湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ヴォーン・ウィリアムズ:連作歌曲集「ウェンロックの崖にて」

2018年01月23日 | ヴォーン・ウィリアムズ
○マラン(T)ニュートン(P)ロンドン四重奏団(alto)1955・CD

これは原曲より伴奏管弦楽編曲版のほうが美麗で好きだったのだが、年を重ねるうちに若さと素朴さの素直な発露たる室内楽曲としての姿のほうが染み入るようになってきた。管弦楽は大仰で曲の内容をロマンティックに展開しすぎる。原曲ですら即物的なロマンチシズムが原作者に嫌われたのだし。

これは同曲の古典的演奏の一つ。時期的にはブリテンの録音に近い頃の盤だが、こちらのほうが情緒的で自然な演奏となっており聴きやすい。このレーベル、廉価盤ではあるが(廉価盤にはしかしよくあることで)なかなかの隠れた名演をCD復刻してくれており、同シリーズにウォルトンの曲集もある。ロンドン四重奏団は当然あのSP期の楽団とは違う面子ではあるが特徴は薄いにせよいかにもイギリス的な優しく剣のない音でRVWの世界を邪魔せずに彩っている。ピアニストは主張しないけれども曲に音色をあわせてきておりマッチしている。マランはちょっと生臭い。オペラティックとまでは言わないが仰々しさを感じさせるところが若干ある。

でも録音の古さを置いておけば常に脇に備えておきたいと思う、同曲の佳演の一つと言える。

※2009-03-16 09:34:36の記事です
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☆エルガー:交響曲第1番

2018年01月23日 | イギリス
バルビローリ指揮


ハレ管弦楽団
(EMI他)1950年代・CD
(BBC,INTA GLIO)1970live・CD
フィルハーモニア管弦楽団(EMI)CD

個人的には、ハレ管の独特な響きがすばらしく、又時代的にバルビローリが最もトスカニーニの残響を残していたと思われる、50年代の録音をプレヴィン盤と併置したい(最近良い音で再復刻された)。死の数日前のライヴ録音(バルビローリの正真正銘の白鳥の歌)は、「最晩年クレンペラー」的雄大さが裏目に出て(拍節感も殆どカイム…)、薦められない。フィルハーモニアのものは音も良いしスタンダードな魅力がある。だが、ハレ管との旧録にみられる力強さには負けている。


ハレ管弦楽団(the barbirolli society)1958/1/30ハレ管弦楽団100周年live・CD

大変人気となった話題盤だがいかんせん録音がエアチェックレベルの悪さ。やたらと打楽器が強調され、ただでさえダイナミックな同時期のバルビの芸風に過剰な演出を加えてしまい、中間楽章で疲れてしまう。たぶんバルビのエルガー(しかも1番)としては白眉の記録で、特別な場ということもあってハレ管もヨレが少なく緊張感があり、相当にレベルが高く、テンションも持続する。ただイケイケ過ぎて2楽章の異様なスリルから3楽章にうつるくらいで、既にぐったりしてしまう。3楽章もマーラー的で休むことを許さない音楽になっており、アタッカで4楽章に入って管弦楽に立体感が戻った辺りで(もう後はわかったくらいで)やっとほっとする。騒々しいまま通奏主題になだれ込んでしまうのは録音のせいということにしておこうか、ここも緩急のブラームス的演出が無いと勿体ない。しかしながら、バルビ特有のドライヴ感が保たれたまま、エルガーのかっちりした構造が見事に適切に捌かれ音楽に昇華されているのは、バルビの指揮の腕というほかなく、けしてバランスの悪い指揮者ではなかった(この時点では)、リヒャルトが得意だったのもさもありなんな腕の持ち主だということを再確認させる。聴衆反応は穏やか、熱狂はしていない。録音がひどいゆえ○以上にはいかないが、貴重。

※2004年以前+2009-11-22 21:30:21の記事です
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☆マーラー:交響曲第5番

2018年01月23日 | マーラー
○スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(KARNA:CD-R/WEITBLICK)1996/9/13live・CD

