りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

はだしのゲン。

2011-08-22 | Weblog
我が家の本棚に、漫画「はだしのゲン」の単行本が数冊ある。

2巻から5巻くらいまでで、ストーリーとしては原爆投下直後から
終戦の混乱期のあたりだ。
いつどこで購入したのか、今ではハッキリ憶えていないほど
昔に購入した。おそらく独身の頃だと思うが、その後結婚して
住居を何度か変わったのに、本棚の中にしっかりと収まっている。

先日、何気なく、本棚に手を伸ばしページを開いた。
そしたら、久々に目にしたからか、ハマってしまった。
それは、掃除をしていたら懐かしいアルバムが出てきて、
思わず掃除を中断してしまい、そのままアルバムをめくるのに
没頭してしまった感覚に似ている。

リビングに単行本を持って降りて読んでいると、漫画好きな
娘が尋ねてきた。
「何を読んでいるの?」
僕が表紙を見せると、「読ませて読ませて」とせがんできた。

その時、僕は少し躊躇した。

それは、自分の漫画だから娘に読ませるのが惜しかったわけではなく、
恐がりな娘には、ちょっと刺激が強すぎるのではないか?と心配したからだ。

読まれたことがある方ならご存知だろうが、この漫画の中の原爆被害の
描写は、あまりにもリアルだ。
事実であるといえども、原爆にあった街や人々の凄惨な姿がこれでもか
これでもか、と描かれている。

小学生の時に、僕が初めて「はだしのゲン」を読んだ時、そのあまりにも
リアル(というよりも、これは本当の出来事なのか?と半信半疑だったような
記憶がある)な描写に、それまで漫画から受けたことがないほどの恐怖や衝撃を
まともにくらった。
だから、それからしばらくは単行本を見ることを避けていた時期もあった。
きっと軽いトラウマになったのだと思う。

大人になり、その軽いトラウマも癒えて、自身で単行本を買えるようになり、
上述したようにいつまでも本棚に置いていても、自分から子どもたちに見せる
ようなことはしなかった。
むしろ、子どもの頃の自分と同じような“トラウマ”にならないように、避け
させていたようなところがある。

しかし今回の一件は、リビングへ漫画を持ってきた自分が悪いのだし、娘も
今週末には12歳になる。
半分、とは言わないまでも、1/3程度は大人だろう。
僕は、読み終えた2巻を娘に渡した。
「はだしのゲン」の2巻は、原爆投下直後の広島市街が延々を描かれている、
この漫画の中でも、もっとも凄惨な巻である。

しかし、僕の心配は杞憂に終わった。
娘は、没頭したように読みふけりはじめた。

2巻が終わると3巻、4巻と読み進む。
あっという間に読み終わると、続きが読みたいと要求してきた。
仕方ないので、昨日、図書館に行って、数冊借りてきた。

おそらく今日、娘は夏休みの宿題そっちのけで「はだしのゲン」を読みふけっているだろう。
小学6年生の彼女が、何に惹き込まれてそこまで没頭してしまったのか、僕には分からない。

ただ、僕自身もこの歳になっても、何度読んでも惹き込まれているわけだから、
彼女なりに、そこに“何か”を感じて、ハマってしまったことは間違いない。

ちなみに僕は、今回、昔とは少し違った感覚で読めた。

子どもの頃は、それこそ原爆被害の凄惨なシーンや主人公のゲンや弟分の隆太の活躍が
見もので読んでいたのだが、大人になって読む「はだしのゲン」は、終戦直後の混乱期に
ゲンをはじめ登場人物たち、いわゆる普通の庶民が徹底的に理不尽な境遇にさらされ、
それを心の底から憤怒しながらも何とか自分の力で立ち上がる姿ばかりが印象に残った。

単に、大人になって視点が変わった・・・というのではないような気がする。

いつまでたっても国民に目を向けない政治。
放射能の恐ろしさを徹底的に隠し通す政府とアメリカ。
そのしわよせをすべて被らされる、普通の生活を営んでいた国民。

そう。
何も、変わっていない。
コメント
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