待ちわびた彼岸花が、お彼岸の中日から咲き始めた。
もう15年以上前に植えた球根たちは、黄色と白花がいつの間にか無くなって、丈夫な赤とクリーム色が元気に茎を伸ばして美しい花を咲かせてくれる。
別名「曼珠沙華」の意味は”天上の花”という意味で、お目出度い事が起こる兆しに、赤い花びらが天から降ってくるという仏教経典によると知った。
この呼び名は赤い彼岸花のイメージで、クリーム色は「リコリス」と呼ばれるのがふさわしい。
リコリスはギリシャ神話の美しい海の女神「Lycoris」からとったもだそうだ。
彼岸花や夏水仙などの総称のリコリスの花たちは私のお好み。
球根は毎年増えるが手入れをしないので、鉢に植えたものは球根で一杯になっている。
しかし地面の思わぬところから1本、別の木の下に1本、とあちこちに出ているのをみると、種が飛んで増えるのか?不思議でならない。
茂ったパイナップルセージの根元に置いてある不要になったプランターの脇から、3本の彼岸花が蕾をつけ、茎が曲がって出ているのを発見!
夏の間、全く葉が無いので自然発生の球根は何処にあるか分からず、其の上に土の入った重い鉢などおいてしまう。
昨年この辺から1本でていたので、先日探して見つからなかった苗が、3株に増えて無理やり土から顔を出した姿を見たときは、感動と後悔の一瞬。
これから毎日次々と花開く彼岸花!秋は刻こくと深まっていく。
もう15年以上前に植えた球根たちは、黄色と白花がいつの間にか無くなって、丈夫な赤とクリーム色が元気に茎を伸ばして美しい花を咲かせてくれる。
別名「曼珠沙華」の意味は”天上の花”という意味で、お目出度い事が起こる兆しに、赤い花びらが天から降ってくるという仏教経典によると知った。
この呼び名は赤い彼岸花のイメージで、クリーム色は「リコリス」と呼ばれるのがふさわしい。
リコリスはギリシャ神話の美しい海の女神「Lycoris」からとったもだそうだ。
彼岸花や夏水仙などの総称のリコリスの花たちは私のお好み。
球根は毎年増えるが手入れをしないので、鉢に植えたものは球根で一杯になっている。
しかし地面の思わぬところから1本、別の木の下に1本、とあちこちに出ているのをみると、種が飛んで増えるのか?不思議でならない。
茂ったパイナップルセージの根元に置いてある不要になったプランターの脇から、3本の彼岸花が蕾をつけ、茎が曲がって出ているのを発見!
夏の間、全く葉が無いので自然発生の球根は何処にあるか分からず、其の上に土の入った重い鉢などおいてしまう。
昨年この辺から1本でていたので、先日探して見つからなかった苗が、3株に増えて無理やり土から顔を出した姿を見たときは、感動と後悔の一瞬。
これから毎日次々と花開く彼岸花!秋は刻こくと深まっていく。
今日25日は、G.Pのクラブの役員会が銀座のN.Tであり、昨日整理して纏めた書類などを持って出かけた。愛犬家の会合はつつがなく終わり一安心。
時間があったので松坂屋に入り、21世紀の日本画壇の担い手として大いに嘱望されている俊英作家松村公嗣の展覧会を観ることができた。
1948年生まれで、愛知県立芸術大学の大学院時代に、片岡珠子画伯の指導を受け、1972年の院展で初入選してから、今年までの作品60点を紹介する素晴らしい展覧会だった。
広く海外を取材旅行をし、それぞれの大地に生きる人々、風景、自然、花鳥、動物、を描いた作品の前に立ち、私は胸が痛くなるほどの感動を覚えた。
今まで見ていた日本画の世界から、枠を超えた新しい何かが胸に迫る。
(私の中では、21世紀の天才!)
絵は好みがあり、画家の表現法、見て受け取る側の脳とハートで評価は違うが。
初期の頃の絵は片岡珠子の絵のように力強いタッチで描かれいる。
若い時代の作品の人物の大きな顔、がっちりした姿の人間は、手法は全く違うが、洋画の田中阿喜良の描く人物と、作者の心のそこを流れるものが似ているように感じた。
大地にしっかりと生きる人達の表現は素晴らしい。
顔の描き方を良く見たが、細かく描かず、余計な筆は入れず、その絵の表情からオーラというのか、エネルギーがこちらに強く伝わってくる。
1995年作「薫風」繊細で清澄な絵、少女の凛とした瞳、服の色と模様、全て素晴らしく、息を止めて見てしまった。
又、日本画の牡丹の花は、何人もの作家の美しい牡丹の花が目に浮かぶけれども、こんなに心惹かれた牡丹の絵は初めてだ。
凛として、しかもはかなげな花びら・・・
絵の具の下地の金箔がかもし出すしっとりとした輝き、又抑えた強さ、このような使い方ができるのはやはり天才か!と感心しきりの私。
私個人は1988年ごろから最近の絵が好きだと感じた。
犬好きの私は、1989年の「宙(そら)」がたまらなく気に入ってしまった。
犬と少年の表情!何て素晴らしい!
今日は感動を頂いた幸せな日だった。
時間があったので松坂屋に入り、21世紀の日本画壇の担い手として大いに嘱望されている俊英作家松村公嗣の展覧会を観ることができた。
1948年生まれで、愛知県立芸術大学の大学院時代に、片岡珠子画伯の指導を受け、1972年の院展で初入選してから、今年までの作品60点を紹介する素晴らしい展覧会だった。
広く海外を取材旅行をし、それぞれの大地に生きる人々、風景、自然、花鳥、動物、を描いた作品の前に立ち、私は胸が痛くなるほどの感動を覚えた。
今まで見ていた日本画の世界から、枠を超えた新しい何かが胸に迫る。
(私の中では、21世紀の天才!)
絵は好みがあり、画家の表現法、見て受け取る側の脳とハートで評価は違うが。
初期の頃の絵は片岡珠子の絵のように力強いタッチで描かれいる。
若い時代の作品の人物の大きな顔、がっちりした姿の人間は、手法は全く違うが、洋画の田中阿喜良の描く人物と、作者の心のそこを流れるものが似ているように感じた。
大地にしっかりと生きる人達の表現は素晴らしい。
顔の描き方を良く見たが、細かく描かず、余計な筆は入れず、その絵の表情からオーラというのか、エネルギーがこちらに強く伝わってくる。
1995年作「薫風」繊細で清澄な絵、少女の凛とした瞳、服の色と模様、全て素晴らしく、息を止めて見てしまった。
又、日本画の牡丹の花は、何人もの作家の美しい牡丹の花が目に浮かぶけれども、こんなに心惹かれた牡丹の絵は初めてだ。
凛として、しかもはかなげな花びら・・・
絵の具の下地の金箔がかもし出すしっとりとした輝き、又抑えた強さ、このような使い方ができるのはやはり天才か!と感心しきりの私。
私個人は1988年ごろから最近の絵が好きだと感じた。
犬好きの私は、1989年の「宙(そら)」がたまらなく気に入ってしまった。
犬と少年の表情!何て素晴らしい!
今日は感動を頂いた幸せな日だった。