最晩年様式という言い方をこの人にも使うことになってしまうとは。結局体を悪くしたり老齢にさしかかったりすると人間誰しもテンポ感が極端に遅く雄大になり「クレンペラー型」造形を指向するようになってしまうものか。そのうえでチェリやスヴェトラはあきらかに神経質なほど響きを研ぎ澄ます方向に向かっており、スヴェトラはその「作られたイメージ」がゆえに余り言われないが、マーラーのような大曲においてはきわめて繊細精緻で合理的な音響を求めるようになる。この演奏でも3楽章くらいまでの間で時々放送ライヴ(のエアチェック)とは思えないほど、厳しく音響バランスの整えられた(機械のように)隙無く正しい音響が形作られるさまを感じることができる。スヴェトラには元々スコア分析を主とした客観性へのケはあり技術的問題への認識も強く、決してその場その場のノリにまかせたロマンチック没入型の爆演指揮者ではないのだが(そのたぐいの実演や録音ばかりが西側で取り沙汰されただけで)、この遅く踏みしめるような足取りの演奏は客観にすぎ、興をそぐ部分も少なからずある。語り口のビミョウな巧さで辛うじてそのバランスを保っている。人によっては哲学的とみる人もいるだろう。だが終楽章はまるで小クレンペラーのような趣さえあった(オケが非常に優秀な北欧オケであるがゆえにイギリスオケの甘さがないぶんはメリットとして聴ける)。フランス盤でまとめられた全集(後日廉価ロシア盤化)で6番など僅かなものを除けば莫大演奏が多いという様相から繋がった解釈ぶりといえる。じっさいこの演奏は特徴といえばオケの違いくらいで、録音はいいとはいえ放送ライヴのエアチェックで電子的な雑音もあり、ならばちゃんと正規をきくべきだとは思う。ロシアオケのクセや弱体化が気になる向きには薦められるが(このようなソヴィエト傀儡国家ではない国のヨーロッパオケを振ったものは、私などは今はロシアの手兵オケを使った余りにクセのある全体の演奏ぶりよりもしっくりくる。スヴェトラという人が実は西欧的な機能性と怜悧な音を持った「アンサンブルオケ」を求めていたのではないかと思うくらい、「現代の巨匠」たちの客観的なスタンスとの類似性を感じるのだ)、あと、スヴェトラマニアには薦められるが、ここはしかし、実際じわじわと拍手が広がりブラヴォの渦になるという部分で「あー実演と録音の違いだな」くらいの印象を見識としていただく程度で、取り立ててこれを聴く必要もあるまい。確かに長く聴けばこの演奏様式に独特の見識を見出し面白く聞くこともできるので○にはしておく。大見得なんて切らないよ。

※のち正規CD化した(エアチェックではない)。

※2006-08-29 16:11:53の記事です
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☆ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第2番(ロンドン交響曲)

2018年01月22日 | ヴォーン・ウィリアムズ
○ヒコックス指揮ロンドン交響楽団(CHANDOS)CD

演奏、版(これが「本当の」オリジナルだそうです)共に重厚壮大。終楽章の「ビッグ・ベン」後に挿入(削除)された長いレントの牧歌は田園以降を思わせる静謐な曲想で(書法は平面的で単純だが)、確かにこれがあると無いとでは大きく違う。ロンドン交響詩というより、イギリス交響詩といった趣を感じさせるものになる。随所に響きの重厚さを感じさせる演奏になっており、やはり後年のRVWを思わせるが、寧ろ古い作曲家の残照の感じもする。「らしくない」感じは同時代の先鋭作曲家の素朴な模倣と思われる部分にも現れるが、寧ろ曲想に変化をもたらし悪い感じはしない。3、4番交響曲の鬱躁気分が交互に顕れる(様様に挿入された英国民謡の中には5番終楽章で印象的に使われたものと恐らく同じものも含まれているが)ところには1番で影響の指摘されるマーラーの分裂症的気まぐれさを思わせるものもあるが、それはあくまで数理的にそう感じるだけで内容は全く違う。RVWが変わったのは田園ではなくこの「ロンドン」であったことを改めて認識させる。とにかく原典版というのは長いので、気持ちに余裕のあるときに聞けばいい。録音もいいし、RVW好きだがロンドンが苦手という向きも非常に感銘を受けるだろう。演奏は偉大さを感じさせるも冗長ではなくしなやかで素晴らしい。1楽章序奏部のビッグ・ベンの朝から「オペラ座の怪人」の元ネタ(?)主題が不安の風を吹き込むところなども胸がすく。ヒコックスに私は悪いイメージを持っていたのだが、ちょっと見方が変わった。やはり録音なのか。○。

