高校ライトノベル
『私家版・父と暮らせば・4』
早いもので、もう1年と5か月になる。で、明日が、いよいよ納骨。久々に線香を焚く。
家の機密性が高く、また電子機器が多いので、日常的に線香が焚けない。
もう、今日が最後の日になるので、父が生前、なにかの法要の記念にもらったのだろう、5ミリ幅ほどもある特製の線香を焚いている。予想はしていたが、燃えた線香は崩れもせずに『南無阿弥陀仏』の六字が浮かび上がってくる。
南無は、サンスクリット語の「ナーム」からきている。もとの意味は「もしもし」「おーい」と言うような呼びかけの言葉である。阿弥陀仏は、阿弥陀如来のことで、真言密教では、根本仏である大日如来の化身とされ、大日如来とは、ざっくり言って「宇宙」あるいは「宇宙の法則」のようなもので、本地垂迹(ほんちすいじゃく)の日本的なすがたでは天照大神と同じとされる。
要は南無阿弥陀仏とは「もーし、仏様」という呼びかけにすぎず、浄土教の中ではこの六字が全てである。
人は死ねば無になる。ゼロになると言ってもいい。この世の全てのものが、生まれ、いずれかは死んだり滅んだりしていく。この地球や太陽にさえ寿命がある。宇宙もビッグバン以来膨張し続け、いずれは縮んで無くなってしまうそうである。
ここまで書いて、線香が燃え尽きた。黒々とした線香は、その形のまま白くなり、茶色く南無阿弥陀仏の六字をうかびあがらせている。
浄土真宗では、死ぬと極楽にいくことになっている。極楽とは「無」の方便だと、わたしは思っている。無=0である。0とは不思議な存在で、「存在しないことを現す存在」 なんだか、訳が分からなくなってしまう。
で、この電子顕微鏡でさえ見えない0を、初等教育さえ受けていれば、実に簡単に「あるもの」として信じている。
話を変えてみる。X=1 Y=1をグラフに書けといわれれば、X軸から1、Y軸から1のところに点を打って「はいできました」と軽々と回答とする。だが、その点はエンピツであれ、ボールペンであれ、点は面積をもってしまっている。厳密な意味では正解とは言えない。正解である点は面積も体積も持ってはならないのであり、打った点は正解の偶像に過ぎない。
なんだか、理屈っぽい。
要は、ものは全て滅ぶのであって、ゼロになると言っていい。このゼロになる性質を仏性という。だから、この世の中のものには、全て仏性がある。と、生悟りしている。
昔、父に捨てられたと本気で思ったことがある。
ワルサをして「おまえなんか、うちの子とちゃう。出て行け!」と外に放り出されたときは捨てられたとは思わなかった。ただ父が怒っていると認識しただけである。
幼稚園に行くか行かないかのころの話である。父が、なんの前触れもなく、「阪急百貨店に行こう」と言いだし、幼い姉とわたしは、市電に乗せられた。
屋上のミニ遊園地で遊んだあと、お昼にしようということで、大食堂に行った。
「ほんなら、券買うてくるから、手えつないで待っとりや」
そう言って、父は人混みの中に消えていった。何分たったのだろう……子供心には一時間ほどにも感じられる時間が流れた。心なし姉も不安になってきたのか、握る手の力が強くなり、汗ばんできた。
そして、捨てられた……と、思った。
当時、そんなふうに子供を迷子にして、捨てることが時々あった。父は貧しい職工であり、25日の給料日は、いつも中身をちゃぶ台に広げては、父と母がため息をつき、時には激しく罵り合っているのも心に傷として残っていた。
もう、ほとんど泣き出しそうになったとき、姉が呟き始めた「大阪市旭区生江町……」と、住所をおまじないのように。姉もなにかしら覚悟しはじめたのであろう。
要領の悪い父は、容易に食券売り場にたどりつけず、やっと二時間(わたしの感覚で)の後、父は茹で蛸のようになって、三枚の食券を手に戻ってきた。
もう六十年近い昔の話である。話にも仏性があるようで、姉は、この時のことを覚えてはいない。姉にとっては、もうお浄土に行った話である。こういう話をいつまでも覚えているわたしは、往生際が悪いかも知れない。
「そんなことあったかなあ……?」
骨箱の父がぼやいた。明日の今頃は、お墓の中である。
