湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆アイヴズ:管弦楽組曲第2番

2018年01月27日 | アイヴズ
○ストコフスキ指揮ロンドン交響楽団(intaglio)1970イギリスlive・CD

現在はmusic&artsでも出ている英国初演記録かどうかは不明だが、london正規録音に先立っての演奏会記録というデータを信じれば恐らく同一と思われる。この海賊盤の抜けがよく、より鮮明な録音であることは確かである。但し2箇所、冒頭も含めてかなり耳障りなノイズが入る。アイヴズの静寂、とでも呼ぶべき冷たい情景に劣化媒体のような雑音はかなり気になる。もっとも原盤からこうだったとは思えない・・・私は最初この盤の不良品(中身が全く違っていた)を掴まされ売主に逃げられた経験がある。箱入りの一枚ものにもかかわらずライナーもなくデータも不確か、やはり一枚もので箱入りだったalrrechino等イタリア盤でもライナーはきちんとしていたから、その前に流通していたこのてのものに文句を言っても仕方ないところはあるが。。肝心の演奏は非常にストコらしいアイヴズをロマンティックな前時代的な感傷のうちに押し込め、特に歌詞のあるなしにかかわらず歌唱の入る部分での処理の訴えかけるような(ややおしつけがましいがオケがLSOなのでそれほど濃くならない)表現は、この指揮者が合唱指揮をへていることも思い出させる。ロマンティック過ぎてちょっとアイヴズとしては甘ったるさが胃にもたれるけれども、元来の混沌としつつも冷たい衝突する響きが残り辛うじてバランスを保っているし、持ち味が薄い表現であるロンドンのオケというところも功を奏している。○。

曲はアイヴズの常として個別に作曲された三曲の寄せ集めでいずれも特有の情景「活写」的なものだが、宗教性を背景としたアメリカニズム鼓舞に回顧的な内容を伴う表題性の強い作品で演奏機会も多いほう。表現によっては尖ったアイヴズが独創的な理知性(一曲め「我ら祖先へのエレジー」の最後で何故賛美歌詞を排したのか?等)のもとに一定の距離感をもってそれら感傷的要素に対峙していたことがわかるが、この演奏にはそこが無い。

※2009-05-08 09:31:38の記事です
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☆ドビュッシー:3つの交響的エスキース「海」

2018年01月27日 | ドビュッシー
○ミュンシュ指揮シカゴ交響楽団(000classics/DA/SLS:CD-R)1967/7/15レイビニア音楽祭live

DAは日付表示が無いがシカゴとの記録はこれしかない筈(シューマン4番、リスト(アンリオ・シュヴァイツアー)1番との組み合わせ、DAには牧神も収録されている)。

この凶悪さというのは何なんだろう。もうこのくらいの年になってくると何でもありなのだろうか。シカゴは機能性のオケである。それでも雑然と聞こえるのは録音のせいだけでもあるまい。しかしその雑は力感からくるものなのだ。やる気が凄い。キンキン金属音をたてる弦楽器も海がどうこう言うよりミュンシュの音楽をやるんだという意気を感じる。1,2楽章も凄まじい何かいじってないのにいじりまくっているような生々しいリアルさをもった迫力演奏ぶりだが、終楽章冒頭の緊張感も何か切羽詰りすぎているというか、ミュンシュにしては何故か専制君主的で陸軍指令官のように指示をとばしまくるさまが聴いてとれるようだ。ベートーヴェンの吹くラッパが進軍を指示するなり逆側から聞こえてくる(爆)弦楽器が轟音をたて始める。ヒステリックで観念的で、原譜検証とか合理的指揮法とかもうそういうのは半世紀以上前に勉強しました、といわんばかりに荒れに荒れまくる。音がまたヒステリックに生々しいのだ(いいとは言わない、エアチェックのレベルだから)。やがて海が凪いで延々我慢のフラジオをヴァイオリンが奏でる下でフルートが凄まじく伸び縮みしながら終盤へ向けて一くさりやるところの実に繊細な雰囲気にはかつてのミュンシュの「フランス派指揮者」としての面目躍如たる部分が出ている。しかしそれが終わると弦の「やっときたかよ!!」というような雪崩れ込みで全ての繊細な夢はぶち壊れる。それはまるで大波と大波の間の束の間の静けさだったのだ。そしてどんどん走っていく。音楽はどんどん走っていく。それでいいのだ。怒涛の海は海岸の木々を薙ぎ倒し、全ての砂が奪われていく。朝には天空を焼き尽くす太陽のもと、黒々とした大海原と、新しい地層をあらわにした海食崖が白く光り輝くのみ・・・燃え尽きた灰のように。これがミュンシュの行き着いた「海」である。

