rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

初結露・日本晴れ・絹綿雲

2013-09-17 22:16:33 | 空・雲・星・太陽たち
今朝は、ずいぶんと冷え込んだ。
ニュースでは乗鞍岳で初氷と言っていた。
我が家の窓ガラスには、結露ができた。
台風18号が去って、大陸から張り出した高気圧は寒気も連れてきたのだ。

雨で洗われた大気はすっきりと澄んで、空を抜けるような青さに仕立て上げる。
北よりの乾いた風が、昨日までの蒸し暑さを一掃してくれた。
とても気持ちのよい日。
午前中などは、雲ひとつない日本晴れ。
昼をまわりしばらくしてから、やっと雲が浮かび始めた。
東西に長く一筋二筋と雲ができ、刷毛でさっと掃ったような形に変わっていく。
4時ごろ、空を見上げると、真上にかかった雲が虹色がかっていた。
その雲は、まるで絹綿のような繊細な雲で、風が千切って青空に浮かべたようなものだった。
もちろんカメラにおさめたけれど、明日あたりアップしようか。

もう少しで秋分の日。
だいぶ日も短くなってきた。
秋の空は変化に富んで美しい。
気温も過ごしやすく、空を見上げるのがより楽しくなってくる。
また、空の写真がたくさん溜まってしまいそうだな。


おそらくアーク 17/9/2013


たぶんアーク 17/9/2013


絹綿雲 17/9/2013




赤足の鋼色のいかついアイツ

2013-09-16 11:16:39 | 生き物たち
台風の影響により、南からの蒸し暑い空気が流れ込んできている。
こんなときは気をつけなければならない。
動物的感覚を研ぎ澄まし、細長く黒っぽい物体を感知するのだ。

昨夜の11時、今のドアを開け廊下に出た瞬間、右下の壁際に影ではない尋常ならぬ物体が、視界の隅に入り込んだ。
間髪おかずそこに視線を向け、くねりながら移動するものを捉えると同時に「ひぇぁぉーっう!」と表記しがたい叫び声をあげた。
すると、階下から中くらいの人が「ムカデかーっ!?」と聞き返し、私は返事しながら殺虫剤を取りに動き出す。
階段を駆け上がり駆けつけた中くらいの人は殺虫剤を受け取って、ムカデが消えたと思しき方に殺虫剤を噴射する。
物陰に隠れたムカデを燻り出すのだ。
数度殺虫剤を噴射すると、奴がこちらに向かって猛進してきた。
奴本体に殺虫剤を吹きかけると、奴は苦しみのた打ち回る。
奴の生命力は尋常なく強いので、物理的に深刻なダメージを与えなくては安心できない。
中くらいの人は階下に奴を運び、玄関で奴に止めをさした。

さて、今日もまだ蒸し暑い。
今夜も赤足の鋼色のいかついアイツがやってくれるかもしれない。
野生の勘全開せねば。

無節操のアート、フランシス・ピカビア

2013-09-15 17:34:00 | アート

farm at la petite mare


the spanish revolution

20世紀前半の芸術家フランシス・ピカビア。
その作風は、目まぐるしく変化し続けた。
だから、「印象派」と「ダダイスト」とか「抽象の」などと固定した表現ができないのだ。
キューバの血とフランスの血の二つが流れるピカビアは、コスモポリタンとして宿命付けられていた。
それが、一定のものに安住しない作風に多大な影響を与えたのだろう。

今まで自分が知っていたピカビアは、キュビズムもしくは機械的抽象画を描くピカビアだった。
ところが、印象派風の作品も描けば、フォーヴみたいなものもあり、なたは全てが透明で透けたような絵もあった。
とらえどころのない画家。
しかし、ある一定の画風が認められたらそれに固執して描き続けるというのもおかしなもので、ピカビアは自らの探究心を停滞させることはしなかった。
至極まっとうな芸術家ともいえる。
あらゆるところに偏在するコスモポリタンとしての生き方を貫いたのだ。
あまり気に留めていなかったピカビアが、気になる存在へと浮上した。

