大人ライトノベル
『私家版・父と暮らせば・3』
若い頃の父は、青年学校の同窓会などでは割を食っていた。
大人の宴会であるので、当然二次会がある。
その二次会に、父は二つの理由で参加できなかった。
一つは、ほとんど下戸であることで、それに加えて話し下手なので、行っても、アルコールの勢いで喋っている仲間のテンションには付いていけなかった。
わたしも父の体質を受け継ぎ、肝臓がアセトアルデヒドを分解する能力が低く、ほとんど下戸である。しかし学園闘争時代の最後尾にいるわたしは話に酩酊することは得意である。相手を酔わしては、その言語能力を奪い、話をひっくり返したり、お茶にしては喜んでいる。「並の酒飲みより始末が悪い」と言われる。
で、父である。一次会でサヨナラする父は料理や、お寿司の残り物を折に詰めてもらい家に持って帰った。
すこぶるつきの料理下手である母の料理に慣らされたわたしと姉は「世の中に、こんな美味い物があるのか」と感動した。
で、今度こそ父である。昔の男の宴会は、いろんな二次会があったが、陸軍組と海軍組に分かれるのが、標準であった。社宅の二軒隣のTさんなどは陸軍なのに、陸軍の航空母艦(正式には空母型の飛行機輸送船)に乗っておられて、陸軍では珍しい銀蠅(ぎんばえ=ちょろまかし=員数を揃えるとも言う)の話などしてくださった。
戦争の善し悪しは別にして、大正末年生まれの男に兵役というのは、独特の意味合いがある。徴兵制度のない今の日本では例えがむつかしい。
例えば、わたしは六十になろうというのに、野球が分からない。中学や高校のホームルームで、やることがなくなると、グランドや、近所の公園で野球やソフトボールをやったが、わたしは、ほとんど参加したことがない。サッカーはむろんのこと水泳、テニス、ゴルフ、等々やらないだけではなく、ルールも選手も分からない。だから、子供のころから、そういう話題には付いていけなかった。
ちょっと分かってもらえるだろうか。
大げさな物言いになるかもしれないが、兵役はイニシエーション(通過儀礼)であり、これを経ていない者は、どこかコミュニケーションする上でトッテの掴みようがないようなところがある。そんな印象の父であった。
現役のころは、ずっと職工であった父は器用な人で、戸棚や縁台はもちろんのこと茶箪笥、本箱、わたしの勉強部屋まで作ってしまった。特にうちの父だけが器用なのではなく、同世代の男達は、おしなべて器用であった。
だから、その息子である我々は、その点では遺伝子を受け継いでいる。欲しいモノがあると、買ってもらおうと思う前に「作れないだろうか?」と思った。
当時はゴミの不法投棄などは当たり前で、空き地があれば、なにかしら捨ててあったり落ちていたりした。
そういうところから、木っ端や金属材料を拾ってきてはいろんなものを作っていた。その時に、カナヅチやカンナ、ノコギリの使い方を学び、そう言う点、父は、わずかに偉かった。中学で技術家庭を習うころには、たいていの男子は、当たり前に工具が使えるものが多かった。
先日、エアコンの掃除をやろうとして、椅子に載り、クリーナーをかけようとしたところで、ひっくり返った。持病のメニエルが復活したようだが、その、ひっくり返ったところが父の骨箱の前であった。もう少しずれていたら、骨箱の祭壇の上に落下しているところで、そうなれば父も無事では済まなかっただろう。エアコンを、ある程度バラして掃除しようというのは、確実に父の遺伝子である。息子ならダスキンさんか何かを呼んで、さっさと何千円也を払って涼しい顔だろう。落ちる瞬間、父が「危ない!」と言ったような気がする。しかし、哀れ骨箱に入ってしまっては、助けることも出来ない「もうちょっと早よ言うてえな」と骨箱にグチった。
骨箱というと、こんなことがあった。葬儀会館から帰って祭壇を組み立て、骨箱を安置、お花などの飾りも、おさおさ怠りなく済まして、上の部屋で家族三人三日ぶりに安眠しようとしたところ、無人の下の部屋で人の気配がして、カミサン、息子が飛び起きた。
「な、なんやろ……!?」
驚愕の息子。
「あんた、ちょっと見てきてや」
警戒のカミサン。
「どうせ、親父やで」
わたしは、ごく自然に、そう思い階下に降りた。
『すまん。慣れん家で勝手が分からんよって』
父が骨箱の中でそう言った。見ると祭壇の湯飲みに水が入っていなかった。
「ごめん、て……ちゃんと入れたはずやのに?」
父が緊張すると、やたらに水や、お茶を飲んでいたことを思い出した……。