※2007-02-10 19:19:30の記事です
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☆ヤナーチェク:ヴァイオリン・ソナタ

2018年01月26日 | 北欧・東欧
○マテラッシ(Vn)ダラピッコラ(P)(stradivarius)1950/12/30フィレンツェ・CD

異様な迫力のある曲で、内容のある曲とはこういうものを言うのだろう。同年代の作曲家でも前衛的感覚の鋭さや新しいものへの貪欲さの強い、しかし同じくらい民族楽派としての立ち位置にこだわった作曲家もいまい。冒頭よりやや古風な国民楽派的メロディが続くがフランクからドビュッシーなどフランス派的な響きやフレーズが断続的に現れ、フォーレをエキセントリックにしたような音楽というべきか、思索的な繰言、あるいは短い叫びのようなものが何度も地面に向けて叩きつけられる、形式的なものなど殆ど無視され音楽は盛り上がっていくが、最後はアダージオの闇に沈む。個人的なもののみならず時代性とも切り離せない陰のある音楽で名技性に依ることなく円熟した書法が反映され、何か病んだ自己韜晦的なものも抽象的に昇華されている。演奏はある意味ニュートラルであるがゆえに本質に迫っているようだ。ヴァイオリニストは巧い。ダラピッコラは伴奏として完璧な表現を提供している。

※2009-05-18 09:41:14の記事です
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☆ドビュッシー:小組曲(ビュッセル編管弦楽版)(原曲1888ー89)

2018年01月26日 | ドビュッシー
ビュッセル指揮

◎フランス国営放送管弦楽団(COLUMBIA/PATHE)1952:LP

SPではパリ交響楽団と表記されていたようだ(下記andante復刻盤かもしれない、またこのPATHE盤はandante復刻とおなじく名称上はColumbiaでも出ているので、そもそもデータ誤りの同一録音の可能性もあるが個人的には別と思う)。ビュッセルは作曲家の友人(指揮、作曲)で、これはその指示を受けながらピアノ連弾の原曲より1907年管弦楽編曲されたもの。春のうららの平明で晴朗な曲感はわかりやすくきれいで、作曲家のオーケストレーションではないにも関わらず人気者。アマチュアでもよく取り上げられる。1楽章:小船にて、2楽章:行列、3楽章:メヌエット、4楽章:バレエ。対照的な楽章をはす違いに配し、いずれも小粒ながら旋律はきわめて明確でしっかりした形式感を持っている。ドビュッシーらしい冒険はまだ控えめだが、ビュッセルの施した水彩画のような色彩はこれが新しい時代の音楽であることを改めて認識させる。この演奏はそんなビュッセルの指揮だから軽やかで耽美的と思っていたが、意外と重量感があり、充実した響きにびっくり。ドイツふうだなとさえ思った。オケの明るい音色からも、いわゆる鈍重な演奏になることはないのだが。奇矯な音を響かせるよりも全体の構成感を大事にしているようだ。そのため輪をかけて聞き易くなっているのは確かで、ちょっと違和感はあるもののこれが編曲者の意図だったのかとハッとさせられるところがけっこうある。ゆったりしたフレーズのニュアンス付けがロマンティックで情緒てんめんだが、弦が薄い?せいかあまり目立たない。バイオリンの旋律にはしばしばばらけたような音が混ざるが気にはならない。この時代でこの抜けのよい明晰な音であるということは紛れも無く優秀録音ということなのだが、私の手元の盤は傷多く雑音が多い。◎。この盤は高額なら手に入る可能性がある。ビュッセルは100歳以上も長生きし、1970年代まで健在だったが、指揮記録はごく古いものしかない模様。

