勇者乙の天路歴程
016『川を遡る・2』
※:勇者レベル3・半歩踏み出した勇者
ギーコ ギー……ギーコ ギー……
三途の川は見通しがきかない。
長江並みの川幅であることに加えて、一面の霧だか靄のため数十メートルの見通ししかなく、まるで濃霧警報の海を行くようだ。
ギーコ ギー……ギーコ ギー……
「……あの時も、こんな感じだったなぁ」
ビクニが呟く。
「前にも来たことがあるのか?」
「あるさ。いま思い出したのは三途の川ではなくて江戸前の海だがな」
江戸前の海と言うからには、百年以上は昔のことか。
「吉田寅太郎が密航を企てた時のことだ」
「トラタロウ……ああ、吉田松陰のことか」
「弟子と二人でペリーの船に乗り込んで、アメリカへ連れていけと談判しにいったんだ。浦賀でペリーの黒船を見て、その瞬間『攘夷などは無理だ、まずは学ばなければ!』と切り替わった。おもしろい奴だ」
「結局は、ペリーに断られて戻って来るんだがな」
「あの時、舟がボロで、力任せに漕いだものだから艪杭が折れた」
「ハハハ、そうだったな、それで慌ててフンドシで括って間に合わせたんだ。この話はウケたなあ」
「そうか、授業の小話にも使ったんだな……しかし、中村、お前の読みは浅い」
「そうなのか?」
「ああ、フンドシなど使わなくても刀の下緒(さげお)を使えばいい。丈夫だし手っ取り早いからな。それをわざわざ袴の裾から手を突っ込んでフンドシを解いて使おうなんて、ちょっと変態だろ」
「いや、あれは荷物から着替え用のフンドシを出して……」
「いいや、思い立ったらスグの男だ、荷物の準備なんかしとらん」
ギーコ ギーコ……
「腰の刀など、目に入らなかったんだ……」
「刀とか、そういう武士的なものは眼中には無かったんだろ」
「アハハ、尊敬しすぎ。ただの変態……で悪ければおっちょこちょいだ」
ギーコ ギー……ギーコ ギー……
「……でも、なんで知ってるんだ。ビクニはタカムスビさんのところで引きこもっていたんだろ?」
「あのころは、まだ少しは外に出ていた」
「ビクニも乗っていたのか?」
「いいや、別の舟で着かず離れずにな。それにも、トラのやつは気が付かなかった……」
「トラ……(^_^;)」
親しみを籠めた愛称というのではない響きが感じられて、ちょっとたじろいでしまう。
「さあ、そろそろだ」
「黒船に乗り換えるのか?」
「そんな簡単なものではない……これを使え」
ビクニが取り出したものはスティック型の糊のようなモバイルバッテリーのようなものだ。
「なんだ、これは?」
「小型の酸素ボンベだ」
「ああ、007とかスパイ大作戦とかに出ていた! 忍者部隊月光とかでも使ってたかなあ!?」
「懐かしがってる場合じゃない、いくぞ!」
「おお!」
船べりで中腰になり、水に飛び込む姿勢をとった……。
☆彡 主な登場人物
- 中村 一郎 71歳の老教師 天路歴程の勇者
- 高御産巣日神 タカムスビノカミ いろいろやり残しのある神さま
- 八百比丘尼 タカムスビノカミに身を寄せている半妖
- 原田 光子 中村の教え子で、定年前の校長
- 末吉 大輔 二代目学食のオヤジ
- 静岡 あやね なんとか仮進級した女生徒