湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ラヴェル:ソナチネ(冒頭欠落)

2019年04月13日 | ラヴェル
ペルルミュテール(P)(SLS)1958/5/22live

親しみやすい曲集でラヴェルでは一般的によく知られた三曲になる。だからまったく何の注記もなく冒頭が欠落しているのは音盤としていただけない。ペルルミュテール壮年の演奏で同時期のスタジオ録音もあるが、音はまあまあよく、この人特有の夢幻的なラヴェルを楽しめる。まずテクニックに不足はなく、他のラヴェル直伝や認定ピアニストと違うのは丸みを帯びた繊細な音で、録音上多少リアルにピアノに接近した音が入っているので力強く入ってはいるが、基本引きの芸風に自然にテクニックをあわせていく。高音の丸みを帯びた響きはなかなかに美しい。過度な感情もなく、しかしとても自然な曲の流れを聞かせてくるので、この曲はとくにおすすめではある。
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ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ペトルーシュカ」~第4部謝肉祭の市(夕景)

2019年04月12日 | ストラヴィンスキー
作曲家指揮LAフィル(DG)CD

めずらしく「アメリカ式」ブラヴォが入る演奏で、11分弱ではあるが終幕まであるのでけっこう聴きごたえがある。ロスフィルは劇音楽に向くのかもしれないが、バレエにはどうだかわからない。リズムより音楽そのものに耳を傾けさせる。自作自演では低音楽器でどんくささが出ることもあるが、これはそんなことはない。すこし即物的すぎるあっけない終わり方。ステレオ。
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ストラヴィンスキー:バレエ音楽「妖精の口づけ」よりディヴェルティメント

2019年04月12日 | ストラヴィンスキー
作曲家指揮LAフィル(DG)CD

フルトヴェングラーが記録を残すだけある懐古的な作品でロマンティックだがけしてロシアでもない。チャイコフスキー的聴きやすさはあり、ストラヴィンスキーがこのオケと「小ロシア」を記録したのを思い出すが、適度に猥雑であるからこそ生気ある演奏となっている。25分きくのはしんどい。ステレオ。
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スミス:星条旗よ永遠なれ(ストラヴィンスキー編曲)

2019年04月12日 | アメリカ
ストラヴィンスキー指揮ロス・フィル(DG)live・CD

youtubeなどでよく聞かれている音源で、ストラヴィンスキーが保身のために書いたみたいな演出を加えられていることもあるが、普通に編成をいじっただけというか、響きを派手にしてロスフィル向きの開放的な音にしたというか、それ以上のものではない。この人はお金のために自作をふくむ編曲を頻繁にした人で、それは著作権の概念が薄い時代に新編曲の著作権を得るためだったという話もある。LAフィル100周年ボーナス3に収録。ステレオだがちょっとノイジー。
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ドビュッシー:三つの交響的エスキース「海」

2019年04月12日 | ドビュッシー
スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団(WEITBLICK)1979/1/28live・CD

録音年が79年ときいて驚いてしまったのだが、弱音に細心の注意が払われ、繊細な音響志向はドビュッシーだからということもあるが後年のスヴェトラーノフの志向そのもので、すでにこういう「バタ臭い」演奏を志向していたのか、という思いと、なら早くにもっと外で活躍できればよかったのに、と残念に思う。しんとした空間を作り上げるさいに、確かに後年ならもっと音をきれいになめして、必要以上に時間をかけて空間音楽的なものを作ろうとしたろうが、そのぶん音楽的なバランスはよい。ドビュッシーがこの曲でこころみた立体感をよくくみ取っている。ミュンシュよりドビュッシー的と言い切ってしまおう。おとなしく小さくまとまってしまうオケは、スヴェトラの魅力を全部すくいとるようにはいっていないが、緩急の急はそれなりにつき、派手に打楽器を打ち鳴らし剥き出しの管楽器は違和感ぎりぎりまで太く吹かせるところはロシアオケとの演奏を思い出させる。録音がやや丸みを帯びて茫洋としており、末尾の打ち鳴らしがすこしはっきりしないのは惜しいが、いや、立派な「海交響曲」である。
 
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ラヴェル:ピアノ協奏曲

2019年04月12日 | ラヴェル

アンリオ・シュヴァイツァー(P)ミュンシュ指揮レニングラード・フィル(SLS)1965/6/2レニングラードlive

 

