あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

四国遍路道ある記(後編)・香川その4

2006-12-22 21:45:42 | 初めての四国遍路
 
 第14日 2004年11月26日(金) 晴
 <76番金倉寺~80番国分寺>
 =丸亀・坂出を抜ける=
 
 5時15分起床、お参りのため御影堂に行き、6時にお堂に座っ
たら、南側の陸上自衛隊駐屯地の起床ラッパが聞こえてきた。

 参加者は昨日より少ないが、僧侶は管長以下9人と多い。管長
講話は、お四国巡礼の話。自らの体験を交え、「感謝の気持ちで
歩いてください」とのことを話された。終了後、今朝も戒壇巡りを
する。

 7時朝食。天気予報では前線が15時過ぎには四国にかかりそう
と告げていたが、朝は好天で昨日より暖かい。京都のIさんと7時
50分に善通寺宿坊を出る。

 街路樹のカエデが色づく市街地を東北に抜け、JR土讃線の東
側の田園地帯に出る。レタス畑などの間を北に向かい、善通寺
IC付近で高松自動車道の下を越え、76番金倉寺(こんぞうじ)に
入る。

 本堂左手に大師堂があり、その前は広い空間となっていてゆっ
たりした境内。本堂には、大きな数珠を回すと「カタカタ」音のす
る願供養念珠があった。鐘楼は柱が12本もある珍しい造りだ。


 日露戦争前の明治31年(1898)~34年に乃木希典がこの寺
で暮らしたが、静子夫人が来ても決して会おうとせず、夫人が
途方に暮れたという「乃木将軍妻返しの松」の2代目があった。

 西側から裏手に出て北へ、Iさんと中山道、塩の道、山の辺の道
など、旧道・古道歩きの話をしながら進む。多度津自動車学校の
そばで右折、さらに次を左折した突き当たりが77番道隆寺(どう
りゅうじ)。

 参道に沿って、四国・西国・秩父霊場の名を記した細身の観音
像が並んでいる。


 境内には、こんな札も下がっていた。


 ここで東京のTさんと入れ違い、宿坊を後発のUさん、Kさんと
一緒になる。お2人は道を間違えて2㎞も遠回りしたとか。以後
同道することにした。

 裏手に抜け県道21号を東に向かうと、丸亀港に林立するクレ
ーン群が左手に見える。かなり車の多い通りだが、道路脇には
スイセンや時季はずれのスミレが咲いていた。

 金倉川、前塩屋町の法然上人旧跡、西汐入川を過ぎて丸亀市
の中心街に入る。にぎやかな京極通りに、手打ちうどんの店「つづ
み」があったので入り、早めの昼食。腰の強いうどんがおいしく、
Iさんは宅配便を頼んだ。

 こぢんまりした丸亀城を右に見て幅広い土器川を渡る。右手
(南東)に讃岐富士が近づいてきたが、少し霞んでいる。

 橋の先で県道を避け、平行する南側の道を1㎞ほど進む。再び
県道33号に出て、県道194号の高架下を越えた地蔵堂の横から
右手のへんろ道へ。


 通りに、5円硬貨で作った龍や恵比寿様、トラなどを飾った民家
があった。ほどなく78番郷照寺(ごうしょうじ)である。

 境内の周囲や建物の間は白壁に囲まれ、明るい境内。大師堂は
厄除け大師で、お堂の横から地下に下りると、万躰観音堂と呼ぶ
高さ20㎝くらいの金色の観音像が数知れぬほど並び、一周できる
ようになっていた。

 鐘楼からは、宇多津の町並みの眺めがよい。


 さらに東に向かい、JR予讃線(珍しく複線)と瀬戸中央自動車道
を越え、「本街道」の表示のある坂出の狭い町並みに入った。ひさ
しの長い家が並ぶ古い家並みも残っている。


 長いアーケードに覆われた元町商店街と短いアーケードの京町
商店街を通って市街地を抜けた。再びJR予讃線の南に出て少し
行くと「八十場の水」がある。

 『「やそばの水はドンドン落ちる つるべでくんで ヤッコでかや
せ」と讃岐のわらべたちに唱われたこの泉は、どんな日照りでも
枯れることは無い』と記されていた。

 東屋があり、そばの斜面から豊富な湧水がとうとうと流れ出て
いる。手ですくって飲んでみたら、まろやかな味だった。

 そばにある創業200余年という名物・ところてん本舗のところ
てんを、先着のTさんが食べていた。おいしいというのでわれ
われ4人も賞味する。

 1㎞足らずで、境内が白峰宮と一体の79番高照院に着く。赤い
鳥居をくぐり白壁土蔵の間の変わった門をぐくって参拝。


 白峰宮には、神木になっている樹齢500年の大クスが立って
いる。

 JR予讃線沿いに北東へ、加茂川駅の手前で線路の西側に
回り、加茂川駅前で綾川右岸から左岸に移る。国道11号に入
って綾川に分かれ、次の80番の納経に間に合わせようと
ピッチをあげる。

 緩い坂を上って県道33号に入り、16時45分に80番国分寺
に着いた。

 老松が茂る広い境内、とりあえず手前にある大師堂の堂内
に入り、お参りして読経、中にある納経所で納経印を押して
もらう。堂内には売店もあり、遍路用品が所狭しと並んでいた。

 あい前後して着いたTさんは大師堂前のベンチにザックを置き、
本堂に読経に行っているうちに17時になり、大師堂の門を閉
められてしまった。時間とはいえ融通の利かない扱いにみな
憤慨する。

 17時6分、国分駅に着いたら、高松行き電車は1分前に出た
ところ。次の電車で高松へ。高徳線に乗り換え、栗林公園駅に
下車し、18時半近く、4人で東横イン高松に入った。

 ここでは思いがけず19時からカレーライスの無料サービスも
あるという。洗濯後、皆さんとロビーでカレーライスの夕食を済
ませ、少し足りない分を近くのコンビニで買ってきて自室で食べた。

〈コースタイム〉善通寺宿坊7:50ー76番金倉寺8:38~9:07ー77番
道隆寺10:00~33ー手打ちうどんつづみ(昼食)11:20~45ー78番
郷照寺12:33~13:15ー坂出駅前14:03ー八十場の水14:35~58ー
79番高照院15:03~24ー80番国分寺16:45~17:00ーJR国分駅
17:06~44=高松駅18:00~04=栗林公園北口駅18:10ー東横イン
高松18:20

(距離 27㎞、歩行地 善通寺市、丸亀市、坂出市、国分寺町、
 地図(1/5万) 丸亀、歩数 47,000)

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四国遍路道ある記(後編)・香川その3

2006-12-21 21:28:47 | 初めての四国遍路
 第13日 2004年11月25日(木) 晴 <75番善通寺>
 =休養日とし金刀比羅宮と満濃池へ=
 
 5時25分起床、6時からのお勤めは大師堂にあたる御影堂で。
外からの参拝者が見える内陣に座る。吹きさらしなので外気が
入り寒い。団体客を含め50人くらいの宿泊者が参加した。

 初めに管長から、「相手を認める心を持てば争いはなくなる」
とのお言葉があった。全員で読経後、管長ほか数人のお坊さん
揃っての声明(しょうみょう)が素晴らしいハーモニーで響き、心に
しみ入る。

 お勤めの後、真っ暗な地下に下り、「南無大師遍照金剛」を唱え
ながら左側の壁づたいに進む「戒壇巡り」をする。お大師様誕生
地の真下では、弘法大師直々のお声での語りかけをお聞きする。

