りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

生きる、ということ。

2010-03-11 | Weblog
この数週間、仕事の帰りに、祖母のお見舞いに行っている。

集中治療室に入っているので、面会時間は1日のうちで
正午~午後1時の1時間と午後6時~午後7時の1時間。
計2時間の2回だけ。
だから毎日というわけにはいかないのでが、夜の面会時間に
間に合えば顔を出すようにしている。

数週間前、担当の医師から祖母の病状の話を聞いた時は、
それこそ、もう1週間ももたないような話だった。
医師は「非常に厳しい表現ですが」と前置きして、
「人工呼吸器で亡骸に無理矢理呼吸をさせているようなもの」とまで言った。

しかし、悲しいかな、たしかにその頃の祖母は誰が見てもそういう状態だった。

それから数週間が過ぎ、今週の月曜日、祖母は鼻から挿入していた人工呼吸器を外し、
その代わりに、喉の気道を切開して、そこへ直接人工呼吸器を挿入する手術を受けた。

そのおかげで、祖母は人工呼吸器の痛みを和らげるために、数週間投薬し続けた
“眠り薬”(看護師さんからそういう説明を受けた)をやめ、多少意識が混濁気味ではあるが、
完全に目を覚ました。
しかし、その一方で、気道へ直接人工呼吸器を挿入した姿は、あまりにも痛々しく、
大人である僕らでさえも正視するのをためらってしまう。
そして何よりも、ここまできたら、祖母はもう自発的な呼吸は無理だということになり、
人工呼吸器なしで生命を維持することはできない・・・ということになる。
だから今回の措置によって、決して祖母は快復傾向になったわけではなく、
あくまでも、生命の維持の仕方を変えただけなのだ。

仮に。

仮に、祖母がこれから奇跡的に快復傾向に向かったとしても、自分の足で歩いたり、食事をしたり、
用を足したり・・・という日常生活を過ごすことは、もう不可能だろう。
寝たきりで、自分ひとりでは何も出来ない身体になってしまうことは必至だ。
身体だけではない。
医師の説明では、初期の認知症の症状も認められるという。

この数週間、頭の片隅で、考えている。
“生きる”ということは、どういうことなのだろう。
この当たり前すぎて、どうしようもない難題に、僕が考えあぐねいている。

特に、鼻から人工呼吸器を挿入し、様々な機械に囲まれ、マリオネットの
ように身体から数本のコードが伸ばされ、昏睡状態だった祖母を目にしていた頃、
僕は、祖母の快復を願いながらも、“もう楽にしてあげたい”という気持ちで
心が支配されていた。

祖母は89年間、一所懸命生きて来た。
数え切れない苦労も苦難も乗り越え、どんなに辛い状況でも、いつも前向きに生きてきた。
自分の人生を“生き抜いた”のだ。
だから、もう十分だ。早く楽にしてあげたい。
27年も前に60歳あまりで先立った祖父や、7年前に53歳という若さで逝ってしまった叔父
(祖母の息子)の元へ早く行かせてあげたい。
正直にいえば、今もその気持ちの方が強い。

でも、現在のこの国の医療は、それを許してはくれない。
わずかであっても、“生命”として存在しているものは、生かさねばいけないのだ。
そこに理由など、ない。
生かす。
あえていうなら、それだけが理由だろう。

昨日見舞った祖母は、耳元で話しかけるとすぐに反応して、僕をみつめた。
そして僕を見て、少しだけ顔を緩ませた。
気道に人工呼吸器を挿入しているので声は出ないが、頻繁に口を動かして、
何かを必死に訴えかけてきた。
言葉(口)での伝達が難しいと分かったら、今度は点滴やコードが何本も
付いている両腕を動かしはじめた。
その間、祖母の目は僕を見ていた。明確に感情や意志のある目で僕を見ていた。

祖母は、生きているのだ。

しかし・・・これ以上の快復は、今のところ見込めそうにない。
意識が明確になったのと反比例するように、体力は少しずつ落ちていっている。
だけど、祖母は、生きている。
何か、新たにやりたい事があるわけでもないだろう。
何か、やり残したことがあるわけでもないだろう。
もしかしたら、自分の死期が迫っていることも自覚しているのかも知れない。
なのに、生きようとしている。
最期まで、生きようとしている。

いったい、“生きる”とは、どういうことなんだろう。

僕は、その答えのカケラを見つけるために、今日も仕事帰りに、祖母の見舞いに行く。
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