昨日、娘を叱った。
理由は、些細なこと・・・といっても叱るに値すると
思ったので叱ったのだが。
娘を叱ったと言っても、感情に任せて暴言を吐くような
真似はしていないし、まして手など出してはいない。
感情を抑えてコンコンと説教した・・・けど、僕もまだ
親として未熟なのか、話し続けてるうちに少しずつヒート
アップしていって、気がつけば語尾は荒くなっていた。
そんな僕の説教を聞きながら、娘は泣いた。
僕は子どもを叱ることは滅多にない(と自分では思っている)。
なぜなら、一応、僕なりに自分の中で子どもを叱る時の目安と
いうか決め事を持っているからだと思う。
別にそれは、大した目安ではないし、決め事も多くない。
たった、ひとつだけだ。
それは、誰かに失礼なことをした時。
今、思い返してみても、僕が子どもたちを叱る時は、この
1点を逸脱している時だけだと思う。
誰かに失礼なことをする・・・といっても相手は子どもなので、
別に大人の世界のような裏切りや理不尽な行為で迷惑をかける
わけではない。
簡単に言えば、嘘をついたかどうか、だ。
当たり前のことだが、「嘘をつく」という行為は、相手がいて
初めて成立する。
そして「相手がいる」という事は、他者が自分の存在を認めて
くれて初めて成立する事象である。
だから「嘘をつく」という行為は、相手に失礼をするだけなく、
自分の存在事態さえも否定する行為なのだ・・・と僕は考えている。
だから、叱る。
しかし、今回の娘の一件はそんな子どもの“嘘”とは少し違っていた。
言葉が違うかも知れないが、少しレベルアップした“失礼”だった。
だが、たとえレベルアップしたといっても、また親子であっても・・・
いや、親子という人間関係の基礎中の基礎での“失礼”だったからこそ、
指摘する必要があると僕は思ったのだ。
僕は出来るだけ言葉を選びながら慎重に諭すように、娘と対峙した。
しかし上述したように、気がつけば語尾が荒くなり、どうやら最後は
怒鳴ってしまっていたようだ・・・。
泣きながら謝ってリビングから娘が自分の部屋に戻った後、すぐ傍で
僕と娘のやりとりを無言で聴いていた妻に目を向けると、なんとも形容
しがたい表情をしていた。あえて言うなら“しょうがないなぁ~”とい
う顔である。もっともそれが誰に対しての“しょうがないなぁ~”なのかは、
あえて尋ねなかったが・・・。
疲れた。
叱るという行為でこんなに疲れたのは、初めてかもしれない。
もちろん体力的ではなく精神的に・・・なのだけれど。
おそらくそれは、これも上述したように、今までの子どもの「嘘をつく」と
いうレベルではなかったからだと思う。
ひとつ、分かった。
叱るという事は、自分をさらけ出すことなのだ。
40数年間の人生で、自分なりに培った拙い人生哲学やポリシーや教訓を
これまた拙くまだまだ数少ない引き出しの中から引っぱり出して、それを
子どもにぶつける行為なのだ。
自分の身を削るとまでは言わないが、中身を引っぱり出して見せるのだから、
疲れない方がおかしい。
娘は今月、12歳になる。
いよいよ男親には接し方が難しい年代に突入する。
これから先、叱ることによってクタクタになるような時が数えきれないほど
訪れるかもしれない。
しかし、そうでないといけないと思っている自分もいる。
子どもが12歳なら、親も12歳。
こっちだって、伊達や酔狂で親になったわけじゃない。
どこまでクタクタのボロボロになっちまうか、親になった以上、行くところ
まで行ってやろうじゃないか。
理由は、些細なこと・・・といっても叱るに値すると
思ったので叱ったのだが。
娘を叱ったと言っても、感情に任せて暴言を吐くような
真似はしていないし、まして手など出してはいない。
感情を抑えてコンコンと説教した・・・けど、僕もまだ
親として未熟なのか、話し続けてるうちに少しずつヒート
アップしていって、気がつけば語尾は荒くなっていた。
そんな僕の説教を聞きながら、娘は泣いた。
僕は子どもを叱ることは滅多にない(と自分では思っている)。
なぜなら、一応、僕なりに自分の中で子どもを叱る時の目安と
いうか決め事を持っているからだと思う。
別にそれは、大した目安ではないし、決め事も多くない。
たった、ひとつだけだ。
それは、誰かに失礼なことをした時。
今、思い返してみても、僕が子どもたちを叱る時は、この
1点を逸脱している時だけだと思う。
誰かに失礼なことをする・・・といっても相手は子どもなので、
別に大人の世界のような裏切りや理不尽な行為で迷惑をかける
わけではない。
簡単に言えば、嘘をついたかどうか、だ。
当たり前のことだが、「嘘をつく」という行為は、相手がいて
初めて成立する。
そして「相手がいる」という事は、他者が自分の存在を認めて
くれて初めて成立する事象である。
だから「嘘をつく」という行為は、相手に失礼をするだけなく、
自分の存在事態さえも否定する行為なのだ・・・と僕は考えている。
だから、叱る。
しかし、今回の娘の一件はそんな子どもの“嘘”とは少し違っていた。
言葉が違うかも知れないが、少しレベルアップした“失礼”だった。
だが、たとえレベルアップしたといっても、また親子であっても・・・
いや、親子という人間関係の基礎中の基礎での“失礼”だったからこそ、
指摘する必要があると僕は思ったのだ。
僕は出来るだけ言葉を選びながら慎重に諭すように、娘と対峙した。
しかし上述したように、気がつけば語尾が荒くなり、どうやら最後は
怒鳴ってしまっていたようだ・・・。
泣きながら謝ってリビングから娘が自分の部屋に戻った後、すぐ傍で
僕と娘のやりとりを無言で聴いていた妻に目を向けると、なんとも形容
しがたい表情をしていた。あえて言うなら“しょうがないなぁ~”とい
う顔である。もっともそれが誰に対しての“しょうがないなぁ~”なのかは、
あえて尋ねなかったが・・・。
疲れた。
叱るという行為でこんなに疲れたのは、初めてかもしれない。
もちろん体力的ではなく精神的に・・・なのだけれど。
おそらくそれは、これも上述したように、今までの子どもの「嘘をつく」と
いうレベルではなかったからだと思う。
ひとつ、分かった。
叱るという事は、自分をさらけ出すことなのだ。
40数年間の人生で、自分なりに培った拙い人生哲学やポリシーや教訓を
これまた拙くまだまだ数少ない引き出しの中から引っぱり出して、それを
子どもにぶつける行為なのだ。
自分の身を削るとまでは言わないが、中身を引っぱり出して見せるのだから、
疲れない方がおかしい。
娘は今月、12歳になる。
いよいよ男親には接し方が難しい年代に突入する。
これから先、叱ることによってクタクタになるような時が数えきれないほど
訪れるかもしれない。
しかし、そうでないといけないと思っている自分もいる。
子どもが12歳なら、親も12歳。
こっちだって、伊達や酔狂で親になったわけじゃない。
どこまでクタクタのボロボロになっちまうか、親になった以上、行くところ
まで行ってやろうじゃないか。