 戒壇巡りを終えて朝食。連泊が可能になり、不要な荷物は部屋
に置き軽装で出る。まず京都のHさんと善通寺に参拝、読経を済
ませ、8時半に5人が集合する。

 全員で、善通寺本堂にあたる金堂内陣に入り、本尊・薬師如来
の周囲を回って拝観する。境内には五重塔もある。


 弘法大師生誕のころから繁茂していたという樹齢千数百年の
クスノキの大樹が2本立つていた。生命の尊さと偉大さを感じ
させる巨木である。


 西側の御影堂にも参拝してから、市の中心街をJR善通寺駅に
向かう。

 善通寺駅9時17分発琴平行きで隣の琴平駅へ。私が琴平に来
たのは昭和33年だったから、もう46年も前になり、その時のこと
はほとんど思い出せない。

 土産物店などが並び、門前町らしい雰囲気あふれる参道から
大門をくぐって金刀比羅宮境内に入る。


 583段ある階段の下の方にも土産物店が続く。足が不自由な
のか、駕篭で上がる人もいるが、あまり楽そうではない。

特別展を開催中の表書院や、国重文の豪壮な建物、旭社を過ぎ、
さらに上って御本宮に参拝する。

帰宅後、NHK総合TVで、数年に及ぶ御本宮解体修理の模様を
見て、大変な工事だったと知った。

 さらに林間を785段上がって朱塗りが鮮やかな奥の院、厳魂社に
詣でる。海抜421mの地に明治38年(1905)建立の檜皮葺の
社殿。そばの岩場に天狗と烏天狗の面が彫られていた。


 展望台からは眼下の家並みが一望できるが、讃岐富士は霞んで
いた。

 御本宮まで下り、南側の建物にも回る。同行した5人のメンバー。


 金毘羅さんは海の神様なので、船の絵を描いた安全航海祈願の
額がたくさん掲額された、吹き抜けの建物があった。

 参道まで下り、2軒並ぶさぬきうどん店のひとつに入り昼食。つゆ
が無く、しょうゆを適量かけて食べる。麺は腰が強くておいしいが、
やはりつゆが欲しかった。


 琴平駅に戻り、13時11分発の下りで次の塩入まで行く。地図を
持っていないので満濃池への道がよく分からないが、駅は無人で
聞く人もいない。駅前の案内板を見て見当をつけ左の方向に向かう。

 今日も暖か。車は少なく、粒の付いたひこばえが色づく田園地帯
の車道を進む、途中で道標もみつかり、満濃池の堰堤横に着いた。
広い水面に周囲の松や色づき始めた広葉樹などが静かに影を映す。

 満濃池は、弘仁12年(821)に弘法大師の指導でわずか3ヶ月に
して完成したと伝わる。その後、何回かの決壊と修復を繰り返し、
昭和34年(1959)に現在の規模になり、讃岐五市町の水田を潤し
ている。周囲約8.25㎞、面積約81ha、貯水量1540立方㍍で、
潅漑用ため池としては日本一だという。

 そばにある別格霊場17番神野寺に参拝、読経する。納経帳の
番外・別格頁に空きがなくなったので、ここで別格用を購入した。
境内のもみじが数本、逆光に鮮やかな色を見せてくれる。


 塩入駅に15時に戻ったが、次の上りは17時7分まで無い。タク
シーを呼んで善通寺正門前まで戻った。もう一度境内をめぐり、
16時過ぎ宿坊に入る。

 軽装で休養をとったので肩のこりも消えた。少しだけかいた汗
を温泉で流したが、洗濯は休みとした。思いがけぬ金比羅参りと
弘法大師ゆかりの満濃池に行くことが出来、これもよいお仲間の
お陰と、5人お互いが感謝しあった。

 今日もおいしく夕食をいただく。

〈コースタイム〉75番善通寺8:30ー境内参拝ー善通寺駅9:17=
琴平駅9:23ー金刀比羅宮ー奥の院10:45~11:07ー金刀比羅宮ー
琴平駅13:11(遅れ)=塩入駅13:25ー満濃池、別格17番神野寺
14:00~35ー塩入駅15:00~(タクシー)=善通寺正門前ー善通
寺一巡ー善通寺宿坊16時過ぎ

(距離 9㎞、歩行地 善通寺市、琴平町、満濃町、地図、丸亀、
 池田、歩数 28,400)
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四国遍路道ある記(後編)・香川その2

2006-12-20 21:10:04 | 初めての四国遍路
 3日間休みましたが、一昨年の四国遍路レポートを続けます。

 ==========================

 第12日 2004年11月24日(水) 晴
 <70番本山寺~75番善通寺>
 =お大師様誕生の地へ=
 
 5時50分起床、6時35分朝食。7時13分に若松屋別館を出て、
新琴弾橋の手前から財田川左岸堤防を東に向かう。対岸の道は
朝の出勤時で車が多いが、こちらは少なくて歩きやすい。


 北側の七宝山には日が差し込んできたが川沿いはまだ。今朝も
冷えて寒い。4つの橋を通過し、JR予讃線の下をくぐり、次の橋を
渡った突き当たりが、70番本山寺(もとやまじ)。門前に托鉢僧が
立っていた。

 広い境内には、国宝の本堂、四国では珍しいという五重塔など
がバランスよく配置されている。

 大師堂へは靴を脱いで上がり読経、お堂の背後に弘法大師修行
の岩屋があり、納経所も大師堂内。透かし彫りの重厚な木彫が
すばらしい。托鉢僧に100円托鉢して寺を出た。

 本山甲の町並みを抜け、国道11号に出ると車が多い。1㎞ほど
先で右側に旧道があったので入った。1㎞ほどの間で車は1台も
通らず、「四国のみち」にもなっており、こちらを通るのが正解だ。

 国道に戻り、間もなく西側の池の横に下り、1.5㎞ほど加茂の
町並みを進む。京都の女性もすぐ後に見えた。

 JR高瀬駅前通りの先で国道に出て、コンビニ、ポプラで昼食を
調達する。

 西側の県道221号に戻ると、すぐ先に京都の女性がいたので
追いつく。今日もうららかな小春日和、田園や古い民家の間の
気持ちよいへんろ道である。大屋敷集落を過ぎると上り道となり、
大門を過ぎて傾斜が強まる。

 弥谷山の山腹にある71番弥谷寺(いやだにじ)は、山門を入っ
て桜や杉、モミジなどの間を縫って、530段の石段を上がって
行く。予想外の上りで汗が出る。

 山門から最上部の本堂まで13分かかった。本堂からは南方の
眺めがよい。途中まで下りて大師堂に参拝する。

 山門の下に俳句茶屋という古い茶店がある。ショウガ湯のお
接待を受けたので草餅も食べる。名前の通り、茶屋の障子には
たくさんの句が墨書されていた。

 茶屋の少し先から南東へのへんろ道に入る。広葉樹林から竹
林へトラバース、さらに混交林を下って小さい池のほとりに出た。
南側に回って木の下にシートを広げて昼食にする。

 後からの善通寺宿坊での夕食時、誰かに、『あそこには「まむし
注意」の表示があったよ』と聞いたが、その時は気づかなかった。

 高松自動車道をくぐり、側道を少しで大池ともう一つの池の間を
進む。国道11号に出て東へ。県道48号に入り、三井之江バス
停横のへんろ道を進んで、72番曼陀羅寺に着いた。

 山門を入ったところに、昔の本堂に上がっていたという大きな
鬼瓦がある。本堂の前には、西行大師が昼寝したと伝えられる
昼寝石があるが、気づく人は少なそう。境内の桜が色づいている。


 ミカン畑の横を南に上がれば73番出釈迦寺(しゅっしゃかじ)
は近い。そう広くない境内に本堂と大師堂が並ぶ。

 納経所にザックを預け、奥の院に上がることにした。民宿岡田
で同宿だった京都の若人も、上がってきたとのことで行き違う。

 新しい奉燈石が並び、アジサイや丁石の間の簡易舗装の急坂
を上がる。弘法大師お加持水・柳の水があったので飲み、さらに
急坂を進むと出釈迦寺禅桜と呼ぶ、ここだけの八重の山桜が
あった。

