アンリオ・シュヴァイツァー(P)ミュンシュ指揮レニングラード・フィル(SLS)1965/6/2レニングラードlive
乱暴なソリストに乱暴なオケという面白い出だしから、もはやミュンシュというよりロシアオケの強引さ+珍妙さを聴くものになっている(オケプレイヤーの音程の低さ、ヘタウマ感がラヴェル慣れしてないことを実感させる)。ロシアのラヴェルのピーコンにまずいいものはない。ロシア1のレニフィルだから他より上手いことは、弦楽器など確かだが、それでも軋みは多い。案外録音は良いモノラルで、とくにこの曲はさんざん演奏も録音もしているアンリオが克明にとらえられているから、それ以外の音(2楽章デリカシー皆無の強靭な木管、豪快な入りのミスも)への違和感を薄くしてくれる。ブラスの重いひびきはロシア物をやるための音だ。逆にこういうオケプレイヤーがピアノより自己主張する系の演奏というのも貴重なので、これではもはやミュンシュなのかどうかすらわからないけど、純ソヴィエト産の記録より遥かに求心力があり、中心にフランスの手練れのソリストがいるという違いだろう。激しい打鍵と激しい解釈の3楽章は強すぎてミスするんじゃないかというくらい男前のアンリオにはらはらしながら、完全にバックに引っ込んだオケに正解と言いたくなる。そのうち録音のクセかな?と思う場面があるがピッコロはやはり調子っぱずれだし、縦はずれかけている。でもアンリオは自分の世界に入り込んでいるので大丈夫、何にも動じない。なんとラストあたりはすっかりラヴェルの両手そのものになる。合奏の迫力はレニフィルさすが、なのだろう。びっくりの音源だがフォーレのバラードも演奏されている。
ウォーフィールド(B)作曲家指揮小管弦楽協会(SLS)1958/12/15live
凡庸な民謡集でコープランドふうの管弦楽にいろどられた、まるきりそのまんまの田舎歌曲の連続。正直、よその国の人が聴いてもピンとこないほどあまりに平易で、プラスアルファの思い入れが必要な職人的編曲になっている。アイヴズが愉しげにやった「たんたんたぬきの〜」の原曲もここでは荘重に歌われ、あるいはバリトンは歌によりそれなりに崩して開拓期の祭りの土臭さを出そうとするも、コープランドの洗練された書法の前にはいまひとつ。私はまったく入り込めませんでした。
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アンリ・メルケル(Vn)ミュンシュ指揮パリ音楽院管弦楽団(warner/EMI/lys/dutton/grammophone/columbia他)1941/7/21,22・CD
この曲は三楽章からなるしっかりした協奏曲で、この時期のフランス音楽の世俗性、そのまわりの暗雲たちこめる気配を反映した、とても映画音楽的な作品である。個性的なところもあるが、おおむね一般にアピールするヴァイオリン協奏曲のタイプであり、ウォルトンを弱めたようなものである。最小限の管楽器、とくにミューティングされたトランペットなど、効果的に扱われている。先鋭なところはほとんどなく、ソロはアマチュアも挑めるような書法で、甘い旋律が目立つ(ラフマニノフぽいものまで現れる)。三楽章はラテン風味があるが、そのものではなく、リズムと音の動きの一部で、みずみずしい透明感のある響きがアク抜きをしている。中でもハープのつまびきはこの人に特徴的でアクセントになっている。メルケルの音は安定した上で感傷的だが少し線が細い。そのため旋律をおおいに歌うというところまではいかず、はからずも節度があらわれている。ミュンシュは職人的に曲想にあわせた幸福な音の交錯をさばき、後年とは違う美観を示している。
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オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(ETERNITIES)1963/2/15live
「一人の作曲家を偏愛しない」タイプの指揮者、カラヤンなどそうだと思うが、そのバトンテクニックと馬力あるオケの機動力をフルに活用できる大曲ならマイナー曲でもやった。オーマンディはチャイコフスキーの7番、マーラーの10番といった奇曲の正規初録音をやったことでもわかるとおり新し物好きで、両作曲家の他の有名曲はぱっとした録音を残していない。ショスタコーヴィチはオーマンディはわりとやっているほうで、しかも後期のあまりやられないものまで手を出しており、そこへきてこの私見ではショスタコーヴィチ初の本格的な大交響曲である4番が出てくると、マイナー好みや新し物好きからはみ出た意外な偏愛ぶりを感じる。コンドラシンの蘇演まで封印されていた曲だが、若いころのロマンチシズムのかけらが潤滑油となって聴きやすくしており、音響的な派手さは5番よりも上を行くものでモダニストとしての残滓というより、自分の作風に完全にそういう要素を取り込んだあかしとして、「交響作家ショスタコーヴィチの誕生」を感じさせる。3楽章制の異様に長い曲だけれども、1楽章の中国風の掴みから2楽章の陰鬱、3楽章の「わけわからなさ」、すべてが骨のような削ぎ落されたオーケストレーションから発光している。すぐのちのショスタコーヴィチの交響曲の作風を予告し、オーマンディだからということもあるがここでは演奏的な破綻がなくスリリングですらなく、ただちょっとオケの音がぼわんとふくらみがあるのでショスタコっぽい鋭さが感じられなかったりもするが、少し甘い部分もストイックに、きちんと冷たくさばききる。終演後大ブラヴォで、これは会心の出来だったのだろう。ステレオで良い録音。
クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PASC)1949/4/1live
驚きのpristine発掘音源で、カップリングのバーバーとシベリウスは既出だろう(前者はpristine過去音源の補完版)。クーセヴィツキーの録音はほぼ実況なので音はノイズまみれで悪い。が、これはちょっとpristineやりすぎたか。疑似ステレオ状態である。ほとんど晩年のシベリウス2番正規録音のような、初期ステレオの人工感、金属質の鋭い音が耳を刺す。でもこれではじめてクーセヴィツキーの真価がわかるというところもあり、明るく透明感のある、しかし重量のある音、カラフルな立体感、何よりリズムの良さが光る。浮き立つような愉悦感が素晴らしい。一方でこの指揮者の甘さも露呈するところがある。オネゲルは構造的な作曲家だが、2楽章の冒頭あたりポリリズムでもないのに縦がずれる感覚がある。ずれてはいないが甘いところは他にもある。この曲はオネゲルのシンフォニーでは最も軽く、独特の硬質な抒情(人好きするロマンティックな楽想は存在しない、独特の不協和な響きの美しさがある)が「スイス的」ともいわれるが、ようは突進する音楽ではないので構造が重要になってきて、クーセヴィツキーのような古いタイプの指揮者にはちょっと向かない「室内楽団向けの小規模作品(2管編成だけど)」であるということなのだろう。せっかくきれいにレストアしたのに、そのために聴きづらいところも出てきてしまった面含めおすすめはできないが、聴いて楽しめる演奏ではあり、クーセヴィツキーの「万能性」は十分出ている。バルトークのピアノ協奏曲第3番2楽章でのピアノを想起させる場面があるのは、オネゲルのせいか、クーセヴィツキーのせいか。