2010年1月19日(火)
日光街道の要衝として関所があった埼玉県東北部の町・栗橋は、源義経を慕
った静御前ゆかりの地でもある。旧日光街道や田園風景、利根川沿いなどに広
がる「くりはし八福神」巡りに出かけた。
JR宇都宮線と東武日光線が交差する、栗橋駅西口を9時53分にスタートした。
今日は、好天で温かくなるとの予報である。
改装された新しい駅とともに、駅西口周辺の道路も区画整理され、広い通りが
西に延びている。2つ目の角を左折して、まずは弁財天の迎盛院(こうじよういん)
へ。
弁財天は小さい屋根の下に祭られ、周囲を真っ赤なコイが泳いでいた。そばに
ヘビを形どった珍しい神様の石像もある。
南側の千勝神社境内を抜け、すぐ先のスーパー・マミーマートで昼食を購入する。
広い通りを南へ、4月から栗橋北彩高と変わる県立栗橋高そばの交差点を過ぎ
ると、松永の古くからの集落に入る。
松永神社の角を曲がり、東側の旧道に出て国道125号際へ。稲荷木落の流れ
に沿って、「カインズモール大利根」と呼ぶ、新しい大型集合店舗が出来ていた。
交通量の多い国道と並行する道を500mほど進み、佐間の集落で右に分かれ
る旧道に入る。再び国道が近づいたところに、吉祥天の宝聚寺(ほうじゆじ)が
あった。
山門の2階が鐘楼になっている鐘楼門は、慶安2年(1649)に北方の十王の地
から移築したものとか。
吉祥天は鐘楼門の傍らに立つている。墓地の一角には、江戸中期の西暦1700
年代の馬頭観音像が集められていた。
寺の前が高柳交差点、国道をまたぐ歩道橋で南に回る。田園地帯を進んで栗橋
西小の横を通過し、布袋尊の定福院(じようふくいん)に入った。
山門前や広い境内のあちこちに、五百羅漢像が並んでいる。専門の石工による
ものではなく、近所の檀家を始め、マスコミで紹介されて興味を持った人など、し
ろうとの方々が彫ったものらしい。
それぞれの思いが込められたユニークな石像が多く、現在は500体を超えて
いるという。
駐車場近くには四国霊場八十八か所の本尊を彫った石仏も並び、お砂踏み場
になっていた。
にこやかに笑う布袋尊は、本堂の前に鎮座している。ちなみに、「くりはし八福
神」は、平成12年に制定された「21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選」
に認定され、その認定石碑が各寺にあった。
佐間集落の東で、県道316号の呉服跨線橋に並行する跨線橋でJR宇都宮線
の線路を越える。
田園地帯を抜ける広い道を北東に進む。国道125号が再接近したところにある
栗橋町役場に入り、構内の一隅で昼食にした。
ここ栗橋町は、久喜市、菖蒲町、鷲宮町と合併して、3月23日に新しい久喜市
となる。庁舎には、そのことを記した横断幕が掲げられていた。
役場の先で東武日光線の踏切を渡り、国道のガード下を抜ける。五郎兵衛用水
沿いに進んで栗橋小の南側を右折する。
旧日光街道に出てすぐ先を右折、国道下をトンネルで抜けて、利根川の堤防際
にある大黒天の常薫寺(じようくんじ)に行く。
開山は約700年前、当地に小庵を建立して基礎を築いたとか。江戸時代には、
住人の池田鴨之助が徳川幕府の命を受け、ここを拠点に栗橋町の開発を行った
という。
大黒天は、石造りの堅牢な建物に納まっていた。
そばの利根川右岸堤防上に東屋(あずまや)が見えたので上がり、ゆったりした
利根の流れや、下流のJR宇都宮線の鉄橋↓、上流にかかる国道の利根川橋など
を眺める。
東屋の横には、水神社が祭られていた。
旧日光街道に戻り、すぐ北にある毘沙門天の顕正寺(けんしようじ)へ。
毘沙門天は国道の壁面下に、新しい馬頭観世音と並んで立っていた。
墓地には、後の栗橋宿となる上河辺新田を開発し、顕正寺を現在の古河市から
移したという池田鴨之助の墓がある。