 次第に広がる讃岐平野の展望を振り返りつつ上がる。西行法師
腰掛石を過ぎ、本堂の横から30分あまりで奥の院、拾身ヶ嶽禅定
(しゃしんがたけぜんじょう)に着いた。

 我排師山(481m)の鞍部にあり、讃岐平野や南側の山並みの
展望が絶景。

 弘法大師はここで、虚空蔵菩薩のご真言を百万回唱える求聞
持法を修めたという。

 200m奥には、弘法大師が7歳の時に我が身の価値を問い
かけて身を投げたが、天女に抱き留められたという断崖の行場
があるようだが、上り口が分からず行けなかった。20分あまり
で納経所まで戻り出釈迦寺を出る。

 曼陀羅寺の横を通り東へ。弘階池の北を回る。風もなく穏や
かな一日が暮れようとしており、自分の影が長く前方に伸びて
きた。

 甲山(87m)の東に回り、川沿いの74番甲山寺(こうやまじ)
に入る。山門の両側に白壁土蔵が続いている。境内はあまり
広くなくそぼくな寺だ。


 納経を終えたら、60番横峰寺で一緒になった東京のTさんが
着き、ミカンを2つもらう。

 先に出て南方に進み、16時40分、弘法大師誕生の地、75番
善通寺に着いた。

 道を挟んだ東西に老松が目につく広い境内。参拝は明日にして、
ちょうど到着した京都の若人、Hさんと宿坊に入る。今日の宿は
善通寺宿坊である。

 建物は大きく、部屋も8畳ある。温泉の大浴場で汗を流し、4台
ずつある無料の洗濯機、乾燥機を使わせてもらう。廊下やトイレ
は、人が近づくと照明がつくという省エネ設備になっている。

 民宿岡田に同宿した7人中の6人がまた揃った。京都のHさん
のほか、愛知のUさん、広島のHさん、東京のKさん、京都のIさん、
それに私である。

 17時半からの夕食をおいしくいただいた後も、19時近くまで話
がはずみ、広島のHさん以外の5人が、もう1泊して金比羅さんと
満濃池に行こうということになり、明朝、連泊をお願いすることに
した。暖房もよく利き、ふとんもきれいでよい宿坊である。

〈コースタイム〉若松屋別館7:13ー70番本山寺8:12~39ー高津
神社9:46ーコンビニ・ポプラ10:20~26ー71番弥谷寺11:16~12:02
ー俳句茶屋12:02~15ー高松自動車道北の池(昼食)12:31~50ー
72番曼陀羅寺13:22~ー73番出釈迦寺13:53~14:08ー奥の院拾
身ヶ嶽禅定14:40~55ー出釈迦寺戻り15:17~22ー74番甲山寺
15:58~16:18ー75番善通寺16:40ー善通寺宿坊16:45

(距離 28㎞、歩行地 観音寺市、豊中町、三野町、善通寺市、
 地図(1/5万) 観音寺、仁尾、丸亀、歩数 47,900)
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東久留米七福神めぐり

2006-12-19 22:05:18 | 江戸・東京を歩く
 七福神めぐりのコースをもう一つ紹介します。東京都東久留米市
の東久留米七福神です。昨年正月に歩いたものです。

 ============================

 2005年1月10日〈月〉 東久留米七福神めぐり

 東久留米七福神は、巡るお寺は5寺だけだが、雑木林や竹林、
わき水、黒目川と落合川の清流など、武蔵野の自然とのふれ合い
も楽しめるコースになっている。

 西武池袋線東久留米駅東口に下車、東北に向かって一直線に
伸びた通りを進む。通りの街路樹はケヤキとハナミズキである。

 2つ目の信号機の先、左手が大黒天の浄牧院(じょうぼくいん)。
白木が新しい山門には、精巧な龍などの彫刻が施されている。

 本堂も再建されて新しいが、文安元年(1444)の創建といわれ、
かつては近郷に10か寺の末寺があったという禅寺である。

 境内には、市天然記念物の太いカヤの木がある。目通り3.5m、
高さ18m、樹齢は400年というが見事な樹勢、ケヤキやイチョウ
の大木もある。


 本堂前には仏足石があり、山門のそばには十二支を彫り込んだ
かわいい地蔵さんが並んでいた。

 通りを先に進んで黒目川の神山大橋を渡る。きれいな流れにコイ
がたくさん泳いでいた。

 次の三差路を左折、コンビニ・ローソンのある三差路を東に向かう
と、北側の台地下に弁財天の宝泉(ほうせん)寺がある。

 本堂の前に大きな桜が枝を広げ、庫裡(くり)の前にある柿の実を
ついばむ鳥の声がにぎやか。


 山門前にある、6面体の石幢(せきどう)に地蔵菩薩が刻まれた石幢
六地蔵や、3人の童子がすがりつく地蔵菩薩は、江戸時代の信仰の
様子を伝える貴重な文化財である。

 もとの道を戻り、往路で曲がった三差路の先へ、左カーブの手前で
南へ入ると、黒目川の昭和橋に出る。橋を渡らず、左岸の川沿いに
ツツジの植え込みのある遊歩道に入る。流れにはカルガモの家族が
見える。

 落合川との合流点まで進み、黒目橋を渡って落合川左岸に入り、
すぐ先の下谷橋で右岸へ回る。流れ沿いの遊歩道は、「黒目川落合
川ジョギング・ウオーキングコース」になっていて、ウオーキングや
ジョギングする人たちが多い。

 この流れもきれいで、カルガモやコイがたくさんいる。新落合橋で
再び左岸へ、コサギが2羽、水草の上に立っていた。対岸の不動橋
広場を眺めながら進み、西武池袋線の橋脚下をくぐり、老松橋まで
行く。

 南東約300mに竹林公園があるというので寄ってみる。昔ながら
のカーブの道を少し上り、道標に従って屋敷林の間を東に入ると、
もうそう竹の竹林がある。

 昔は市内の農家にはどこにもあったものだが、近年の開発で残り
少なくなったという。

 3600㎡の竹林には遊歩道があり一周できる。がけ下に回ると、
農家のそばからきれいなわき水が流れ出ており、カルガモが10数
羽体を休めていた。

 落合川に戻り先に進む。川幅が広くなった辺りでカモに餌を与え
ている人がいて、そばに何10羽ものカモやハトが群がる。


 昨秋たくさん実った柿が、そのまま残っている。近くの川沿いでは、
ボケが咲き始めていた。


 毘沙門橋の北、信号のそばを東に戻ったところに毘沙門天の
多聞寺(たもんじ)があった。本堂は近代的なコンクリート造り、武蔵
野三十三観音第5番札所である。


 嘉永5年(1852)建立の山門は、村のケヤキを落合川に流して
江戸に運び、彫刻を施して戻し、近くの大工が造営したものという。
道路際には、弘化2年(1845)造立の庚申塔が立っていた。

 毘沙門橋を渡り、南南西500mほどにある南沢緑地保全地域にも
回ってみる。落合川沿いを少し先、氷川神社の南から支流のせせ
らぎを聞きながら進むと、その水源になっているのが南沢緑地。