※2005-10-11 09:42:11の記事です
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☆アイヴズ:ピアノ・ソナタ第2番「コンコード・ソナタ」

2018年01月22日 | アイヴズ
◎ジョン・カークパトリック(P)(COLUMBIA)STEREO

クラシックなんか全く聴かなかった頃(弾きはしたけど)ふと耳をついて離れなくなった音楽、それがアイヴズの「答えのない質問」(但し冨田勲版)だった。宇宙的な不可思議な響きはニューエイジ系の響きによくあっていた。その後小澤のシンフォニー4番によってこのマーラーの同時代者にして孤高の前衛作曲家に開眼することになるのだが、アイヴズの特徴はカオスとか前衛手法とか細かくはいろいろ言われているけど、ほんとうのところ「静寂とノリのコントラスト」の凄みにあると思う。静寂については言うまでもあるまい、ドビュッシー(アイヴズはドビュッシーを相対的には評価していた)の旋律構造との近似性を指摘される極めて美しいメロディのかけらのさりげない感傷をも呑み込んだ、静かな不協和音の広がりの中に微細な変化をきたす音楽(じっさい印象派と言っても過言ではない抽象的な小品も多い)、特に金属的音響の静かな扱いにおいて極めてすぐれており、サウンドスケープ作家としてまずは素晴らしいものがある。ここはヘンクなどが得意とする世界なのだが、一方「ノリ」については余り言われない、というかどうしても「現代作品のように」分析的に演奏されることが多いので、ほんらいあるべきと思われる「全ての楽器が勝手に鳴ってごちゃごちゃになりながらも濁流のように突き進む力」をもった姿とかけ離れた「数学的側面」ばかりが強調され、違和感を覚えさせることも多い。時にはそういうアプローチがゆえに曲自体「構造的に」弱いと思わせてしまう。だがアイヴズの構造の概念は最初からポストモダン的というか、部分部分の構造は視野にないものだ。無造作な集積物に対する「大掛かりでざっぱくな構造」こそがアイヴズの「構造」であり、そのまとまりのなさを如何にまとまりないままに、しかしどこかへ向かって強引に突き進んでいるように「感じさせるか(分析させるかではない)」が肝なのだ。

コンコード・ソナタは今ではかなり取り上げる人も多い。アイヴズの作品には極めてクリティカルな版問題がつきものだが、本人も繰り返し述べているように「好きなように弾けばいい」のであり、この演奏が出版2版と異なっているといっても、ここにはジョン・カークパトリックというアイヴズの使徒が、決して下手ではない素晴らしい勢いのある押せ押せの演奏ぶりで「自分なりの真実を抉り取っている」さまがある、それだけが重要なのである。「この小節はスウィングできるなら何度でも繰り返せ」・・・例えばこういった譜面指示にアイヴズの本質は端的に現れている。「ノリ」なのだ。「民衆それぞれが自分のためだけの交響楽を作曲し奏で生活に役立てることができる」世界を理想とし、作曲家はその素材提供をするにすぎない、いかにもアメリカ的な哲学のうえでこの作風が成り立っていることを理解しておかないと、変な誤解を与える退屈な演奏を紡ぎ出しかねない。民衆は時には静寂を求めるが、たいていはノリを求める。