○コンセール・ストララム管弦楽団(COLUMBIA/ANDANTE)1931/5/26・CD

急くようにつんのめり気味なのが時折気になるがこの無理したような速いテンポは収録時間の関係だろうか。新録より若々しいとも言える。素朴な音だけど作曲(編曲)時期に近いだけの生々しさがあり、とくに4楽章は荒さが味になっている。上手いオケではないが音や表現に実に雰囲気があるから、技術や音質にこだわりがなければ楽しめるだろう。

※2004年以前+2005-03-27 11:55:20の記事です

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☆マーラー:交響曲第1番<巨人>(1884-96)

2018年01月26日 | Weblog


○バルビローリ指揮

ニューヨーク・フィル(NYP)1959/1/10カーネギーホールLIVE・CD
ハレ管弦楽団(DUTTON,CEDAR/PYE他)1957/6/11,12・CD

バルビの演奏は優しさで出来ている。聞こえるべき音がつぶれていたり(前者)音場が不安定な珍妙ステレオ録音だったり(後者)しても、一貫して流れゆく柔らかな抒情味には独特の味わいがある。ハレ管など技術的にかなり危なっかしいが、長年の付き合いもあってバルビの特質がニューヨークのものより一層よくあらわれているといえる。たとえばゆっくりめの2楽章などいい意味でも悪い意味でもバルビ的。リズム感はあまりよくないが旋律としての表現は微に入り細に入る配慮の行き届いたもので、とくに中間部のデロデロ具合は並じゃない。ポルタメントも多用されちょっと気恥ずかしくなるほどだ。終楽章はとにかく壮麗。光り輝くコーダのニュアンスに富んだ表現は実に美しい。一方NYPの演奏はダイナミック。録音こそ悪いが、たとえばブラスと絡むと聞こえなくなるヴァイオリンの音を脳内補完して聞くなどするとそれなりに楽しめる。終楽章の後半はとくにダイナミズムと抒情の絶妙にバランスの取れたカッコイイ音楽になっている。この組み合わせの演奏をアメリカで聞いたアルマが絶賛したという話は有名だが、NYPなりの荒々しさを巧く情熱的な音楽に昇華してみせるバルビの腕は相当なものだ。しかしここでも聞きどころは何と言っても緩除部の旋律表現である。3、4楽章中間部の感傷性は印象的で、甘やかで自在な歌いまわしはバルビの真骨頂というべきものだろう。完成度でいえば前者、個性でいえば後者。あとは好みか。○。

チェコ・フィル(bs)1960/5/15live・CD

協会盤。これはバルビローリの得意中の得意曲で、ニューヨーク・フィル公演にてアルマの賞賛を受けたことは有名だ。その遺された記録の中ではやや下の録音か。まず状態が良くない。分離が悪くて、このオケならではの折角の弦楽器の各声部がきちっと別れて聴こえて来ず、もやっとヤキモキする。しかしそれでもヴァイオリンの音域は比較的はっきりしているので、三楽章の(冒頭コンバスはヘタクソバージョンだが聴こえづらい…)中間部、夢見る歌謡旋律は縮緬のようなヴィヴラートの襞までびっちり揃って美しくひびき、「弦のバルビローリ」を堪能できる。もっとも独特の効果的な歌い回しは控えめ。オケの(ヴァイオリンの)美質を(異様に)引き出すに留まっている。この演奏では四楽章の緩徐主題でも同様のものがきかれ耳を虜にする。一方でブラスは野放図にきこえる。あけっぴろげで雑味がある。これもオケの特質かも知れないが。もう一つ文句をつけるとすれば二楽章の遅さだがこれは解釈なので仕方ない。全般とおして拍手も普通で名演の範疇には入らない、あくまで客演記録のレベルとして認識できるものではあるが、バルビローリ好きでイギリスやアメリカ以外のオケを聴きたい向きにはいいか。フランクの正規録音とは比べるまでもない音質なのでご注意を

※2004年以前+2016-10-17の記事です
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ファリャ:恋は魔術師組曲

