曲にあるリリカルなフレーズやドビュッシー的な響き、あるいはヴィニェスが得意としたような、つまりルビンシュタイン自身が同じリサイタルで取り上げた南欧の曲のような美観を繊細なさざめきのようなトレモロや極端に柔らかいタッチで感情的に織り交ぜていき、二曲目ではとくに素晴らしく美しい音色世界を、けしてスピードを落とすではなく(大体ヴィルトゥオーゾピアニストがノンミスでリサイタルをやり通すこと自体むずかしいわけでルービンシュタインが曲や時期によりいいかげんという話もどうかと思うし(ギレリスの遅くて端折った演奏はじゃあどうなんだという)、コンサートも終わりと思われるこの曲に至りこのスピードを乱れながらも突き通しただけで凄いものだ)きらびやかに展開したのは素晴らしいと思う。三曲目再び乱れが目立つが一曲目ほどではない。曲と演奏家の志向の違いが既に明確になっている上で、それでも演奏家が自分のものとしてやりきった感のある歴史的記録。今はwebでも聴ける。
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ストラヴィンスキー:ペトルーシュカからの三つの楽章〜Ⅰ.ロシアの踊り

2017年06月22日 | Weblog
ホロヴィッツ(P)(EMI/naxos)1932/11/11ロンドンアビーロード第三スタジオ・CD

最古最速のセッション録音、とは言われるが、時代なりの「演奏精度」でありメカニカルな意味で完璧というわけではない。志向しているのは作曲意図通りの抒情を排した演奏で、楽曲からも根本となる旋律や響きを除けば意図的に排除されているが、この曲集の売りである冒頭いきなりの打楽器奏法、過剰な音の重なりにリズムや和音の交錯、そのいずれの強打っぷり、正確さを捉えるには古すぎる録音であり、盤面状態や復刻にも左右されるレベルで、正直わからない。ダイナミックな動きを正確に、リズムリズムの骨音楽ではあるから、それが切れていることもわかるので、技術はこの時代では確かで新しいタイプだったのだろう。後年の繊細な配慮の行き届いた演奏ぶり、わりと細い音で綺麗に厳しく聞かせるホロヴィッツの片鱗はみえるが曲には合っていない。ホロヴィッツをこと更に持ち上げる必要はない…難しいところではしっかりテンポを落として整えてもいる。ホロヴィッツ自身は同曲を好まなかったというがさもありなん。
Comments (4)
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