話がそれてしまったが、今は亡きジョン・カークパトリックは1940年代後半にもコロンビアにモノラル録音(全曲初録音)をしている(楽章抜粋を同時期の少し前にやはりコロンビアに録音している)。ステレオ録音LPのジャケット裏にかかれているとおりアイヴズと密に連絡をとり、意図と「意図しない」ところを常に認識しつつ、この独自の校訂版を作り上げた(有名なフルートやヴィオラも挿入されない)。そのため原典版と呼ばれる譜面に基づく録音が後発されることにもなった。演奏スタイルは繰り返しになるがかなり前進的なもので思索的雰囲気よりも「ノリ」を重視している。ペダルを余り使わず残響を抑えているのが好例だ。ラグなどの表現では特に場末のアップライトピアノでガンガン弾いているような面白さがあり、特に卑俗な旋律断片が奔流のように次々と流れるところはダントツに面白い。構造的に弾いてしまうとアイヴズ特有の「つじつまのあわない」クセが目立ってしまい、途中でめんどくさくなってしまうか飽きてしまうものなのだが(その点1番の緊密さは素晴らしい)、この演奏(版)はとにかく「飽きない」。面白い。

アイヴズ協会が動き出したあとの現代、この譜面がどうなっているのかピアノを弾かない私はよく知らないが(奏者ごとに当然いじるのだろうが)、昔は交響曲でもジョン・カークパトリック(ラルフじゃない)の筆写編纂版が使われていたくらいで、アイヴズ自身もこの人の演奏を聞きアドバイスをしているくらいだから、もし違和感を感じた、あるいは譜面との相違点が気になったのなら、「こちらの演奏のほうが本来の姿」だと思うべきだろう。CD化は寡聞にして聞かないが、最近やや低調気味な人気の中、新録を沢山出すのも結構だけれども、この「アイヴズの権威」の演奏を復刻しない手はないと思うのだが。旧録然り。ノリという点でも内容の濃さ(変に旋律に拘泥せず全体の流れで曲を押し通している)という点でも、◎。この版、純粋に音楽的に、バランスいいなあ。「運命の主題」を軽く流しているのもいい。ここに重きを置くとキッチュになりすぎる。

この曲はアイヴズ出版作品の通例としていくつかの原曲素材の「寄せ集め」で編纂されたものだ。その部分部分については自作自演もあり、これは一度CDになったようである。

※2006-03-23 18:18:23の記事です
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☆ヴォーン・ウィリアムズ:弦楽四重奏曲第1番

2018年01月22日 | ヴォーン・ウィリアムズ
○エオリアン四重奏団(delta/REVOLUTION)1964発売・LP

恐らく初録音盤。そのせいか現行譜と異なっている箇所があり、目だって違うのは冒頭提示部?の奇妙な繰り返しである。演奏自体も情緒たっぷりと言えば聞こえはいいが、異様に伸び縮みするもので演奏箇所を見失う。いささか聞きづらい部分もある。テンポは全般遅いが、技術的に難があるからというわけではなく終楽章のコーダではちゃんとスピードをあげている。初録音なのにこう書くと変だが、特異な演奏であり、資料的に聴く価値はある。

※2008-02-17 21:57:43の記事です
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サン・サーンス:交響曲第3番「オルガン付」

2018年01月21日 | Weblog
スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(weitblick)1998/9/3live・CD

極めて良い録音で音場も広くオルガンもちゃんとパイプオルガンを使用している。依然ベートーヴェンの交響曲の延長上の保守的な手法を用いながら、循環形式のような形式的で職人的手法をとりながらも、音素材に高音打楽器やピアノ、そしてオルガンを導入して新規性を打ち出し、清新な色彩はフランクやダンディのそれより豊かで効果的である。三楽章まではそれでも古典的な凡庸さを感じさせるも、この曲を象徴するオルガンのフォルテから始まる四楽章ではダンディの民族主義的な音楽に近い感興を与える。そしてスヴェトラーノフはパイプオルガンをフル活用して後年の芸風としての壮大で透明感のある(しかし管楽器を中心としてロシアオケのような響きの整え方をしてはいるが)音楽世界を展開して、同曲をあえて集中ではなく拡散的にやることでマーラー的な誇大妄想感を与えているのが新しい。技術的に極めてすぐれているわけではないが、ニュートラルなオケはフランス曲にはよくあっているし、ニ楽章のオルガンとのしめやかな響きのかさなり、交歓は聞き物だ。オルガンによって強引に盛り上がりを作るこけおどし、という貶し方もできる曲だけれど、それは四楽章のイメージだけであり、この楽章もなかなかうまい。良い録音だからこそ、そしてわかりやすい流れをゆったり作るスヴェトラーノフだからこそわかる良さかもしれない。晩年の指揮記録には珍しく弛緩が無いのは曲自体がピアノによって締まっているせいもあろうが(ダンディ的な協奏曲用法ではなく完全にオケのパートとして導入されているが、動物の謝肉祭「水族館」を彷彿とさせるところなどサンサンならではの簡潔だが煌めくピアニズムが楽しめる)、単純に調子が良かったのか。客席反応は普通であり、とくにブラヴォも飛ばないが、これでもかのオルガンの迫力が録音に捉えられている四楽章はやはり、ラストの物凄い引き伸ばし含めてスヴェトラーノフに期待されるものを与えている。
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☆アイヴズ:答えのない質問