 武蔵野の面影を残すクヌギ、コナラ、シラカシ、ヤマザクラなどの
斜面林が残り、がけ下4か所から豊富な湧水が流れ出ている。

 湧水量は1日約1万㌧あり、東京の名湧水57選にも選定され、
一部は水道の水源として利用されているという。この地にこれだけ
豊富な湧水があるとは知らなかった。

 毘沙門橋に戻る前に氷川神社に参拝して行く。石段を上がると
社殿の前に茅の輪(ちのわ)が設けてあり、この日は新年祈祷を
受ける人々が何組か来ていた。


 毘沙門橋を渡り、信号の一つ北のT字路を西に向かう。東久留米
駅西口からの通りに、東久留米市立中央図書館があった。

 さらに進んでT字路を北に入り、すぐ左折して住宅地を抜け、都道
234号に出る。

 西側にある信号の先を北に、参道を進めば布袋尊の米津寺(べい
しんじ)。久喜藩主や長瀞藩主だった米津(よねきつ)家の菩提寺と
して、万治元年(1658)に創建された寺である。

 コンクリート造りの本堂、正面に安置された小さな布袋尊の横に、
一輪の花が添えられていた。


 墓地には、多摩地区でただ一つという大名家墓地で都指定史跡、
米津家の墓地があり、六角塔身型の墓石や石灯籠などが並んでいた。

 東側の通りに出て北に向かう。久留米高校の先で黒目川の落馬橋
を渡って、左岸を東に進む。2つ目の中橋の通りを北に入ると、三差
路に石橋供養塔が立ち、その前に3つの石が埋め込まれていた。

 力石と呼ばれるもので、かつてこの辺の若者たちの力比べに使わ
れた石とか。一番大きいのは45貫(約190㎏)と刻まれ、これを
持ち上げることが一人前の基準になっていたようだ。

 少し車が多いがそのまま東に進む。曲橋からの三差路のすぐ先
に最後の大圓寺(だいえんじ)がある。

 平安初期の天安2年(858)開山という古寺。残る恵比寿尊、福禄
寿尊、寿老尊の三尊が山門に安置されている。

 境内は広く、りっぱな鐘楼や新しい護摩堂などが目につく。桜、松、
イチョウ、ケヤキ、サザンカなど樹木も多い。本堂前の松の下に、
上野の寛永寺から贈られたという約250年前の灯ろうがあった。

 延享3年(1746)造立の馬頭観音、延宝8年(1680)造立の庚申
塔、弘化年間(1844~)作と推定される穀櫃(こくびつ)(下の写真)
などの文化財も残っている。


 帰路は、黒目川の新大橋を渡ってさらに東に向かう。西武池袋線
の踏切を越えて右折、線路沿いに進んで、東久留米駅北口に戻った。

(参考タイム)東久留米駅10:40ー浄牧院10:46~11:00ー宝泉寺11:10
~20ー老松橋11:53ー竹林公園12:00~05ー老松橋12:10ー多聞寺
12:25~31ー南沢緑地保全地域12:37~45ー南沢氷川神社12:50~54
ー米津寺13:24~39ー大圓寺13:58~14:15ー東久留米駅14:24

(天気 快晴、距離 9km、地図 志木、吉祥寺、歩行地 東京都
 東久留米市)


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武蔵越生七福神めぐり

2006-12-18 21:44:16 | ウオーキング
 ここ数日暖かだった天気から冬型となり、今日は冷たい北風が
吹きました。年末まで2週間となり、正月の初もうでや、七福神めぐ
りなどを計画されている方もおられるかと思います。

 そこで今日は首都圏の方向けに、七福神巡りのご案内です。場所
は、埼玉県西部、梅林で知られる越生町(おごせまち)の、武蔵越生
七福神めぐりです。

 なお、このコースについては、15日から首都圏を中心に発売され
ている『新ハイキング』誌07年1月号にも紹介してあります。
     
 同誌にはほかに、習志野七福神、板橋七福神、八王子八福神、
湘南七福神なども紹介されています。あわせてご覧下さい。

 ==============================
 2006年1月8日(日) 武蔵越生七福神めぐり

 武蔵越生七福神は、越生梅林と越辺川(おっぺがわ)沿いの山里を
たどるので、ハイキング気分で歩くことができる。

 今回は東武鉄道主催の東武健康ハイキング会に参加し、東武鉄道・
JR八高線の越生駅からスタートしたが、駅前からのバスで黒山まで
行き、逆コースを歩けば、帰りのバスの便を心配しなくてもよい。

 越生駅前を西に、県道30号を渡ってすぐ、恵比寿天の法恩寺が
ある。正徳4年(1714)再建の山門と鐘楼が歴史を感じさせ、本堂
には精巧な彫刻が施されている。


 北側に出て西に向かい、越生神社の横を上がり、大黒天の正法寺
(しょうぼうじ)へ。鎌倉の長寺の末寺で、代々建長寺の高僧の隠居寺
だったという。


 役場の横に下って北に進み、県道の歩道橋を渡り、越辺川を越え
る。成瀬集落から県道30号に出て、県道バイパス合流点の手前を
左へ。弘法山(こうぼうやま)(164㍍)に向かって上がると、桜とツツジ
とスイセンに覆われた斜面に出る。

 弘法山観世音は、弘法大師の作と伝えられ、安産子育ての観音様
として親しまれている。弁財天は本堂とは別のお堂に祭られている。


 西側の車道に下り、奥武蔵の山や成瀬の集落を眺めながら西に
進む。越生は梅の里、古木の梅畑が増えてきた。

 弘法山から約1㎞、「越生梅林」の標識を左へ。橋のそばの家に
「田代三喜(たしろさんき)生地」碑が立つ。三喜は寛正6年(1465)
生まれ。明国で医学を学び、古河公方・足利氏の主治医となり、庶民
の病苦を救い、「医聖」と仰がれた。

 そばの木に、赤い実がたくさんついていた。何の実だろうか。


 越辺川の支流を渡り、梅林の中心地へ。周辺には枝を広げた古木
が多い。その一角に福禄寿の最勝寺(さいしょうじ)がある。

 寺は建久4年(1193)に源頼朝の命で創建といわれ、山を背にした
日当たりの良い境内にも、梅の古木が多い。


 梅林の間を南に向かい、浄水センターの横を通過し、県道61号へ。
自然休養村センター直売所の横を進み、寿老人の円通寺に上がる。

 創建は寛文年間(1661~)と伝えられ、狭い境内だが、サルスベリ
の古木が目についた。

 参拝後、自然休養村センターの直売所に寄る。越生町特産の梅や
ユズ、一里飴、地場野菜などを販売していた。

 麦原入口バス停のそばから天満橋を渡って、越辺川支流沿いの
「あじさい街道」へ。送電線下であじさい街道に分かれ、左の谷間に
入る。小寺の先は杉林の中の上り道となる。

 ユズの多い戸神を抜け、針葉樹林に入って舗装が終わる。風は
冷たいが、上り坂が続くので汗ばんできた。

 峠を過ぎ、木の間越しに家並みを見下ろし、龍ヶ谷川沿いに下る。
左岸を少し入ると、毘沙門天の龍穏寺(りゅうおんじ)。杉木立の境内、
精巧な彫刻の仁王門から、石段を上がって本堂に参拝する。

 龍穏寺は、永享の頃(1429~)に将軍足利義政が創立、文明4年
(1472)に太田道真、道灌父子により再建されたという。本堂左手の
斜面上には、その太田父子の墓があった。


 龍ヶ谷大橋を渡って右岸を少し、掲示板の先を右手の砂利道に上が
り、針葉樹林を東から北へとトラバースする。

 簡易舗装の道を下り、ユズの多い梅久保へ。浄水場横を過ぎ、越辺
川沿いに進み、北ヶ谷戸橋でバス道に出た。

 最後の寺、布袋尊の全洞院(ぜんとういん)は、上流に200mほど。
橋を渡ってお堂に参拝する。寺は無住で境内は狭い。「納経は龍穏寺
で」との張り紙があった。


 墓地の上部に、渋沢平九郎の墓がある。平九郎は深谷市の出身、
慶応4年(1868)の飯能戦争の際、官軍の総攻撃で破れた振武軍
の副将である。


 帰路は近くの黒山バス停から。待ち時間があるならバス道を進み、
途中の停留所から越生駅に向かうとよい。

 朱印の押印は、各寺300円、朱印帳は法恩寺にて300円で販売
していた。

<コースタイム>
越生駅ー3分ー報恩寺ー10分ー正法寺30分ー弘法山ー30分ー最勝
寺ー20分ー円通寺ー50分ー龍穏寺ー30分ー全洞院ー2分ー黒山
バス停=バス30分=越生駅