2018年01月25日 | Weblog
デルヴォ指揮ORTF(ina配信)1970/6/14live

この組曲だと終わり方が何か締まらないがまあいいか。25分ほどで通して聴くとなかなかのボリュームである。デルヴォーも歳を重ねて弛緩傾向が出てきたのか、そもそもファリャはこういうすこし薄くて莫大な感じの管弦楽を描いていたか、火祭の踊りのこけおどし感は後者のせいかもしれないが、これは管弦楽組曲を聴くというより、物語を背景とした劇音楽として通して聴くと起承転結のついた大きなスケールを感じ取れる。通常の同曲抜粋を聴く感じでは知らない曲続きで飽きてしまうかもしれない。個人的にはたしかに飽きるところもあるが、こう聴くのか、という新しい面白みを出してくる、雄大な演奏とかんじた。無料で聴ける。
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ラヴェル:ボレロ

2018年01月25日 | Weblog
デルヴォ指揮ORTF(ina配信)1970/6/14live

デルヴォーにはいくつも録音があるが、これはやけに遅く客観的な演奏で始まる。マルティノンのようだが精度は上がらず(オケのソリストのせいというか)弛緩傾向を感じさせる。テンポは揺れず、なかなか盛り上がらないながらもクレッシェンドしていき、やや悪い録音のなかやっと大きな音は出るしデルヴォならではのソリスティックな歌い回しもさせてはいるが、かなり控えめだ。それが個性を最後まで出さないで終わってしまった、という感想につながる。急に盛り上がるもすぐ終わり拍手は少し盛大。無料配信されている。
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☆リヒャルト・シュトラウス:ばらの騎士組曲

2018年01月25日 | ドイツ・オーストリア
○バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(IMP,BBC)1969/8/9プロムスLIVE・CD

この曲を得意としたバルビだがこの異様な熱気に包まれたライヴでは殊更熱が入っているようだ。晩年ゆえ激しいというほどでもないがスタジオとは比べ物にならない躍動感と覇気に満ちている。名前を伏せて聞かせたらケンペのようなリヒャルト指揮者と勘違いする人もいるかもしれない。バルビを下手な指揮者だと認識している人がいたらライヴでリヒャルトの錯綜した音楽をこれだけ精妙にまとめることのできる指揮者、しかもハレ管という楽器としてはいささかランクの落ちる楽団を使ってここまで表現しきることができる指揮者ということで認識を改めるかもしれない。拍手が終演を待たずに入ってくる熱演(といってもテンション芸ではなく品を保ったとてもタノシイ演奏である)。○。

※2005-04-09 20:42:45の記事です
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☆マルティヌー:ヴァイオリン協奏曲第2番

2018年01月25日 | 北欧・東欧
○カウフマン(Vn)ル・コント指揮ORTF(cambria)1955・CD

録音は悪いがルイス・カウフマン(コーフマン)の無数に残された盤の多くは古いため音が悪いものも多く、中ではいい類か。ヨーロッパ滞在中で、しかもORTFというところがマルティヌーの出自を鑑みても面白い。作品ははっきり転向後のマルティヌーそのもので欧風のロマンティシズムの中にも露骨な折衷性が目立つ。ウォルトンの協奏曲に無理やりストラヴィンスキー初期のバーバリズムや連環する音列といった要素を加えたような冒頭からのけぞらせるものがあり、中欧的なくぐもりを含むロマンティックな音楽の中に開放的なアメリカイズムやフランス派から借りてきたようなフレーズ、新古典的要素の散発するさまが聴かれ、更にオルガン的な分厚いハーモニーを並べるのみの擬古典的書法の横溢(いつものことだが後半部どんどん簡素になってゆく)、終楽章は民族主義的な定番のやり口で、やばいほどに卑近な表現になっている。確かに面白い。聴き応えのある大曲で数十年遡れば大衆曲として残ったろう。同時代にも人気はあったであろうが、後世に残りづらい多産化マルティヌー後期の難点もまたあらわれている。しかし、弦の国の人だけありヴァイオリンの使い方は自然で巧みだ。名技性を求められてただ無茶を注ぎ込むのではなく、こうさらっと書けた人は古今少ないだろう。