2018年01月21日 | アイヴズ
バーンスタイン指揮(解説)ボストン交響楽団のメンバー(DREAMLIFE)1973ハーバード大学レクチャー放送・DVD

テレビシリーズとして放送された有名なハーバード講演「答えのない質問」より。かつて書籍やビデオで出ていた(価格的にも言語的にも)壮大な講演集がこじんまりとまとまって字幕入りで出ている事実に慄然とする。しかしそれでいいのだろう、稀少であることに意味は無く、内容にこそ意味がある。DVDでは三組目、ラヴェルで無邪気に幕をあけえんえんとシェーンベルクが語られる。混迷の20世紀前半音楽を非常にわかりやすくピアノや譜面で解説しており(歌は理解を妨げている)、なんでこれに奇妙な日本語感想文を付けられているのか、と慄然とするが、それはともかく、シェーンベルクのストイックさの余り陥った音楽の素晴らしさと危うさが結局のところ極めて狭く石ころのごろごろした耕地を耕すようなもの、結局どこかしら調性的なルールを維持することになり捨てきることはできない、折衷点をどこにもってくるかが新時代の個性、例えばベルクは・・・といった感じである(ああ文章で書くような内容じゃないな)。多様化する表現手段の1ルールとして組み込まれていくシェーンベルク主義、多様式主義といえばストラヴィンスキー、そして・・・あるアメリカの作曲家の音楽的予言。それがアイヴズの無邪気な小品「答えのない質問」、この講義の理念上の主題となる言葉を表題に付けた曲である。ああ長い。

アイヴズのシンプルだがプロフェッショナルな音楽的理知性は上記のようなバーンスタインの主義を見事に裏付ける作品を様々に生み出したが、バーンスタインのメガネにかなった作品は実はシェーンベルクとほぼ同時期に書いていた過渡期的な作品であり、交響曲の2から3番あたりとなる。2番はアイヴズの名声をあげ初演に招いたバーンスタインに最早不要と断りながらもジグを踊って喜んでいたといわれる半世紀眠り続けた調性的作品で、無数の既存主題をパッチワークする方法を極める前段となったものである。3番はシェーンベルクの初期作品を思わせるものでマーラーを魅了した作品として有名な、でもやっぱり調性的作品。それではいつ調性を失ったのか?アイヴズは失う失わないという観点で作曲はしておらず、本人は独自研究による調性の拡大や新たなルール化に挑戦したとはいえ、至極粗雑であり、寧ろそういったものを「パーツ」としていくつもいくつも用意して、、、4番交響曲のようなまさに多様式主義もたいがいな前衛作品に行き着いた。

ポストモダンという煤けた言葉を思わず使ってしまうのだが、そういう思想は「多層的な空間音楽」という個人的な肌感覚、「野外音楽の体験」に基づいており、けして前衛を狙っていたわけでもない。答えのない質問は3群のアンサンブルより成り立つ。コラールをひたすらかなでる「空間」役の弦楽、超越的な存在として、しかし無力な存在として描かれる「ドルイド僧」役の木管四重奏、そして素朴に実存について質問を投げかけ続けるトランペットソロ、その答えは太古のドルイドにも出すことが出来ない、しょせんは誰にも応えられない質問。この「情景」をそのまま音楽にしているわけだが、バーンスタインは象徴的に捉えてシェーンベルクに対する「予告」としてただ演奏をなしている。