旧日光街道を挟んで西側にあるのが、寿老人の浄信寺(じようしんじ)。ケヤキや
桜など境内は樹木が豊富である。
扇を持った寿老人は、山門を入って右手に立つ。
墓地には、2代将軍徳川秀忠が日光東照宮参拝の折、暴風雨で利根川を渡る
橋が危なくなったとき、命をかけて橋の安全を守ったという梅沢太郎右衛門の墓
がある。
旧日光街道を次の交差点で左折、その突き当たりが、恵比寿神の深広寺。山
門を入って右手に、大きなタイを背にした恵比寿神が立つている。
境内には、高さ約3m60㎝の六角の石塔に「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれ
た、「六角名号塔(ろっかくみょうごうとう)」と呼ぶ石塔が21基並んでいる。
建立は承応3年~明和3年(1654~66)といい、ほかでは見たことのない
石塔だった。
さらに旧日光街道を北に進み、栗橋駅入口交差点を左折する。次の通の角が、
最後となる福禄寿の福寿院(ふくじゆいん)。
福禄寿は、境内とは思えぬ門前の道路際の一隅にある。
寺の北側、緩やかにカーブする通りを西へ向かい、線路際を左折すると小さい
広場があり、「静御前の墓」が屋根の下に祭られていた。
義経を慕って京都から平泉に向かった静御前は、下総の国で義経討死の報を
耳にして悲しみに暮れ、京都へ戻ろうとしたが病気になり、文治5年(1189)9
月15日、この地で死去したと伝えられているという。
ゴールの栗橋駅東口はすぐそば。15時7分に着いた。
予報通り温かい日差しとなり、昼食後は上着を脱いで回ることができた。
なお、幹書房発行の「埼玉七福神めぐり」には、ご朱印の取扱期間は1月3日
~20日となっていたが、今年は15日で終わったとのことだった。
(天気 快晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 栗橋、歩行地 栗橋町、歩数
21,300)
日光街道の要衝として関所があった埼玉県東北部の町・栗橋は、源義経を慕
った静御前ゆかりの地でもある。旧日光街道や田園風景、利根川沿いなどに広
がる「くりはし八福神」巡りに出かけた。
JR宇都宮線と東武日光線が交差する、栗橋駅西口を9時53分にスタートした。
今日は、好天で温かくなるとの予報である。
改装された新しい駅とともに、駅西口周辺の道路も区画整理され、広い通りが
西に延びている。2つ目の角を左折して、まずは弁財天の迎盛院(こうじよういん)
へ。
弁財天は小さい屋根の下に祭られ、周囲を真っ赤なコイが泳いでいた。そばに
ヘビを形どった珍しい神様の石像もある。
南側の千勝神社境内を抜け、すぐ先のスーパー・マミーマートで昼食を購入する。
広い通りを南へ、4月から栗橋北彩高と変わる県立栗橋高そばの交差点を過ぎ
ると、松永の古くからの集落に入る。
松永神社の角を曲がり、東側の旧道に出て国道125号際へ。稲荷木落の流れ
に沿って、「カインズモール大利根」と呼ぶ、新しい大型集合店舗が出来ていた。
交通量の多い国道と並行する道を500mほど進み、佐間の集落で右に分かれ
る旧道に入る。再び国道が近づいたところに、吉祥天の宝聚寺(ほうじゆじ)が
あった。
山門の2階が鐘楼になっている鐘楼門は、慶安2年(1649)に北方の十王の地
から移築したものとか。
吉祥天は鐘楼門の傍らに立つている。墓地の一角には、江戸中期の西暦1700
年代の馬頭観音像が集められていた。
寺の前が高柳交差点、国道をまたぐ歩道橋で南に回る。田園地帯を進んで栗橋
西小の横を通過し、布袋尊の定福院(じようふくいん)に入った。
山門前や広い境内のあちこちに、五百羅漢像が並んでいる。専門の石工による
ものではなく、近所の檀家を始め、マスコミで紹介されて興味を持った人など、し
ろうとの方々が彫ったものらしい。