乱暴なソリストに乱暴なオケという面白い出だしから、もはやミュンシュというよりロシアオケの強引さ+珍妙さを聴くものになっている(オケプレイヤーの音程の低さ、ヘタウマ感がラヴェル慣れしてないことを実感させる)。ロシアのラヴェルのピーコンにまずいいものはない。ロシア1のレニフィルだから他より上手いことは、弦楽器など確かだが、それでも軋みは多い。案外録音は良いモノラルで、とくにこの曲はさんざん演奏も録音もしているアンリオが克明にとらえられているから、それ以外の音(2楽章デリカシー皆無の強靭な木管、豪快な入りのミスも)への違和感を薄くしてくれる。ブラスの重いひびきはロシア物をやるための音だ。逆にこういうオケプレイヤーがピアノより自己主張する系の演奏というのも貴重なので、これではもはやミュンシュなのかどうかすらわからないけど、純ソヴィエト産の記録より遥かに求心力があり、中心にフランスの手練れのソリストがいるという違いだろう。激しい打鍵と激しい解釈の3楽章は強すぎてミスするんじゃないかというくらい男前のアンリオにはらはらしながら、完全にバックに引っ込んだオケに正解と言いたくなる。そのうち録音のクセかな?と思う場面があるがピッコロはやはり調子っぱずれだし、縦はずれかけている。でもアンリオは自分の世界に入り込んでいるので大丈夫、何にも動じない。なんとラストあたりはすっかりラヴェルの両手そのものになる。合奏の迫力はレニフィルさすが、なのだろう。びっくりの音源だがフォーレのバラードも演奏されている。

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ラフマニノフ:交響曲第2番

2019年04月12日 | ラフマニノフ
〇スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(WEITBLICK)1978/3/11スウェーデンlive・CD

ソヴィエト崩壊前後以降のこの曲の演奏はそれはボロボロなものだった。それまで一番大事と思われた指揮者に比べてオケおよびソリストの重要性が実感されたものだ。骨のようなオケゆえにこの曲のスケルツォや4楽章の丁々発止のアンサンブルが剥き出しで見えて面白かったが、この録音はそんな些末なことで楽しませない。スヴェトラ壮年期の素晴らしい、この上ない意気軒高とした演奏記録で、晩年の弛緩も音の薄さもなく、ノイズののる録音がすこしエアチェック音源的な聴きづらさをもたらしているのでそのぶんマイナスにするが、本来なら◎である。古いスヴェトラ正規録音は当時の録音事情から何度も録り直しをしないで雑なままにされている乱暴な面があり、モスクワとの古いものはとてもいい音で解釈もダイナミックなのに、諸所事故めいた凸凹が気になった。これはスピーディでダイナミック、かつ3楽章は柔軟でラフマニノフが要求するものをほとんど持っている。出張演奏ということで管楽ソリストの音がおとなしく、1楽章などもっとえぐぐ吹いてほしいと思うが、全体の調和のうえではいい。ラフマニノフ2番はこれしかなくていい。ただ、ノイジーなので、ソヴィエト末期以前なら他でもよい。ロシア国立交響楽団の表記があるが、当然当時はソヴィエト国立である。
 
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ミヨー:交響曲第4番(冒頭欠落)

2019年04月11日 | フランス
作曲家指揮ORTF(SLS)1948/5/20初演live

デゾルミエールによる革命記念日コンサートの全記録の前半に収録されているもの。デゾルミエールライヴ特有の極めて悪い録音の板起こしで、冒頭が完全に欠落しているのが惜しい。ミヨーでは一番を除き一般に最もアピールするであろう革命歌と大衆歌がふんだんに盛り込まれた交響曲であり、旋律がよくわかるから、ミヨーにしては大人しく整理された曲構造さえ掴めば二楽章以外は楽しめる。オケの腕により猥雑さを取得することなく、自作自演のERATO録音に近似した感もあるが、時代の勢いというか、この日の熱気が多少音に影響しているのだろう、迫真味もある(悪録音ライヴでよくある「熱気感」にすぎないかもしれない)。この曲以外の古今珍曲を振っているデゾはアルクイユ派と呼ばれたサティ晩年の使徒で前衛への理解が深く、ナチ傀儡政権下で果敢に現代音楽やフランス民謡を録音し続けたほど気骨ある人だった。ただ惜しむらくは指揮技術は綺羅星の如くフランスの巨匠にくらべ、ただスコアの再現技術に職人性を発揮できただけで、良い音の録音も少く名声も無なのは、仕方ないことかもしれない。拍手カット。こういう形態の「辛うじて残った放送エアチェック」は久しぶりに聴く。
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ルーセル:ディヴェルティスマン