だが、多重録音をしているように聴こえる。画面も狭くて辛い。音楽的には失敗である。解説用の演奏といっていいだろう。まったく空間的要素が感じられない。無印。それだけかい。

※2010-02-24 21:05:52の記事です
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☆サン・サーンス:アフリカ

2018年01月21日 | フランス
○作曲家(P)(ARBITER他)1904/6/26・CD

2006年初出「フランス・ピアノ伝統の創始者たち 1903-1939」所収。驚くべき初出音源も含むこのSP復刻を中心とする良心的なレーベル、雑音慣れしているならその状態の悪さをおしても出そうとする心意気に共感してどれでも聞いてみてほしい(新しい録音や知られざる演奏家モノも出している)。この曲はサンサンが積極的にオリエンタリズムを「あくまで素材として西欧音楽のイディオムに取り入れた」ものの典型である。更に過去のモーツァルトなどの作曲家にもこのような異国ものはしばしば見られるが、その延長上にあるとも言える。旋律とリズムに新奇なものを取り入れているものの全体としてこれは非常に巧く西欧化された、というかサンサン化された職人的作品となっていて、ピアニストの腕をそつなく見せ付けることのできる小品にすぎない。サンサンの腕は言うにおよばず、けっこう録音を残しているがいずれもパラパラ胡麻を撒くようなそつない指先のタッチがかっこいい。ケレン味の一切ない品のいいものだ。短いのでこれ以上は言及不可。○。

※2007-12-03 13:17:35の記事です
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☆オルフ:劇的カンタータ「カルミナ・ブラーナ」

2018年01月20日 | ドイツ・オーストリア
○フリッツ・マーラー指揮ハートフォード交響楽団、合唱団、スタールマン(SP)他(VANGUARD)CD

グスタフ・マーラーの甥フリッツとオルフは親交があったと言われる。後半生ハートフォード交響楽団のシェフとしてドイツ的なしっかりした腕を振るい録音も結構なされたが、いかんせんオケの知名度に欠けるせいか現在現役盤は殆ど無い。オケは結構巧いので見くびらないように。この演奏もよくできていて、日常的に聴きたくなったらいつでも聴ける類の演奏、と言ったらいいのか、変な山っ気もなくソリストが突出して芝居じみた表現を繰り出すこともなく、かといってヨッフムのように少々真面目すぎてつまらなく感じることもない。長く連綿と続く簡素な歌を聴き続ける部分が大半の曲で、結構飽きるものだが、これは締まった音が心地よく、耳を離さない。全体のバランス、設計もいいのだろう。力感溢れる両端部は録音マジックの部分も多少あるかもしれないが、誇大妄想的表現にも陥らない立派な表現である。いい演奏。○。

※2008-09-10 14:45:47の記事です
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☆ワグナー:歌劇「マイスタージンガー」1幕への前奏曲

2018年01月20日 | ドイツ・オーストリア
○クレンペラー指揮ACO(WME:CD-R)1957/2/20live

この曲は構造的に完璧なのでクレンペラーのような声部の強引無骨な堆積で音楽を作ろうとする人の演奏でもちゃんと立体的な組み物として迫力をもってきこえるわけで、クレンペラー向きとも言える。オケはどうしても時代的にフルヴェン的な迫力を求めているがクレンペラーの客観冷静鋼鉄の鋳型のような型にはまって別の音楽表現にシフトせざるをえない様子。クレンペラーの棒から離れてカンタビレるヴァイオリンをはじめ勝手なノリでアーティキュレーションをつけていくオケ、そのけっこうソリスティックな崩しは、それでもプロフェッショナルにクレンペラーの棒にはギリつけているし、ワグナーがちゃんと譜面で仕切ってるのでフォルムは崩れない。スリリングなライヴとしてなかなか楽しい。が名演奏とは言えない、ライヴの楽しいドキュメント。コンセルトヘボウってこんなに艶っぽかったのだ。録音茫洋と遠くきわめて悪い。○。

※2007-07-15 23:57:28の記事です
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☆ピストン:交響曲第6番~Ⅳ.