(天気 快晴、距離 13km、地図(1/2.5万) 越生、歩行地 埼玉県
 越生町)

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カタツムリ歩行・JR武蔵野線新座駅

2006-12-17 21:26:15 | カタツムリ歩行
 四国遍路から帰ってすぐ、風邪に押されて市外には出かけていな
かったのですが、ほぼ回復したので10日ぶりに出かけました。

 行き先は、JR武蔵野線沿線を歩いている「カタムリ歩行」の第160
回例会です。歩き始めて15年、今年の最終回です。

 集合地は、JR武蔵野線新座(にいざ)駅。埼玉県新座市です。駅前
に大きな水車が回っていました。そばのモミジも見ごろです。


 駅の南側、国道254号(川越街道)を歩道橋で越えたところに、新座
野火止郵便局がありました。建物は郵便局らしからぬ塗色です。


 野火止小学校の西側を入ると、クヌギ林が残っていました。野火止
小学校の児童が育てているシイタケが、りっぱに育っています。


 林の中は落ち葉がいっぱい。渋い彩りですが、クヌギのの紅葉が、
武蔵野の面影を感じさせてくれます。


 レンガ造りの建物もある、十文字学園女子大前を北西に進みます。
大学構内のコブシの芽はもう、かなり大きくふくらんでいました。
 
 近くの稲荷神社に行ってみました。小さい社の前に、住民の手作り
と思われるほっそりとした狐さんが並んでいます。


 境内に「恵山玄忠二百年記念碑」など、恵山という人ゆかりの石碑
が幾つか建っています。恵山という人はこの地の有力者だったようで、
十文字学園前の通りは、「恵山通り」と呼ばれています。

 マユミに似た実がありましたが、葉が違うようです。何の実でしょうか。


 ニンジン畑や枯れたウド畑の横を進んで、新座変電所の正門前から
真っ直ぐに伸びる道を南東に進むと、野火止用水沿いに出ます。

 野火止用水は、江戸の水道の水源となった玉川上水から分流した
流れで、およそ350年前、この地の新田開発をした人々の飲料水
確保のため、川越城主・松平伊豆守信綱が命じて造られたものです。


 用水沿いのモミジが数本、見ごろでした。

 
 用水の南側一帯は、関東地方でも名高い古寺、平林寺(へいりんじ)
の広大な平地林が広がっています。

 平林寺は最初、永和元年(1375)に現在のさいたま市岩槻区に建て
られ、天正18年(1590)には徳川家康も鷹狩りの時、戦火で焼け残っ
た塔頭(たっちゅう)で休み、再興を約束し、天正20年に再興されました。

 その後、寛文3年(1663)、川越城主松平伊豆守信綱の子、輝綱に
よりこの地、野火止に移されたとのことです。

 平林寺北側の農家の広い庭先にも、大きな水車が回っていました。


 ゴールの予定時刻12時が迫ったので、変電所に向かう道を戻り、
ゴールの若宮八幡宮に定刻少し過ぎて着きました。


 社殿の周囲で昼食をした後、事務局の土井さんから、年間10回の
完歩者3名に「観歩証」が授与され、たくさん用意された賞品のなか
から、各々が希望の賞品を選んでいただきました。

 以下、参加回数に応じた観歩証と賞品を全員がいただきました。
 ちなみに、私の今年の参加回数は5回(通算17回)でした。

 午後は解散となり、まだ平林寺を訪ねたことのない人は、平林寺
参観に回り、私は、JR武蔵野線と埼京線で大宮に向かいました。

 目的は、武蔵一の宮・氷川神社近くの、カフェギャラリーで開催中
の、Hさん(さいたま市岩槻在住)の水彩画展の鑑賞です。

 Hさんは、埼玉のカントリーウオークグループのもとのメンバーで、
以前から水彩画を描かれており、個展の案内をいただいたからです。

 風景、静物、女性画など、幅広い対照を描かれた水彩の優しい彩り
の作品を鑑賞し、Hさんの最近の多彩なご活動の様子や、ウオーク
グループメンバーの近況報告などを、交歓し合いました。


 帰途、氷川神社にも参拝し、今年1年元気に歩けたことに感謝し、
来年も健康で歩けるよう祈念して来ました。


 
 



 
 


 


 

 

 

 

 

  
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四国遍路道ある記(後編)・愛媛その16/香川その1

2006-12-16 17:20:23 | 初めての四国遍路
 第11日 2004年11月23日(火) 快晴
 <66番雲辺寺~69番観音寺>
 =四国霊場の最高地へ上がり香川県へ=
 
 5時30分起床、おむすび2つのお接待をいただき7時8分に
民宿岡田を出る。親父さんが、見えなくなるまで見送ってくれた。


 濃いガスで視界は100mくらい。いよいよ四国霊場の最高地、
標高910mへの上りである。親父さんの話では、660m㍍まで
上れば、あとは車道だとのこと。徳島自動車道の下を抜け、山道
に入る。

 広葉樹の落ち葉道は直線的な急登が続くので、ゆっくりと上がる。
後発した同宿者に抜かれ、後方を追うようになる。木の間越しに
雲の上に出たのが分かり、日が差し込んできた。

 送電線の下を走る車道に出ると、南側の山並みに雲海が長く
たなびき、素晴らしい眺め。いつの間にか一緒になった同宿の
4人で感嘆しながら見る。


 以後しばらく一緒に車道をゆっくり上がる。途中2度ほど車道沿い
のへんろ道も通過、4人は少しずつ分かれ、下から2時間ほどで
66番雲辺寺に着いた。

 杉木立の並ぶ広い境内は、山上の聖地という雰囲気。高度もある
のでひんやりとした冷気(霊気?)を感じる。大師堂への道には石の
奉燈碑が並んでいる。次へ進むへんろ道では、五百羅漢がいろんな
表情で見送ってくれていた。


 2つ並ぶマイクロ波のアンテナ塔の下を過ぎると下り道となる。下り
は、雲辺寺ロープウェイ横から萩原寺への道もあるのだが、稜線を
さらに進んで新池、岩鍋池経由の道を選んだ。

 稜線上の歩きやすいへんろ道には県境の標識もなく、知らずの
うちに徳島県池田町から香川県観音寺市に入った。

 他の人はどんどん先に下ってしまい、同宿の京都の女性とゆっくり
と下る。樹林が切れて北側の展望が開けたところにベンチがあった
ので休む。1時間半ほどでミカン畑のそばの車道に下った。

 この辺りの田んぼに、大きなタマネギが土をかぶせずに植えてある。
作業中の家族が居たので聞いたら、京都の大手種苗業のタキイと
契約し、タマネギの種を取るために植え、収穫は来年7月とのこと。

 あちこちで放置した休耕田が目につく中、休耕田を活用した新し
い収益源として感心した。

 民宿青空の先で、京都の人は電話するというので先行する。番外
霊場白藤大師堂を通過、ひこばえの色づく田んぼを見下ろしながら
進む。今日もポカポカ暖かく、のどかな里歩き日和である。

 奥谷辺りには丁石がよく残されており、花を供えたり屋根をかけ
たりしていて、地元の人々の厚い信仰がうかがえる。


 水のない岩鍋池まで下ると前方の展望が開け、観音寺市街の東に
そびえる七宝山が島のように霞んで見える。大原自治会館前には、
元治元年(1864)銘の大きな常夜灯や石仏が並んでいた。