2019年04月11日 | フランス
レヴィ(P)ランパル(Fl)ピエルロ(Ob)デルクルース(Cl)ウーブラドゥ(Fg)クルシエ(Hrn)(sls)1950/2/12live

録音はノイズまじりの悪いものだがメンツが豪華なのと曲が珍しいのでこれだけのために二枚組を買ってしまった。曲は1楽章制で6分あまり。喜遊的で期待にたがわぬ近代フランスの香りを振りまくストレートなもの。少々せわしないが「森の詩」を書き上げる時期にこれを書いたことを思うと、響きは神秘的なものを取り入れ依然重視しているものの、東洋の素材やガムラン風リズムを縦横無尽に使い全盛期の作風に近づいている。すでに印象主義から脱し単純志向を始めていたのかもしれない。音の取り合わせもバランスがよく、ソリスト級奏者ばかりという点からするともったいないが、アンサンブルとしてまとまってきこえる。レヴィのピアノは私は乱暴で音色にも味がなく好きではないがここでは目立たない。
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コープランド:古いアメリカの歌第一集・第二集

2019年04月10日 | アメリカ

ウォーフィールド(B)作曲家指揮小管弦楽協会(SLS)1958/12/15live


凡庸な民謡集でコープランドふうの管弦楽にいろどられた、まるきりそのまんまの田舎歌曲の連続。正直、よその国の人が聴いてもピンとこないほどあまりに平易で、プラスアルファの思い入れが必要な職人的編曲になっている。アイヴズが愉しげにやった「たんたんたぬきの〜」の原曲もここでは荘重に歌われ、あるいはバリトンは歌によりそれなりに崩して開拓期の祭りの土臭さを出そうとするも、コープランドの洗練された書法の前にはいまひとつ。私はまったく入り込めませんでした。

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シベリウス:交響曲第7番

2019年04月10日 | 北欧・東欧
クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PASC)1948/12/17live

既出か。pristineがすごいリマスタリングしてきて、擬似ステレオの人工的な新しさを突きつけてくる。いや、クーセヴィツキーみたいな指揮者はここまで加工して、古臭いイメージを一掃してやらないとならない。少し単調ではあるけれどシベリウスのオーソリティとして堂々と、前期交響曲的な雄渾な演奏を繰り広げており、シベリウスの繊細なメカニックを楽しむにはいくら加工しているとはいえこの音では無理があるが、なおクーセヴィツキーはやはりドラマの人で、明るく透明な響きの世界を提示するような現代的な観点はない。ロマンティックな雄大な世界を演出しておわる。拍手がまた人工的。。迫力はありますよ。
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マルセル・ドラノワ:バレエ音楽「ガラスの靴」〜2つの抜粋

2019年04月10日 | フランス
アンリ・メルケル(Vn)ミュンシュ指揮パリ音楽院管弦楽団(warner/EMI/lys/dutton/grammophone/columbia他)1941/7/21,22・CD

アマチュア出身の軽音楽に近い作曲家で、テレビや映画で聞かれるたぐいの楽しげな作品といえばだいたいイメージはわくだろう。南国の楽しい曲。原曲を知らないがSP両面の2曲、計4分とくればどう考えても抜粋だろう。ラテンの曲としてたのしめ、ミュンシュもミュンシュとわからないくらい愉しげにやっている。録音ならびに演奏は時代なり。ノイズが嫌ならダットンのメルケル集あたりを。
Complete.. -Box Set-
Warner Classics

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マルセル・ドラノワ:協奏的セレナード

2019年04月10日 | フランス

アンリ・メルケル(Vn)ミュンシュ指揮パリ音楽院管弦楽団(warner/EMI/lys/dutton/grammophone/columbia他)1941/7/21,22・CD