2018年01月20日 | アメリカ
○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(放送)1956モスクワlive

これは近年一度出たと思うのだが(そのとき記事書いたと思い込んでいた)現在はwebに出回っており聴くことが出来る。アナウンス込みの放送二回分で一回目は米ソ両国歌から始まり、エロイカ3番の1,3,4楽章、二回目はピストン6番終楽章、ダフクロ2組と、私にはよくわからないアンコール一曲(古いぽい)の組み合わせ。同曲全曲ライブは1960年6月のニュージーランド録音が残っているそうだが、音源化は不明。しかしぜひ聴いてみたい魅力に溢れており、この演奏で同曲に一時期ハマったことをお伝えしておきたい。いつものピストンの、ヒンデミット的対位法を駆使した立体的構造は極めて見通しよく、何より旋律の美しさと管楽器の輝かしさに尽きる楽章。もちろんここにいたる楽章は暗いわけだが、でもいいのだ。コープランドよりもアカデミックだが、それは他国にはない「アメリカ・アカデミズム」である。フィフティーズの舞い上がる気分すらある(言いすぎ)。演奏自体、ミュンシュにしては手堅く踏み外さない面は否定できない。スピーチからはリラックスしたムードは感じられるのだが客席反応はどうかという部分もある(いちばん悪かったのはソヴィエト国歌(笑)のときだが)。ただ、ピストンはガウクもやっている曲であり、作風もソヴィエトアカデミズムに似通った部分があるので、受け容れられなかったわけではないだろう。

※2010-09-15 12:31:00の記事です
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☆ラヴェル:ラ・ヴァルス

2018年01月19日 | ラヴェル
○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(GUILD)1940/5/14LIVE・CD

骨董品の放送ライヴ音源を品質問わず無編集で出し続ける、DAみたいな悪海賊の不始末をつけてる生き残り弱小レーベル。この日のまとまりないプログラムも取りあえずまとめて、既出も含みながら復刻。このラ・ヴァルスは初物だと思うが、いかにもトスカニーニライヴらしい一期一会的な表現で度肝をぬかれる。たぶん1番「ひどい」・・・止まらないアッチェルの果てに大ブラボー、録音も非常に悪いから、なんだこりゃである。ただトスカニーニ全盛といわれる30年代に近く、極めて演奏精度が高いので「ウィンナワルツのカケラもない」にもかかわらず、迫力と音圧で聴き切れてしまえる。律動だ。トスカニーニは間違いなく暗譜しきっており、自分のリズムに自分の揺らしまで徹底させ、本番の空気を支配した、そのドキュメント。発作を起こしたような舞台にはラヴェルはいないが、トスカニーニが獅子様に吠えまくっている。○。

※2009-12-03 21:16:25の記事です
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☆フランツ・シュミット:交響曲第2番

2018年01月19日 | ドイツ・オーストリア
○カール・クリッツ指揮シラキュース交響楽団(DA:CD-R)1969/12/11live

珍しいライヴ。クリッツはこのブルックナーの流れを汲む末流ロマン派交響曲作家の代表格たる作曲家の弟子である(カラヤンも学んでいるが演奏記録は限られている)。シェーンベルクと同い年でありながら文学性を帯びた表現主義的前衛性を前面に出すことなしに、あくまで純粋な音楽としての技巧的先進性を追及した理論家でもあり、保守的とみなされるのは主にいかにもウィーンの古きよきロマン性をかもす主題、ワグナーからの流れをくむ自由でありつつ耳心地いい和声によるものであって、分厚いオルガン的音響と耳に捉えられないくらい細かな機構の、うねるように変化し続ける複雑な様相、既存のロマン派交響曲に囚われない有機的な楽曲構成への挑戦が新古典主義の堅固な構造と組み合っているさまはブラームスの流れをも汲んでいることを示している。