自由闊達でいられるには、何も持たないことに不足を感じないでいるか、莫大な富を持ってやりたいことを生活の手段としなくて済む場合ではないかと思っている。
ピカビアは、おそらく後者だろう。
それでなければ、こうも気の向くままに描くことは不可能と思われるから。
下世話だが、うらやましい限りであるよ。




bal negre


lausanne abstract

花を買って飾ること

2013-09-13 16:02:43 | 趣味たち
趣味とはいえないかもしれない。
ここ数年、切花を買って飾ることなどないから。
絶えずとうわけではないけれど、庭のどこかしらには花が咲き、飾る花に困ることはない。
しかし、花屋で花を買って飾るということは、ちょっと特別だ。
買いやすいようアレンジした300円程度の花束を見ると、つい衝動買いしたくなる。
自分好みの色や花を選んだ花束を、時には奮発して飾りたくもある。
家に帰り、花束にふさわしい花瓶に花を生けると、その空間が輝きだして、普段の暮らしに彩を注す。
花が萎れていくのは寂しくても、枯れるこのとない絵とは違ったベクトルの一瞬の美の尊さを感じられる、代えの効かないものなのだ。

たまに歩く東京の街の花屋は、街によって個性が違って面白い。
渋谷の文化村あたりにある花屋は、色味を抑えて個性的。
銀座は、豪華で派手にも上品にもできそうな品揃え。
上野は、色とりどりのにぎやかだけれど大げさにならない花たちを控えさせている。
パリでもそうだった。
地区や住む人たちの民族性の違いなどによっても好みなどがあるのだろう、花屋は見事に街を写し取っていた。

花を買うこと、それは不要なものを必要とする行為。
必用なものだけで生きていては、心が貧しくなってくると感じることがある。
お酒もお菓子も、食べなくても生きていけるけれど、ないと物足りない。
花はさらに不必要なもの。
絵はもっと不要なもの。
それでも花は、気軽に手に入れられる不必要品。
花を買う、それだけでなにか思い切ったことをするように感じるのは、私だけだろうか。
思い切って買った花を、大切に可愛く思い眺めて心が癒されるならば、その価値は高い。
そうだ、今度、花を買おう。


可哀相なムソルグスキー

2013-09-12 11:39:25 | インポート
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Mussorgsky: Pictures at an Exhibition - Promenade I

中くらいの人が、この曲を聴いてこう叫んだ。
「この曲は嫌いだ!」
何を藪から某にそう言うのか尋ねてみたところ、学校の給食時間にこの曲が流れ、好き嫌いの多い彼にとって苦痛の時間を告げるものだというのだ。
特に何にでもよく入り込む「キノコ類」が一番の苦手では、確かに困る。
味も風味も強いキノコたちは、それを受け付けないものにとっては拷問に等しい。
また、料理を作るものにとっても、キノコがアウトだと結構レパートリーに影響大でもある。

気の毒なムソルグスキー。
彼の「展覧会の絵」の「第一プロムナード」に何の落ち度もないのが、パブロフの条件よろしくすり込まれた悪いイメージによって、我が家の中くらいの人にとって嫌悪すべき音楽になってしまった。

ムソルグスキーに限らず、キャッチーな音楽というものは、あらゆる場面で使われる。
だから人によっては、辛い記憶を呼び覚ますものになりうるわけで、バッハもベートーベンもどの作曲家にしてもこの難を目脱がれることはできない。
反面、幸せな記憶を引き出す効果も持ち合わせているから、相殺されるということか。

いかにせよ、人の生活に挿入される記憶に残る音楽というものは、不死の力を持っている。
絶えず誰かの心を刺激し、記憶を立ち上げ、その逆も然り。
だからムソルグスキーよ、あなたの曲は永遠に消えることはないだろう。
どうか我が中くらいの人を哀れみたまえ。



La grande porte de? Kiev / Modest Petrovich Mussorgsky