この曲は三楽章からなるしっかりした協奏曲で、この時期のフランス音楽の世俗性、そのまわりの暗雲たちこめる気配を反映した、とても映画音楽的な作品である。個性的なところもあるが、おおむね一般にアピールするヴァイオリン協奏曲のタイプであり、ウォルトンを弱めたようなものである。最小限の管楽器、とくにミューティングされたトランペットなど、効果的に扱われている。先鋭なところはほとんどなく、ソロはアマチュアも挑めるような書法で、甘い旋律が目立つ(ラフマニノフぽいものまで現れる)。三楽章はラテン風味があるが、そのものではなく、リズムと音の動きの一部で、みずみずしい透明感のある響きがアク抜きをしている。中でもハープのつまびきはこの人に特徴的でアクセントになっている。メルケルの音は安定した上で感傷的だが少し線が細い。そのため旋律をおおいに歌うというところまではいかず、はからずも節度があらわれている。ミュンシュは職人的に曲想にあわせた幸福な音の交錯をさばき、後年とは違う美観を示している。

Complete.. -Box Set-
Warner Classics


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ショスタコーヴィチ:交響曲第4番

2019年04月10日 | ショスタコーヴィチ

オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(ETERNITIES)1963/2/15live

 

「一人の作曲家を偏愛しない」タイプの指揮者、カラヤンなどそうだと思うが、そのバトンテクニックと馬力あるオケの機動力をフルに活用できる大曲ならマイナー曲でもやった。オーマンディはチャイコフスキーの7番、マーラーの10番といった奇曲の正規初録音をやったことでもわかるとおり新し物好きで、両作曲家の他の有名曲はぱっとした録音を残していない。ショスタコーヴィチはオーマンディはわりとやっているほうで、しかも後期のあまりやられないものまで手を出しており、そこへきてこの私見ではショスタコーヴィチ初の本格的な大交響曲である4番が出てくると、マイナー好みや新し物好きからはみ出た意外な偏愛ぶりを感じる。コンドラシンの蘇演まで封印されていた曲だが、若いころのロマンチシズムのかけらが潤滑油となって聴きやすくしており、音響的な派手さは5番よりも上を行くものでモダニストとしての残滓というより、自分の作風に完全にそういう要素を取り込んだあかしとして、「交響作家ショスタコーヴィチの誕生」を感じさせる。3楽章制の異様に長い曲だけれども、1楽章の中国風の掴みから2楽章の陰鬱、3楽章の「わけわからなさ」、すべてが骨のような削ぎ落されたオーケストレーションから発光している。すぐのちのショスタコーヴィチの交響曲の作風を予告し、オーマンディだからということもあるがここでは演奏的な破綻がなくスリリングですらなく、ただちょっとオケの音がぼわんとふくらみがあるのでショスタコっぽい鋭さが感じられなかったりもするが、少し甘い部分もストイックに、きちんと冷たくさばききる。終演後大ブラヴォで、これは会心の出来だったのだろう。ステレオで良い録音。

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オネゲル:交響曲第4番「バーゼルの喜び」

2019年04月09日 | フランス

クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PASC)1949/4/1live

 

驚きのpristine発掘音源で、カップリングのバーバーとシベリウスは既出だろう(前者はpristine過去音源の補完版)。クーセヴィツキーの録音はほぼ実況なので音はノイズまみれで悪い。が、これはちょっとpristineやりすぎたか。疑似ステレオ状態である。ほとんど晩年のシベリウス2番正規録音のような、初期ステレオの人工感、金属質の鋭い音が耳を刺す。でもこれではじめてクーセヴィツキーの真価がわかるというところもあり、明るく透明感のある、しかし重量のある音、カラフルな立体感、何よりリズムの良さが光る。浮き立つような愉悦感が素晴らしい。一方でこの指揮者の甘さも露呈するところがある。オネゲルは構造的な作曲家だが、2楽章の冒頭あたりポリリズムでもないのに縦がずれる感覚がある。ずれてはいないが甘いところは他にもある。この曲はオネゲルのシンフォニーでは最も軽く、独特の硬質な抒情(人好きするロマンティックな楽想は存在しない、独特の不協和な響きの美しさがある)が「スイス的」ともいわれるが、ようは突進する音楽ではないので構造が重要になってきて、クーセヴィツキーのような古いタイプの指揮者にはちょっと向かない「室内楽団向けの小規模作品(2管編成だけど)」であるということなのだろう。せっかくきれいにレストアしたのに、そのために聴きづらいところも出てきてしまった面含めおすすめはできないが、聴いて楽しめる演奏ではあり、クーセヴィツキーの「万能性」は十分出ている。バルトークのピアノ協奏曲第3番2楽章でのピアノを想起させる場面があるのは、オネゲルのせいか、クーセヴィツキーのせいか。

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