死後、ナチス協力者の汚名が晴れてのち少しずつ認められていったが、この人には華々しい使徒がいなかったのが不幸であった。クリッツも華々しいとは言えない。少数の室内楽やオラトリオを除けば演奏機会は少なく、やっと10数年前ヤルヴィや大野氏が注目し演奏録音したものの、今も余り脚光を浴びてはいない。正直前衛が受けない時代に何故この絶妙な立ち位置の作曲家が取り上げられないのか理解に苦しむが、易い聞き心地に対して(ウィーンの作曲家らしいところだが)声部剥き出しだったりソリスティックでトリッキーな部分の多い比較的演奏が困難な楽曲であることは大きいだろう。チェロの腕は有名であり、職業演奏家としてマーラー時代を含む(マーラーを嫌ってはいたが受けた影響は指摘されている)ウィーン国立歌劇場オケの主席をつとめていたが、弦楽アンサンブルに対するけっこう厳しい要求がみられ、クリッツが生涯育て上げたこのオケにおいてもばらけて辛い場面が多い。同時代を知っている演奏家によるライヴ録音はミトロプーロスとクリッツのものだけだそうだが、分は悪いと言わざるを得ない。

解釈が生硬に聞こえるのもオケが厳しいせいかもしれないが、ともすると旋律追いになって完全にブルックナーの和声と旋律だけで出来上がった単純な交響的大蛇に聞こえてしまう曲を、構造面をかなりクリアに浮き彫りにしようとしていて、立体的なつくりがよく聞こえる。2楽章の中間部、ハイライトたるべき魅力的なワルツ主題もそれだけが浮き立つのではなくそこを盛り立てるための内声部の明快な組み立て、魅力的な和声変化の鮮やかな表現にクリッツの意図は汲み取れる。けして指揮者としての腕があるようには聞こえず学究肌に聞こえる、これは結局シュミットが使徒に恵まれなかったということに繋がることだが、それでも、数少ない演奏の一つであり、晩年のクリッツの境地を知る資料ではある。録音がかなり辛い。○にはしておくが。

フランツ・シュミット
本サイトのフランツ・シュミットの項

※2008-06-30 21:43:47の記事です
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☆オネゲル:交響曲第3番抜粋

2018年01月19日 | フランス
○ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団(DA:CD-R)1966live

表記は2番だが3番の誤り。圧倒的に2楽章、緩徐楽章の美しさが光る。とにかく弦楽器、厚みのある音響のうねりが憧れと慟哭と悲哀を映画音楽的なスレスレの感傷を煽って秀逸である。ハリウッド映画音楽といってまず私が思い浮かべるのはストコフスキの演奏様式だが、しかし元の楽曲が深刻なものを孕んでいるだけにこの演奏はそういった表面的な美観に留まらない激しい感情の起伏を呼び覚ます力がある。そう、弦楽器だけでは決して無い。総体の響きはモノラルの(けして悪くない)音響の中でも圧倒的に迫ってくる。この迫真味はオネゲルの超絶的な書法だけではなく、ストコフスキという怪物のなせるマジックとしか言いようが無い。この中間楽章はほんとうに、素晴らしい。緻密でロジカルな1楽章なども、弛緩なく攻撃的な音楽が形づくられているが、心惹かれるのはやはり、RVWやミヨーにも通じる田園の穏やかな風景とそこにたなびいてはまた消える暗雲の風景、美しいヴァイオリンの響きと不協和であっても絶妙のバランスをもってそうではなく聞こえるコルネット以下ブラス陣の朗誦、優しい表情に戻ったところでさびしげに一人歌うフルートからクラリネット、これら総体がたとえようもなく美しく、最後に深刻な音楽の雲間から一筋の光をさしかけられる場面の感傷性といったらたとえようもなく、オネゲルはそうだ、「夏の牧歌」を作った作曲家なのだ、というところに立ち戻らせてくれる。ストコは強烈なだけの解釈者ではない。3楽章は途中まで収録。やや表層的に重低音音楽がホルンにより提示され始めると音楽は元の世界へ戻ってゆくが、旋律性はけっして失われない。構造に埋没しがちな旋律を鮮やかに浮き彫りにしつつ進む途中で、録音は終わる。どうせなら全部聴きたいところだった。○。

※2006-10-15 20:36:42の記事です
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