それぞれの思いが込められたユニークな石像が多く、現在は500体を超えて
いるという。
駐車場近くには四国霊場八十八か所の本尊を彫った石仏も並び、お砂踏み場
になっていた。
にこやかに笑う布袋尊は、本堂の前に鎮座している。ちなみに、「くりはし八福
神」は、平成12年に制定された「21世紀に残したい埼玉ふるさと自慢100選」
に認定され、その認定石碑が各寺にあった。
佐間集落の東で、県道316号の呉服跨線橋に並行する跨線橋でJR宇都宮線
の線路を越える。
田園地帯を抜ける広い道を北東に進む。国道125号が再接近したところにある
栗橋町役場に入り、構内の一隅で昼食にした。
ここ栗橋町は、久喜市、菖蒲町、鷲宮町と合併して、3月23日に新しい久喜市
となる。庁舎には、そのことを記した横断幕が掲げられていた。
役場の先で東武日光線の踏切を渡り、国道のガード下を抜ける。五郎兵衛用水
沿いに進んで栗橋小の南側を右折する。
旧日光街道に出てすぐ先を右折、国道下をトンネルで抜けて、利根川の堤防際
にある大黒天の常薫寺(じようくんじ)に行く。
開山は約700年前、当地に小庵を建立して基礎を築いたとか。江戸時代には、
住人の池田鴨之助が徳川幕府の命を受け、ここを拠点に栗橋町の開発を行った
という。
大黒天は、石造りの堅牢な建物に納まっていた。
そばの利根川右岸堤防上に東屋(あずまや)が見えたので上がり、ゆったりした
利根の流れや、下流のJR宇都宮線の鉄橋↓、上流にかかる国道の利根川橋など
を眺める。
東屋の横には、水神社が祭られていた。
旧日光街道に戻り、すぐ北にある毘沙門天の顕正寺(けんしようじ)へ。
毘沙門天は国道の壁面下に、新しい馬頭観世音と並んで立っていた。
墓地には、後の栗橋宿となる上河辺新田を開発し、顕正寺を現在の古河市から
移したという池田鴨之助の墓がある。
旧日光街道を挟んで西側にあるのが、寿老人の浄信寺(じようしんじ)。ケヤキや
桜など境内は樹木が豊富である。
扇を持った寿老人は、山門を入って右手に立つ。
墓地には、2代将軍徳川秀忠が日光東照宮参拝の折、暴風雨で利根川を渡る
橋が危なくなったとき、命をかけて橋の安全を守ったという梅沢太郎右衛門の墓
がある。
旧日光街道を次の交差点で左折、その突き当たりが、恵比寿神の深広寺。山
門を入って右手に、大きなタイを背にした恵比寿神が立つている。
境内には、高さ約3m60㎝の六角の石塔に「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれ
た、「六角名号塔(ろっかくみょうごうとう)」と呼ぶ石塔が21基並んでいる。
建立は承応3年~明和3年(1654~66)といい、ほかでは見たことのない
石塔だった。
さらに旧日光街道を北に進み、栗橋駅入口交差点を左折する。次の通の角が、
最後となる福禄寿の福寿院(ふくじゆいん)。
福禄寿は、境内とは思えぬ門前の道路際の一隅にある。
寺の北側、緩やかにカーブする通りを西へ向かい、線路際を左折すると小さい
広場があり、「静御前の墓」が屋根の下に祭られていた。
義経を慕って京都から平泉に向かった静御前は、下総の国で義経討死の報を
耳にして悲しみに暮れ、京都へ戻ろうとしたが病気になり、文治5年(1189)9
月15日、この地で死去したと伝えられているという。
ゴールの栗橋駅東口はすぐそば。15時7分に着いた。
予報通り温かい日差しとなり、昼食後は上着を脱いで回ることができた。
なお、幹書房発行の「埼玉七福神めぐり」には、ご朱印の取扱期間は1月3日
~20日となっていたが、今年は15日で終わったとのことだった。
(天気 快晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 栗橋、歩行地 栗橋町、歩数
21,300)