rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

貧ちゃん神隠しから開放される

2014-03-09 23:22:45 | 随想たち

椅子の上の貧ちゃん 9/3/2014

これは貧ちゃんこと家人のニット帽である。
家人と貧ちゃんの馴れ初めは、今を遡ること27年前、家人がまだ初々しい好青年であった頃、ユニーのワゴンセールでのことだった。
それから冬になると貧ちゃんは家人の体の一部となりベルギー遠征の心強い友となり、今も現役続行中だ。
そのニット帽が貧ちゃんと名付けられたのは、子供が観ていたアニメ「おじゃる丸」に登場する満願神社に住み着いた貧乏神”貧ちゃん”の風貌と醸し出す雰囲気が家人の帽子と重なることを二人して認め合ったことに由来する。
そしてほぼグレーで統一された家人の服装が、より貧ちゃんを貧ちゃんたらしめる効果を持っていたことも付け加えよう。
しかし、貧ちゃんはけっして疫病神などではない、愛すべき貧ちゃんなのだ。
重い病気を患うものが家族にいなく、厄介な問題も抱えていない、さらに一銭の借金もない、食べるに事欠いたこともなく、これはかなり幸福度が高いといえるだろう。
ただ、お金持ちでないだけだ。
おじゃる丸の貧ちゃんは、満願神社を繁栄させることはしなくても、小さき者たちが集う憩いの場として滅亡させはしないのだ。
その貧ちゃんが、最近姿をくらました。
失くし物大王の家人だからまたどこかに置き忘れたのだろうと家人の行動範囲を丁寧に探しあたってみてもどこにもなかった。
それでもきっとどこかにあるだろうと様子を見ていたら、なんと散々探しなおかつ皆が集う居間の椅子の上にポンとのっているではないか。
突然出現した貧ちゃんに、家族皆が驚いた。
貧ちゃんの姿が見えなくなったのは、シャーマンから電話のあった日の夜から。
あの電話はもしかすると貧ちゃんがシャーマンに信号を送ったからなのだろうか。
それとも大いなる力が作用して、貧ちゃんが霊媒の役を仰せつかったのか。
オカルトのような話だが、不可知のものを否定できる根拠もないと思うので、それを一つの人生のエッセンスとして捉えてもいいような気がする。
貧ちゃんが戻ってきたことで、通常通りの気分になりほっとした家人、そして私なのである。



牛の真黒く潤んだ大きな目

2014-03-08 23:14:42 | 生き物たち
先日、叔父のシャーマンに会いに行った。
場所は牧場。
大きな畜舎に百頭を超える牛たちが、おがくずなどでしつらえた寝床に気持ちよさそうにくつろぎ、あるものは餌を食んでいる。
長閑で時が止まったような牧場に闖入者がやってきたと牛たちは、牧場を歩くこちらを大きく潤んだ目でまっすぐに見つめるのだ。
初めての場所で様子を窺いながら叔父を探していたとき、通り過ぎた事務所のようなところで誰かの声がした。
叔父といとこだ。
戻る私たちを追う牛たちの目から警戒の色が薄れた気がする。
おそらく自分達を世話する人の仲間だと認識したからなのだろう。
かつて叔父から聞いた話。
「牛は人をよく見ていて、気に入らないやつには触らせようとしないし、そんなやつがちょっとでも粗相をしたら容赦なく蹴りが飛んでくる。」
そうでなくても、あの牛の目は人間の心の奥を見透かすような何かがある。
もしかすると、我々人間は、まっすぐに人を見ることを恐れて大切な何かを忘れてしまっているのかもしれない。
目は口ほどにものを言う・・・ということか。

セリのトリコロールスープ

2014-03-07 20:55:16 | 食べ物たち

セリのトリコロールスープ 7/3/2014

美しく鮮やかな色をした瑞々しさ満点のセリを頂いた。
それを今回は、セロリ入りの炒めご飯にあわせてコンソメ仕立てのスープにしてみた。
セリの香りと色をより楽しむために、タマネギとミニトマトを取り合わせ、爽やかな酸味も加える。
さっぱりとさせるから、具材を炒めたりしなく、タマネギ、トマト、セリの順に時間差で煮てとチキンコンソメとコショウ、仕上げにオリーブオイルをひと垂らしと、手間なしだ。
家人は、いつもの如く目を閉じてスープを味わいながら、「からっと揚げた鶏肉もあう・・・」とつぶやいていた。
セロリ・パセリ・パセリ・クレソン・シソ・バジル、香りの野菜は好き嫌いが分かれるけれど、食べられるならば味覚の世界が広がる食材だ。
大人の味覚といえるだろうか。