依属者エルマンを彷彿とさせる「最後のロマンティスト」カウフマンは艶のある太い音に安定した技巧で友人の作品を盛り立てている。その並ならぬヴィルツオーソぶりに反し、タイタニックに乗り損ねることに始まる波乱万丈な人生は、一応純アメリカ人として市場主義に振り回されたとも言え、ミュージカル・アーツ弦楽四重奏団でヴィオリストをつとめる前後の逸話(無名の叩き上げにもかかわらずクライスラー、エルマン、カザルス、ジンバリストに室内楽団に誘われ名を上げたものの、ピアニストと結婚しソリストとして活動する道を選んだ)に始まるちょっときな臭い話はこちらの死亡記事に詳しい。そのきな臭さの中で「風とともに去りぬ」のソロヴァイオリンとしての「仕事」も含まれているわけだが、LAオケメンバーとしてのハリウッドとの密接な関係が「正統の」ヴァイオリニストと一線を敷かれたこともあり、ヨーロッパに逃げて活動を修正しようとしたものの、最終的には当時の同時代音楽の紹介者としての役割に終始し、大成せずピークを超えてしまった。とはいえミヨーやヴォーン・ウィリアムズなど初演作品の中には同時代の作品として重要なものが含まれ、いずれの録音も贅沢なほど完璧な演奏技巧と表現力に支えられたプロフェッショナルなものである。膨大な放送演奏に魅せられた記憶のある聴衆はLAに戻って後もカウフマンの演奏を求めたというが、しかし技巧の衰えを感じてのちはリタイアしてしまった。それが録音方式の変遷と巧く噛み合わず、一般的に評価可能なレベルの音質のものが、四季など「代わりはいくらでもいる」作品しか無いのは不幸なことだ。いずれにせよ近現代作品初演者としてこの名前を知らないのは、もぐりである。コープランド好きならとくに。

※2009-05-29 13:18:15の記事です
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☆ミヨー:ハープ協奏曲

2018年01月25日 | フランス
○マーン(hrp)P.ミュール指揮ORTF(FRENCH BROADCASTING PROGRAM)LP

ミヨーのえがく南欧の牧歌がハープの神秘的な典雅さを身近な調べに見事に変換して美しくやさしく聞かせている。ミヨーの作風はもうワンパターンの安定したものだが同時代の円熟した作曲家たち同様楽器の組み合わせや新しい響きの導入によって幅を持たせようとしており、たんなるドビュッシーの末裔ではない。わりとしっかり長めの形式的な作品である点にも仮称反ドビュッシイストのリアリズムの反映が聴いてとれる。演奏はクリアがゆえに少し音が鋭過ぎて、浸るべき曲なのに浸れないもどかしさがあった。録音もよくない。

※2011-07-07 23:17:48の記事です
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☆ドビュッシー:六つの古代のエピグラフ(アンセルメ管弦楽編)

2018年01月24日 | ドビュッシー
○アンセルメ指揮シカゴ交響楽団(DA:CD-R)1968/1/25live

シカゴとは思えない生身の力強さを感じる。アンセルメは理性の指揮者のように思われがちだが音作りがオケに左右されがちなだけで割りとロシア的な太い音による男らしい演奏を指向するところがある。この演奏はアメリカ交響楽団のものとさほど期間をおかずに行われたものだが、芸風は同じだけれどももっと何か、適性を感じるというか、求める音を持ってなおかつ技量もプロフェッショナルな意識も高い、そういう楽団を相手にアンセルメもドビュッシーの初期的な安易さのみならず和声の複雑な様相を高精細に表現し、機微のよりはっきりした幅の広い表現を行っている。ちょっと世俗的に盛り上がってしまい尻切れのように終わるが、聴衆反応もいい。録音はこのてのものにしては極上。ただエアチェックなのか、天井がやや篭る。○。

※2008-10-24 10:20:00の記事です
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☆ヴォーン・ウィリアムズ:ヴィオラのための組曲