 12時15分、白木の山門に古い仁王と大わらじの納まった67番
大興寺に入る。山門の奥、石段下に樹齢1200年という大カヤと
大ケヤキが立つている。同宿だった男女3人が出入りし、後から
京都の女性も着いた。

 納経後、ベンチで昼食。また京都の女性だけとなり、一緒に出る。
一ノ谷池の南まで田んぼの間を進み、原町の住宅地に上がって
西に向かう。

 池之尻町の心光院に集会所のような建物があったので、ぬれ縁
で休憩させてもらった。

 高松自動車道の近くに、大多喜という手打ちうどんの店があっ
た。おむすび2つの昼食ではやや不足気味なので入ろうかと思っ
たが、この先、観音寺の納経に遅れてはと思い通過した。

 自動車道の北には、大小のケーブルドラムを並べてテーブルと
いす代わりにした「お遍路さん休憩所」が2か所あった。京都の人
はスーパー・マルショーに寄るというので先行する。

 観音寺市の中心街が近づく。JR予讃線を越えたところに元首相、
大平正芳記念館があった。市街に入りT字路を左折、すぐ先の
若松屋別館に15時半近くに着いた。

 荷物を預けて68、69番を打つことにする。おかみさんから、「公園
の展望台に上がって銭形も見てきたら」と、地図をもらう。


 財田川の新琴弾橋を渡り、琴弾八幡宮の東を進んで、68番神恵院、
69番観音寺へ。同じ境内に2つの霊場があるのはここだけである。


 神恵院の本堂は四角いコンクリート造りの新しい建物(上の写真)。
観音寺の大師堂前には太いクスノキがあり、大きく枝を広げていた。


 後方に上がり自動車道を回って、赤松の多い琴弾公園の最上部に
ある展望台に行く。


 眼下の有明浜に、寛永通宝を砂で形どった大きな銭形が見下ろせる。

 寛永10年(1633)、丸亀藩主歓迎のため一夜にして作ったと伝え
られ、「この銭形を見た人は、健康で長生きできてお金に不自由しな
くなる」といわれているとか。長生きはともかく、あとはそうあって欲しい。

 大きさは東西122m、南北90mの楕円形のようだが、展望台から
は丸く見える。

 ちょうど夕日がその左手に落ちようとしており、海面が金色に輝く。
自動車道をぐるりと回って琴弾八幡宮前に下り、橋を渡ろうとした
とき、太陽が沈んだ。


 16時57分、若松屋別館に戻り、古いががっちりした建物の3階の
間に荷を下ろす。前夜同宿の愛知の男性と京都の女性も一緒。無料
の洗濯機を借り洗濯をする。

 入浴が遅れ、18時からの夕食が、18時半過ぎとなり、食堂に行っ
たら4人の宿泊者はすでに食べ終えていた。感じの良いおかみさん
で、夕食もおいしかった。

〈コースタイム〉民宿岡田7:08ー稜線の車道へ8:19~21ーへんろ道入口
の三差路8:47ー66番雲辺寺9:03~35ー下り道のベンチ10:30~40ー
ミカン畑の車道へ11:02ー番外白藤大師堂11:30ー67番大興寺(昼食)
12:25~13:17ー大通寺14:15~22ー高松自動車道下14:35ー若松屋別館
15:26~30ー68番神恵院・69番観音寺15:40~16:23ー琴弾公園ー若松屋
別館16:57 

(距離 25㎞、歩行地 池田町、香川県観音寺市、地図(1/5万) 伊予
 三島、 観音寺、歩数 47,900)
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四国遍路道ある記(後編)・愛媛その15

2006-12-15 18:40:47 | 初めての四国遍路
 第10日 2004年11月22日(月) 晴 <65番三角寺>
 =別格霊場・椿堂から徳島県へ=
 
 5時45分起床、6時20分朝食、7時7分に旅館つるやを出る。
 
 伊予三島駅の南に回り、国道11号バイパスにあるコンビニ・サー
クルKで昼食を買う。サークルKは何度目だろうか、同じメニュー
であきるが他にないので仕方ない。


 中曽根町からへんろ道に入る。松山自動車道の南に出て側道
を東へ、発電管理所の横で側道を離れた。

 水力発電所の先にあった戸川疎水記念公園で小休止。桜の下
に、遍路を供養した「文化の大乗妙典一石一字塔」や光明真言
二百万扁を記念した道しるべなどがある。


 車道を離れ簡易舗装の急坂を上がって行くと、背後に三島の
市街地が一望。製紙工場の煙突からまっすぐな煙が上がる。

 かなりの急坂が続くので折り畳み杖を出す。

 今朝、不要な荷物を宅配便で自宅に送り返したので、肩の負担
はいつもより軽く感じる。車道に出たら台風被害の崩落地があり、
車は通行止めになっていた。

 ほどなく65番三角寺。樹木の多い山の中腹にあり、落ち着いた
たたずまい。

 山門に下がる鐘を突いてから参拝、しかし、20数人の団体が
本堂、大師堂の参拝場所を占拠?し、ローソクや線香をあげる
のもはばかられ、待つ。

 あとから引率者が「待たせて済みません」と別のご夫婦に謝って
いたが、その気があるなら、他の参詣者の参拝できるスペースを
空けておくマナーが欲しい。

 境内に桜の古木があり、モミジの紅葉がよい彩り。若い寒桜も
咲いていた。女性、男性の歩き遍路もおり、前後して参拝、読経
する。

 下りの車道に入り、涼しい杉木立の間を抜けると、再び三島の
町並みと瀬戸内海の展望が広がる。


 平山集落の入口に、旅籠屋「島屋跡」の説明板、すぐ近くには
「土佐街道」の石碑と、へんろ道の標石、石仏などが並んでいた。

 下からの車道に合した下山田に、「ゆらぎ休憩所」という遍路休憩
所があったので休む。

 今夜同宿という女性遍路が先着していて先に出た。先方はるかに、
明日上がる雲辺寺の山並みが見えるが、あれを上るのはかなり
手強そうだ。


 稲を干すはさ掛けの並ぶ棚田の横を進む。横川の集会所のよう
な建物に、「万人幸福の栞十七か条」というのが掲げてあった。

 高知自動車道の法皇トンネル北側をくぐって古下田へ。この辺り
も棚田のひこばえが、収穫前のような黄金色の彩りを見せていた。
 
 のどかな里道。ポカポカとちょうどよい陽気が気持ちよい。

 別格14番霊場椿堂こと浄福寺に正午に着いた。弘法大師がこの
庵を訪れ、手にした杖をさして祈ったところ流行の熱病が去り、杖
から椿の芽が出て成長し、椿堂と呼ぶようになったという。

 先行の女性遍路がベンチで食事中。納経後、私も昼食をした。
途中で知り合ったらしい若い男性と中年男性の歩き遍路も来て先
に出る。いずれも今日同宿とのこと。

 国道192号に下り、車が高速で行き交う道を進む。歩道はある
のだが右、左と入れ代わりわずらわしい。ムクロジの実が黄色く
色づき始め、白い山茶花の咲く民家が多い。国道は金生川沿いに
進む。

 次第に上り道となり、両側の山並みは黄色系の色づきが始まっ
ている。七里バス停から南側のへんろ道に入った。

 細い車道の杉林を進むと、数戸だけの泉中集落に「峠口0.1㎞」
の表示がある。上がってみたら小さい祠があった。ここが愛媛・
徳島県境の境目峠らしい。東側は徳島県池田町である。

 一車線の車道を下って行くと、「中津山道」の古い石標が立つ。
境目トンネルを出た国道192号に下り、佐野の大宗谷バス停の
そばから左に入る。

 佐野小の先にあった今日の宿、民宿岡田に15時前に着いた。
宿のおやじさんに「早くて済みません」と言ったら、「もうみんな
着いていて、あんたが最後だよ」と言われた。