『私家版・父と暮らせば・4』
早いもので、もう1年と5か月になる。で、明日が、いよいよ納骨。久々に線香を焚く。
家の機密性が高く、また電子機器が多いので、日常的に線香が焚けない。
もう、今日が最後の日になるので、父が生前、なにかの法要の記念にもらったのだろう、5ミリ幅ほどもある特製の線香を焚いている。予想はしていたが、燃えた線香は崩れもせずに『南無阿弥陀仏』の六字が浮かび上がってくる。
南無は、サンスクリット語の「ナーム」からきている。もとの意味は「もしもし」「おーい」と言うような呼びかけの言葉である。阿弥陀仏は、阿弥陀如来のことで、真言密教では、根本仏である大日如来の化身とされ、大日如来とは、ざっくり言って「宇宙」あるいは「宇宙の法則」のようなもので、本地垂迹(ほんちすいじゃく)の日本的なすがたでは天照大神と同じとされる。
要は南無阿弥陀仏とは「もーし、仏様」という呼びかけにすぎず、浄土教の中ではこの六字が全てである。
人は死ねば無になる。ゼロになると言ってもいい。この世の全てのものが、生まれ、いずれかは死んだり滅んだりしていく。この地球や太陽にさえ寿命がある。宇宙もビッグバン以来膨張し続け、いずれは縮んで無くなってしまうそうである。
ここまで書いて、線香が燃え尽きた。黒々とした線香は、その形のまま白くなり、茶色く南無阿弥陀仏の六字をうかびあがらせている。
浄土真宗では、死ぬと極楽にいくことになっている。極楽とは「無」の方便だと、わたしは思っている。無=0である。0とは不思議な存在で、「存在しないことを現す存在」 なんだか、訳が分からなくなってしまう。
で、この電子顕微鏡でさえ見えない0を、初等教育さえ受けていれば、実に簡単に「あるもの」として信じている。
話を変えてみる。X=1 Y=1をグラフに書けといわれれば、X軸から1、Y軸から1のところに点を打って「はいできました」と軽々と回答とする。だが、その点はエンピツであれ、ボールペンであれ、点は面積をもってしまっている。厳密な意味では正解とは言えない。正解である点は面積も体積も持ってはならないのであり、打った点は正解の偶像に過ぎない。
なんだか、理屈っぽい。
要は、ものは全て滅ぶのであって、ゼロになると言っていい。このゼロになる性質を仏性という。だから、この世の中のものには、全て仏性がある。と、生悟りしている。
昔、父に捨てられたと本気で思ったことがある。
ワルサをして「おまえなんか、うちの子とちゃう。出て行け!」と外に放り出されたときは捨てられたとは思わなかった。ただ父が怒っていると認識しただけである。
幼稚園に行くか行かないかのころの話である。父が、なんの前触れもなく、「阪急百貨店に行こう」と言いだし、幼い姉とわたしは、市電に乗せられた。
屋上のミニ遊園地で遊んだあと、お昼にしようということで、大食堂に行った。
「ほんなら、券買うてくるから、手えつないで待っとりや」
そう言って、父は人混みの中に消えていった。何分たったのだろう……子供心には一時間ほどにも感じられる時間が流れた。心なし姉も不安になってきたのか、握る手の力が強くなり、汗ばんできた。
そして、捨てられた……と、思った。
当時、そんなふうに子供を迷子にして、捨てることが時々あった。父は貧しい職工であり、25日の給料日は、いつも中身をちゃぶ台に広げては、父と母がため息をつき、時には激しく罵り合っているのも心に傷として残っていた。
もう、ほとんど泣き出しそうになったとき、姉が呟き始めた「大阪市旭区生江町……」と、住所をおまじないのように。姉もなにかしら覚悟しはじめたのであろう。
要領の悪い父は、容易に食券売り場にたどりつけず、やっと二時間(わたしの感覚で)の後、父は茹で蛸のようになって、三枚の食券を手に戻ってきた。
もう六十年近い昔の話である。話にも仏性があるようで、姉は、この時のことを覚えてはいない。姉にとっては、もうお浄土に行った話である。こういう話をいつまでも覚えているわたしは、往生際が悪いかも知れない。
「そんなことあったかなあ……?」
骨箱の父がぼやいた。明日の今頃は、お墓の中である。