2018年01月24日 | ヴォーン・ウィリアムズ

○リドル(Va)デル・マー指揮ボーンマス・シンフォニエッタ(CHANDOS)CD

廉価盤にもかかわらずamazonの中古なんかを見ると異様な高値がついている。リドルは線が細くやや不安定だが技巧的には不十分なところはない。この散文的な小品集を弾ききっている。曲はヴァイオリン協奏曲(「アカデミックな協奏曲」)に似た印象を与える、少々新古典様式の入ったもの。3グループに別けられ全部で8曲からなるが、1,2グループにかんしてはいわゆるRVW後期様式に拠っており、いい意味でも悪い意味でも無害な小品集である。5番交響曲的な世界と言えばいいのか、3番や「野の花」のような深みは無い。3グループ目はRVW晩年様式と言えばいいのか、この人にしては実験的な方法で洗練された民族音楽を聞かせる。一曲めのミュゼットはほぼ鉄琴だけの伴奏にヴィオラが低いメロディをかなで、この時期のRVWだからやや旋律的には弱いのだが、印象的な雰囲気をかもす。ほかフィドルふうの奏法を取り入れたり、これもヴァイオリン協奏曲を思わせるのだけれども、なかなか快活で楽しい。ここでのリドルは安定してはいるが少し真面目すぎるかもしれない。ライヴだと面白い曲だろう。○。

※2008-12-19 11:40:02の記事です
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☆ベネット:ヴァイオリン協奏曲イ調(一般的な様式による)

2018年01月24日 | アメリカ
○カウフマン(Vn)バーナード・ハーマン指揮ロンドン交響楽団(PRSC)1956/5/20BBCスタジオ放送(英国初演)

素晴らしい掴みを持つ曲で、ルロイ・アンダーソンのような魅力があって、通俗的な部分含めたまらない。しかしソロに要求されるテクニックはクラシカルな王道の難しさ。この職人的な書法の融合ぶりがとても面白い。カウフマンはこの作曲家の初演をよく受け持っているようだが、安心して聴ける技巧家である。とにかくハーマンが振ってるからという意味もあって、古きよき楽しさがある。○。

※2010-06-28 16:57:51の記事です
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☆バロー:交響曲第3番

2018年01月24日 | フランス
○ミュンシュ指揮ORTF(ACCORD)1961・CD

アンリ・バローはORTFの長きにわたる音楽監督として知られる。この作品はオネゲルやメシアンなど想起する折衷的な作風ではあるが、いかにも新ウィーン楽派的な前衛ふうの晦渋さが目立ち、好き嫌いをものすごく分けるだろう。ミュンシュは繊細な部分に拘泥せず速いスピードで求心的な表現をもってのみ曲の本質をえぐり出す。そのため色彩感がやや薄く、アメリカの凡庸な現代交響曲のような生気のない音の運動のみ聞こえるところもある。辛うじてステレオゆえ、グリッサンドの応酬など前衛的な面白さについては聴きとりやすいものではあるが、よほどこの時代か、ミュンシュに思い入れでもなければ聴く必要はないだろう。○にはしておく。この音源、現在CDは入手不能だが、itunesでダウンロード可能(amazonフランスからもダウンロード可能だが、周知のとおりamazonは日本サイト以外からのダウンロードができないのでmp3音源として取得は不可能)。

※2011-01-25 18:30:06の記事です
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☆ルー・ハリソン:ヴァイオリン、ピアノと管弦楽のための小組曲

2018年01月23日 | アメリカ
◎アナヒド・エイジュミアン(Vn)マロ・エイジュミアン(P)ストコフスキ指揮彼のオーケストラ(CRI他)1952/10/29-31・CD

この作曲家といえばガムランだがこの曲はまさにガムランを昇華させた素晴らしく爽やかな組曲で、特筆すべきは(ミニマル的に繰り返される楽章はともかく)メロディの親しみやすさと巧みに組み合わせを変え響きの面白みを追求するアンサンブル(ピアノと高音打楽器とハープとチェンバロ?がそれぞれ場面を変えたち現れ木管ソロなどと重なるのがまた透明感ある不思議な世界をかもす)に最後まで耳を奪われる。ガムランといえばドビュッシーだがドビュッシイズムの遠い継承者という印象を持つ緩徐楽章の典雅な響きも特筆すべきだろう。長い音符を多用する点ルーセル前期に近い気もするが印象はドビュッシーのほうに近い。ま、とにかく冒頭序曲のいきなりの明るいガムランに圧倒される。アメリカのガムランだ。ストコの色彩的な処理がもともと色彩的な楽曲を引き立ててモノラルでも聴きごたえがある。◎。

※2013-07-03 09:25:39の記事です
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