 申込みが遅かったのか部屋は裏手の三畳の間。でも、寝るには
十分なスペースだ。風呂も洗濯も一番最後になった。

 18時過ぎからの夕食には、いずれも初めてのひとり歩きの遍路、
男5人、女2人が集う。75歳と言うが、ご飯のお代わりを察して
サッと来てくれる身の軽い親父(岡田明)さんを中心に、この先の
宿や道筋の情報、おいしい讃岐うどんのことなど、賑やかな食卓。

 それぞれが持っている情報も出し合い、へんろ地図上に良い宿、
?の宿にマークしたりして、食事を挟んで一時間以上も話がはずみ、
大変楽しい夕食の席だった。

 男性は、犬山市の明治村で案内しているという人、同じ愛知県
の人、ひげをつけた広島の人、京都市内の31歳の若人、そして私、
女性は東京と京都の人である。

 部屋の壁には、宿泊した人たちからの写真がたくさん貼ってある。
その中に津軽三味線奏者・月岡祐紀子さんのものもあった。月岡
さんは、初めて泊まったときに、おかみさんから洗濯の仕方が悪い
と叱られたが、翌年来たらおかみさんは亡くなったと聞き泣いたと、
親父さんは話してくれた。

 結願後、日を改めてお礼参りしたいと考えていた高野山町石道
の地図があったので、1枚もらう。枚方市の大野さんが作成し、
置いて行かれたものである。

〈コースタイム〉旅館つるや7:07ースーパー・サークルK7:39~42
ー戸川疎水公園8:15~21ー65番三角寺9:25~10:00ー堀切峠へ
の三差路10:37ーゆらぎ休憩所10:58~11:20ー常福寺・椿堂(昼食)
12:01~56ー境目峠14:15ー民宿岡田14:57

(距離 20㎞、歩行地 四国中央市、徳島県池田町、地図 伊予
 三島、歩数 38,400)
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四国遍路道ある記(後編)・愛媛その14

2006-12-14 21:27:58 | 初めての四国遍路
 第9日 2004年11月21日(日) 快晴後晴
 =古くからの街道をたどる=
 
 5時50分起床、6時10分部屋で朝食。宿帳の記入もなく、「早朝
は不在なので通用口から出て下さい」と昨日言われていたので、
キイをカウンターに置いて7時4分に西条グランドホテルを出る。

 国道11号を1㎞足らずでY字路を右へ、長屋敷集落に入る。
電源開発の変電所の先で室川を渡った。新しい大師堂のところに
六地蔵が並び、「六地蔵の接待跡」の標識が立っていたが、その
由緒は書いてなかった。

 国道11号に戻ると、上下各2車線で歩道も広くなっていたが、
それも伊予西条IC付近だけ、渦井川の橋の手前で上下1車線に
なった。間もなく新居浜市入り、喜来のY字路の「旧街道」の表示
に従い国道の南側に平行する旧道へ。

 岸の下集落で、前方から車で来た奥様からミカンを2つお接待
いただいた。萩生に入ると、街道の南側にあるお寺の塔の壁面に
目が描かれた変わった建物が見える。


 東川の手前に、「お遍路さん御休み所萩生庵」があった。民家
のガレージを接待所にしたもの。休ませてもらい用意してあった
ポットのお茶をいただき、置いたあったノートに記帳する。

 ノートによればこの庵は、高橋さんご夫妻が最近始められたもの。
写真を撮って出ようとしたら、奥様が出てこられた。

 気品あるお顔だちの方、お話ししたかったが、お出かけのため
呼んだタクシーが来ていたので、写真を撮らせてもらい失礼した。

 少し先の中萩小で、地区文化祭が始まろうとしており、周辺の
人たちが続々と集まってくる。さらに進んだ上部乳児保育園の
一角には、「旧国鉄第4代総裁十河信二出生地」の碑が立って
いた。


 宮原町のスーパーバリューで、トイレを借り昼食を買う。いつもの
コンビニ弁当と違う品があった。その先の喜光地商店街は、この
程度の町並みとしては珍しいアーケードになっており、中間の広場
で野菜などの青空市を開いていた。

 山下さんに寄るよう勧められた遍路用品の泰峰堂を探したら、
国領大橋の手前を南に入ったところにあった。しかし日曜日なの
で休業のため入れなかった。

 国領の町中で奥様から、「ジュースでも買って」と200円のお接待
をいただいた。客谷大橋北交差点の先からは、車の交通量が減っ
てひと安心。雲が次第に増え、風がちょっと冷たくなった。


 池田で声をかけてきた奥様は、息子さんが、わが所沢市の南、
東村山市に住み、大卒後、自転車で四国遍路をしたら良い会社
に就職できたと喜んでいた。

 この辺りは、きれいに仕立てた松が何本かある立派な家が多い。

 少しずつ上りとなり、新居浜ゴルフ場の横から松山自動車道の
側道に上がった。振り返ると新居浜市街の展望がよい。


 この先も、過日の台風被害による土石流の爪跡が何か所か見
られた。

 側道を1.5㎞ほどで下りとなる。捨て犬らしい3匹の子犬がつい
てきた。困ったな思ったが、300mほどであきらめてくれた。

 泉集落には、コンクリート製の水おけが何か所か見られ、きれ
いな水があふれ出ている。地名どおり、どこからかわき出る泉の
水を配水しているのだろうか。


 関川小の校門が開いていて、そばに石のベンチといすがあった
ので、無断で入り昼食をさせてもらう。横の桜は90年を越えている
と記され、見事な枝振りだ。

 歩き出して間もなく、自販機で飲物を買っていた男性の横を通
ったら、「何か飲物を買ったら」と、120円のお接待。今日は3人
もの方からお接待をいただいた。



 木の川集落にも土石流の跡が残っており、新居浜市周辺の災害
が大きかったことがうかがえる。

 国道11号とJR予讃線の北に回る。浦山川の常盤橋からは、
南側に重畳たる山並みが望まれ、一番奥が石鎚山かと思われた。


 再びJR線路と国道との間に入る。間もなく別格12番霊場延命
寺があったので参拝、読経する。新しい大師堂の堂内を反対側に
回ると、売店と納経所になっていた。

 延命寺はイザリ松千枚通本坊と呼ばれ、弘法大師ご巡錫の際、
1人の病難者が松のほとりにいたのをあわれみ、千枚通し霊符
を創設され一枚を授けたところ霊験により全快したという。


 道路の東にあったイザリ松と呼ぶ巨木は枯れ、太い根と幹の
一部が屋根をかけて保存されていた。

 近くの山内病院には、「俳人小林一茶宿泊 島屋跡」の石標が
立っていた。小林集落の民家の間から濃紺の瀬戸内海が見え、
小林東まで進むと、さらに展望が広がる。

 国道11号の南に出て、村山神社に寄る。延喜式内社で祭神は
斉明天皇と天智天皇とのこと。

 桜の葉の色づく境内に、旧土居町記念物の「村山神社のホルト」と
いう常緑樹の古木があるが、台風被害で幹の途中から折れていた。


 今日から四国中央市の市議選が始まったようで、選挙カーのスピ
ーカーがあちこちで聞こえる。この旧道にも山本○○候補の車が
入り、南側の通りとの間を行き来して4、5回抜かれる。あまりにも
音量が高いので3回目に抜かれたとき耳を押さえたら、次の時は
私の前後だけ声を止めて通過した。

 大地川の先の長田辺りも、きれいに仕立てた松を庭に植えた
平屋の民家が多い。天王集落に入ると、伊予三島の中心街や大王
製紙の煙突が見えてきた。かなり疲労がつのり足取りが遅くなる。