『私家版・父と暮らせば・3』
若い頃の父は、青年学校の同窓会などでは割を食っていた。
大人の宴会であるので、当然二次会がある。
その二次会に、父は二つの理由で参加できなかった。
一つは、ほとんど下戸であることで、それに加えて話し下手なので、行っても、アルコールの勢いで喋っている仲間のテンションには付いていけなかった。
わたしも父の体質を受け継ぎ、肝臓がアセトアルデヒドを分解する能力が低く、ほとんど下戸である。しかし学園闘争時代の最後尾にいるわたしは話に酩酊することは得意である。相手を酔わしては、その言語能力を奪い、話をひっくり返したり、お茶にしては喜んでいる。「並の酒飲みより始末が悪い」と言われる。
で、父である。一次会でサヨナラする父は料理や、お寿司の残り物を折に詰めてもらい家に持って帰った。
すこぶるつきの料理下手である母の料理に慣らされたわたしと姉は「世の中に、こんな美味い物があるのか」と感動した。
で、今度こそ父である。昔の男の宴会は、いろんな二次会があったが、陸軍組と海軍組に分かれるのが、標準であった。社宅の二軒隣のTさんなどは陸軍なのに、陸軍の航空母艦(正式には空母型の飛行機輸送船)に乗っておられて、陸軍では珍しい銀蠅(ぎんばえ=ちょろまかし=員数を揃えるとも言う)の話などしてくださった。
戦争の善し悪しは別にして、大正末年生まれの男に兵役というのは、独特の意味合いがある。徴兵制度のない今の日本では例えがむつかしい。
例えば、わたしは六十になろうというのに、野球が分からない。中学や高校のホームルームで、やることがなくなると、グランドや、近所の公園で野球やソフトボールをやったが、わたしは、ほとんど参加したことがない。サッカーはむろんのこと水泳、テニス、ゴルフ、等々やらないだけではなく、ルールも選手も分からない。だから、子供のころから、そういう話題には付いていけなかった。
ちょっと分かってもらえるだろうか。
大げさな物言いになるかもしれないが、兵役はイニシエーション(通過儀礼)であり、これを経ていない者は、どこかコミュニケーションする上でトッテの掴みようがないようなところがある。そんな印象の父であった。
現役のころは、ずっと職工であった父は器用な人で、戸棚や縁台はもちろんのこと茶箪笥、本箱、わたしの勉強部屋まで作ってしまった。特にうちの父だけが器用なのではなく、同世代の男達は、おしなべて器用であった。
だから、その息子である我々は、その点では遺伝子を受け継いでいる。欲しいモノがあると、買ってもらおうと思う前に「作れないだろうか?」と思った。
当時はゴミの不法投棄などは当たり前で、空き地があれば、なにかしら捨ててあったり落ちていたりした。
そういうところから、木っ端や金属材料を拾ってきてはいろんなものを作っていた。その時に、カナヅチやカンナ、ノコギリの使い方を学び、そう言う点、父は、わずかに偉かった。中学で技術家庭を習うころには、たいていの男子は、当たり前に工具が使えるものが多かった。
先日、エアコンの掃除をやろうとして、椅子に載り、クリーナーをかけようとしたところで、ひっくり返った。持病のメニエルが復活したようだが、その、ひっくり返ったところが父の骨箱の前であった。もう少しずれていたら、骨箱の祭壇の上に落下しているところで、そうなれば父も無事では済まなかっただろう。エアコンを、ある程度バラして掃除しようというのは、確実に父の遺伝子である。息子ならダスキンさんか何かを呼んで、さっさと何千円也を払って涼しい顔だろう。落ちる瞬間、父が「危ない!」と言ったような気がする。しかし、哀れ骨箱に入ってしまっては、助けることも出来ない「もうちょっと早よ言うてえな」と骨箱にグチった。
骨箱というと、こんなことがあった。葬儀会館から帰って祭壇を組み立て、骨箱を安置、お花などの飾りも、おさおさ怠りなく済まして、上の部屋で家族三人三日ぶりに安眠しようとしたところ、無人の下の部屋で人の気配がして、カミサン、息子が飛び起きた。
「な、なんやろ……!?」
驚愕の息子。
「あんた、ちょっと見てきてや」
警戒のカミサン。
「どうせ、親父やで」
わたしは、ごく自然に、そう思い階下に降りた。
『すまん。慣れん家で勝手が分からんよって』
父が骨箱の中でそう言った。見ると祭壇の湯飲みに水が入っていなかった。
「ごめん、て……ちゃんと入れたはずやのに?」
父が緊張すると、やたらに水や、お茶を飲んでいたことを思い出した……。