ホイッスラー、絵画の真髄へ一足先に歩み出た画家

2014-03-05 23:18:07 | アート

Symphony in White no 1 - The White Girl - Portrait of Joanna Hiffernan


Mrs. Frederick R. Leyland

ジェームズ・マクニール・ホイッスラーは、ギュスターブ・クールベらと共に活動した時期もある19世紀後半に活躍した、アメリカ生まれのコスモポリタンな画家だ。
リアリズム派とも印象派とも違い、ラファエロ前派や象徴主義とも一線を画す、ホイッスラーの世界を確立している。
抽象化が進んでいる風景画は、ターナーの系譜を継いでいると見えなくもない。
人物画でも、抽象的構成を取り入れて、絵画における表現の根幹へと一人降り立つホイッスラーは、他の画家たちと見ている先が異なっている。
二次元の平面の中に三次元を再現することを主流にしてきた西洋絵画の基礎に、風穴を開ける企み。
また、絵画が目的とする区切られた空間の中での色の配置と量の均衡調和をよりシンプルな形で突き詰めようとする試みが斬新であった。
一見茫洋とした画面と感じ取れるかもしれないけれど、いやかつては自分はそう思っていた、実はとてつもないことをホイッスラーはやってのけているのだ。
具象的なものを押さえ込んだ絵作りで、色と形の共鳴を作り上げる。
それは一寸戦慄ものだ。
ホイッスラーの絵を見直してみていると、背筋がぞくぞくすると同時に心が震えてくる。
オルセー美術館に、彼の母をモデルに描いた『灰色と黒のアレンジメント-母の肖像』が収蔵されているが、未熟な自分はその絵に深く感動できなかった。
いまならば、隅々まで神経が行き届いた構成を理解し、絵に深く迫れる自信が少し持てたと思うのだ。

なんと、ホイッスラーのことを調べていたなら、ホイッスラー展が今年の9月から京都国立近代美術館で、12月からは横浜美術館で開催されることを知った。
できるならば展覧会に足を運んでみたいと考えている。






NocturneGreyandGold-CanalHolland


Nocturne in Blue and Gold

嫉妬するねこ

2014-03-04 22:52:24 | ねこ

ハトのポッポが、庭をヒョコヒョコ歩いている。
こちらの注意を惹きたいらしい。
エサが欲しいのかと思いきや、エサ用ピーナッツの入れ物がいつもの場所より手前にずれているところからしてもう誰かが与えたようだ。
でも、私の後をついてきてエサくれアピールをするので、3粒手のひらに載せ差し出すと、忙しなくついばんで飲み込んでしまった。
食いしん坊の引力がこの土地にはあるのだろうか、まだ物足りない顔をしている。
それでも食べすぎは身体に毒だからとハトに言い含め、玄関に向かおうとしたとき、古い家の玄関前でねこがこちらに熱い視線を送っているのに気がついた。
またどこからか私とハトのやり取りを見ていたのだ。
手に持った荷物を置きに家に入ると、ねこはすかさずついてきて、ずんずん家の中にはいってくる。
義父母の居間を一巡すると私を見てから外へ出る素振りをする。
ははん、ついて来いと言っているのだな。
「どうしたんだい」などと言いながらねこについていこうと玄関でサンダルを履いていると、ねこは大きな声で「にゃあ」と鳴く。
エサのある倉庫に向かう途中でも、ねこは立ち止まっては振り返りまた大きな声で「にゃあ」と鳴く。
ポッポは相変わらず庭を闊歩しているから、ねことしては自分のほうが人間をコントロールできるのだと、見せ付ける狙いもあるようだ。
私としては、ねこのこの様子がいじらしくて、ねこはポッポより格上である扱いを示さないではいられなかった。
なんともねこの嫉妬は可愛いものであることよ。