 正之森には、「森之翠」という銘酒の造り酒屋があった。伊予
三島駅前通りの旅館つるやに17時3分に着く。洗濯をして入浴する。

 日曜日のため板前さんが休みで食事はない。近くの中華料理店
で、ささやかな夕食をした。

〈コースタイム〉西条グランドホテル7:04ー西条IC入口7:52ー新居浜
市入り8:00ー萩生庵8:44~57ースーパー・バリュー9:28~35ー国領
大橋10:09ー新居浜ゴルフ場横11:02~17ー関川小(昼食)12:21~49
ー木ノ川の火の見13:11ー別格霊場12番延命寺13:37~14:00ー村山
神社14:46~58ー豊岡橋15:31ー大町集会所上15:42ー西浜16:00~05
ー寒川小16:19ー下具定の火の見16:39ー旅館つるや17:03

(距離 33㎞、歩行地 西条市、新居浜市、四国中央市、地図 
 西条、新居浜、伊予三島、歩数 58,000)
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四国遍路道ある記(後編)・愛媛その13

2006-12-13 21:28:23 | 初めての四国遍路
 第8日 2004年11月20日(土) 快晴後晴
 <60番横峰寺、64番前神寺>
 =はるか石鎚山を拝す=
 
 6時10分起床、6時30分朝食。昨夜の夕食時、宿のご主人がデジ
カメで撮ってくれた写真に、メッセージを添えて引き伸ばしたのをもら
う。よい記念になり感謝。

 Iさんにご挨拶して7時10分に出る。Iさんは愛犬も一緒だった。

 昼頃には戻れるというのでザックは預ける。弁当も持たず山谷袋に
飲物を入れ、あとは地図ケースとウエストポーチだけの軽装で、標高
差約550mを往復できるのはありがたい。

 旅館の前の道を上の原集落に上がると、市天然記念物「上の原の
うすきもくせい」の表示があり、高さ10m以上の大きなモクセイが2本
立っていた。集落を過ぎ、黒瀬湖を左眼下に見下ろしながら少しずつ
上がる。


 ヘヤピンカーブの先から緩やかに下って行くと、台風の土石流で壊
された工場のような建物が無惨な姿をさらしていた。


 沢筋へ下り、左の鳶寄方面からの車道に合し、沢沿いに進む。この
辺りも杉の倒木や土砂のたい積が多く、台風渦が生々しい。


 有料道路の料金所を通過、最初の3段ヘヤピンカーブを上がる。
傾斜がそうきつくないのと、ザックがないので上り道も辛くない。車道
の崩壊箇所が残っていて、ブルドーザーが土砂をならしていたので、
挨拶して通らせてもらう。

 両側の展望が開け、小松町の町並みの向こうに燧灘が霞んで見え
る。2つ目、2段のヘヤピンカーブを過ぎ、3つ目のカーブ際、右側に
61番香園寺奥の院道へのへんろ標識があった。

 3つ目は、2段ほどヘヤピンを上がり、駐車場への分岐の先を下っ
て行くと、60番横峰寺が見えた。寺は標高745mの山の斜面にある。

 最初のお堂で、若い男性遍路が読経をしていた。境内も台風被害
の復興工事中である。


 大師堂と本堂はその先。鐘楼で鐘を打ってから本堂に参拝、読経
し、大師堂に戻る。納経所の奥様に、「天気がよいから石鎚山が見
えるかも知れないので、奥の院の星ノ峰にも回ったら」と言われ、
行ってみることにした。

 先着の若い男性遍路は、61番からのへんろ道を上がってきたとの
こと。思ったほどひどく荒れてはおらず、そう歩きにくいことはなかっ
たという。一緒に500mほど先の星ノ森に行く。

 杉木立の下に小さい祠があり読経。開けた南面に鉄製の小さい
鳥居があり、その向こうに四国の最高峰・石鎚山(1982m)が荒々
しい山容を逆光にさらしていた。

 若い男性は東京・目黒区のTさん(30)。10月3日から野宿中心の
歩き遍路をしているが、冬用の寝袋でないので野宿は寒いとのこと。

 近く再就職するが正社員にはならず、お金が貯まったらチベットに
行き、五体投地で知られた聖地の山を巡りたいという。

 すでに何回かインドを旅行し、昨年は屋久島の宮之浦岳に登り、
縄文杉も見てきてとか。東京・高尾山で滝行もしており、将来は屋久
島に住みたいという自然志向の頼もしい若人。石鎚山にもいずれ
登りたいという。

 彼といろいろ話したので、結局、横峰寺には1時間以上滞在した。
一緒にもとの道に戻り、再会を期待して香園寺奥の院道の下り口で
分かれた。

 往路を戻り、京屋別館で昼食をしてザックを受取り、12時43分に
出る。さらに松山自動車道まで昨日の道を下って坂元へ。


 ミカン畑を過ぎ、キク、フウセンカズラなどが咲く民家の間から
田んぼ道に出て、東に向かう。

 海側の集落や、田んぼを見下ろしながら進む。

 橘小の北の十字路に阿弥陀堂があり、西条市天然記念物、「阿弥
陀堂のふじ」が大きく枝を広げていた。

 JR石鎚山駅からの通りに立つ朱塗りの大鳥居を見ながら進むと、
右手に石鎚神社の標石があった。参拝することにして桜の参道を
上がる。りっぱな山門の奥に、大きな石に彫られた頌徳碑が幾つ
も並んでいた。


 石段を上がって本殿に参拝。高台なので、東北の西条市中心部
から北側にかけてのの展望がよい。

 祖霊殿の奥、山の斜面から神水がほこらに流れ落ちており、ペッ
トボトルに汲んで行く人もいる。境内のモミジが色づき始めていた。

 ほどなく64番前神寺。本堂は大師堂から石段を上がった奥。

 広い境内には樹木が多い。山門の前に、石鎚神社のと似たこま犬
があり、両者がもとは一体であったことがうかがえる。

 今日のお参りはここまで。さらに国道11号の南側に平行する
古くからの住宅地を東に向かう。温泉のある湯ヶ谷と奥の内集落
の間、右手斜面に、台風による大崩壊あとが残っていた。

 本堂西側の急斜面に墓地が並ぶ法明寺下を通過する。東原から
日明へと比較的新しい住宅地を抜けたら行き過ぎ、加茂川沿いの
国道194号を少し戻って加茂川橋で国道11号に出る。


 夕暮れが近くなり車の交通量が多い。天皇という貴い?地を抜け、
福武の西条グランドホテルに16時38分に着いた。

 名前から想像すると、大都市では私には泊まれそうにない立派な
名のホテル。前日おそるおそる料金を聞いたら素泊まり3500円と
聞いて安心して予約した宿だ。

 着いてみたら、3階建てのそぼくなビジネスホテル。入ると小さな
手芸品やアクセサリーなどが所狭しと並び、店番の若い女性が友人
の女性と話し込んでいる。その間を抜けて3階の部屋に入った。

 食堂はないので、近くのスーパーへ夕食、朝食の調達に行く。洗濯
機もないので洗濯も休んだ。

〈コースタイム〉温泉旅館京屋別館7:10ー蔦寄への三差路7:44ー料金
所7:52ー最初のヘヤピンカーブ下8:10~13ー香園寺奥の院下山口
8:50ー60番横峰寺9:06~ー奥の院星ノ峰10:00~20ー香園寺奥の院
下山口10:43ー料金所11:29ー温泉旅館京屋別館(昼食)12:07~43ー
松山自動車道下13:17ー阿弥陀寺13:50ー石鎚神社14:06~37ー64番
前神寺14:42~15:10ー西条グランドホテル16:38

(距離 30㎞、歩行地 小松町、西条市、地図 西条、歩数 50,000)
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