あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

田辺市内を半日足らず回る(和歌山)

2008-12-19 23:06:33 | ウオーキング
 昨夜は、東京・水道橋の日本ユースホステル協会で開催された
第2回ワンデルに出席しました。

 「ワンデル」とは、「青少年国際野外旅行研究会」のことで、昨日
は2つのテーマの発表がありました。

 ①「日本海と太平洋をつなぐ国際ウオーキングトレイル実踏中間
報告」と、②「外国人のための四国遍路ハイライト」です。

 ②は私の担当だったので、その資料づくりなどに追われ、この2
日間、ブログ投稿の時間が取れませんでした。

 今日の話題は、10月25~31日の熊野古道中辺路歩きを終え
た翌日、田辺市内を半日足らず回ったときの模様です。

===========================

 2008年11月1日(土)



 熊野古道中辺路の歩きを前日終えた。宿泊したアルティエホテル
紀伊田辺からの田辺市内の眺め。


 ホテルで朝食後、昨日のレポート整理をする。荷物を預けて9時半
過ぎホテルを出て、2時間余り田辺市内を回ることにした。

 まず東に向かい、森に囲まれた闘鶏(とうけい)神社へ。七五三詣り
の家族が社殿の前で記念撮影をしていた。

 闘鶏神社は熊野権現(熊野本宮大社)を祭り、別名新熊野権現とも
呼ばれる。熊野三山の別宮的な地位にあり、本宮への中辺路は険し
い山道なので、この宮に参詣して熊野三山参詣に代えたとか。

 平安時代末期、弁慶の父と伝えられる熊野別当湛増が、源氏と平
家のいずれに付くかで、紅白の鶏を闘わせ、白鶏が勝ったので源氏
に味方したという故事から、闘鶏神社の名がつけられたという。

 境内には義経と弁慶の銅像があり、新しい建物の中には、武蔵坊
弁慶産湯の釜や、義経が奉納した横笛などが展示されていた。


 境内西側には、樹齢1200年、樹高14m、根本周囲11mという
ご神木の大楠が枝を広げている。

 和歌山生まれの歴史小説家、神坂次郎氏は、土木技師だった昭
和30年(1955)当時、仕事で田辺をしばしば訪れ、汽車の時間待
ちでこのご神木の根本に腰を下ろし休息したとか。そんな中から、
熊野大権現を舞台にした小説「鬼打ち猿丸」の構想が浮かび、文学
賞を得たゆかりの地のようだ。

 本殿裏のうっそうとした仮庵山(かりおやま)と呼ぶ神山は、明治中
ごろ巨大なクスノキが切り倒され、これ以上の伐採を中止させようと、
南方熊楠(みなかたくまぐす)が厳しく批判し抗議したという。

 もとの道を戻ってさらに西へ、田辺郵便局で不要荷物をゆうパック
で自宅あて発送後、近くの南方熊楠顕彰館に入った。

 南方熊楠は和歌山市生まれ、19歳で渡米し、動植物の調査研究
に没頭、25歳で渡英、科学雑誌「ネイチャー」に論文が掲載され、大
英博物館の嘱託職員に迎えられた。

 33歳で帰国し、37歳から没するまで25年間田辺に住み、植物学
や博物学・民俗学をはじめあらゆる分野の研究生活を送り、新種の変
形菌(粘菌)を発見するなど、世界的業績を上げた人。

 館内には、ロンドン抜書、田辺抜書、日記、備忘録、書簡、雑誌、採
集用具などが展示されている。これは日記のレプリカ。



 南側には、亡くなるまで25年間住んだ南方熊楠の旧居が公開され
ていて、当時の面影を偲ぶ部屋が外から間近に眺められる。

 旧居の縁側で、声をかけてくれた受付の女性と、熊楠や熊野古道
のことなどをしばらく話す。


 庭には、熊楠が植えた豊富な樹木が残っていて、市内中心街でも
ほかには無い緑の一角だという。


 田辺郵便局の先を右折して、第一中に沿って北に向かう。小さい
建物の八雲神社前に、弁慶腰掛けの石があった。


 銀座通りに出て、電線を地中化してすっきりした通りを東へ進む。


 拡幅工事中の手前で北に回って、蟻通神社に入る。

 名の由来は、外国の使者からホラ貝に1本の糸を通す問題を出さ
れ、それをひとりの若い神様が蜜と蟻を使って複雑な貝の穴を通して、
外国の使者に、「日本の国は神国だ」と恐れ感服されたということに
よるものらしい。

 狭い境内の真ん中に、霊樟(れいしよう)と呼ぶご神木のクスノキの
大木が立つ。

 安政元年(1854)の冬、大地震で火災が西の町から火災が起こ
り、この地区に燃え移らんとしたが、このクスノキの幹や枝から白水
が噴出し、同時に風の向きが逆転して災厄をくい止め、当時から厚
く崇敬されているという。

 そろそろ時間となったので、宿に戻って預けた荷を受け取り、JR
紀勢本線の紀伊田辺駅に行く。

 12時18分発電車に乗り、御坊、和歌山乗り換えで、明日の高野
山詣での玄関口に近い橋本に向かった。


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関東百駅巡礼歩行(50)(那古船形駅)(千葉・館山)

2008-12-16 22:25:34 | 関東百駅巡礼歩行
 2008年12月13日(土)



 やまさんが2004年2月からはじめた関東百駅巡礼歩行、ちょう
どまる5年となる第50回目は、JR内房線の那古船形(なこふなか
た)駅。自宅から約4時間をかけて10時46分に到着した。

 参加者は、カメラの私を入れて6人。開設当時のままかと思われ
る古い駅舎の前で記念撮影して、11時ころスタートした。


 まずは駅の東側、堂山の中腹にある崖ノ観音に向かう。線路沿い
から田んぼのあぜ道に出ると、崖の観音の背後の堂山(107m)が
見えてきた。


 船形集落に入って山すそを進む。館山白百合幼稚園のドリームラ
ンドウッズと呼ぶ樹木の多い遊園施設の先に、大屋根の西行寺が
あり、境内の大イチョウが目に入る。


 堂山の東側山すそに古いゲートがあり、常緑広葉樹林に道がつい
ていたので進んでみた。しかし地図上の果樹園マークのあたりで道
は途絶え、その果樹園らしい面影も全く残ってなかった。

 戻って山すその民家の背後を進み、「崖の観音」と呼ばれる大福
寺に入る。本堂前に2本の大きなソテツが並び、南房総の暖かさが
実感できる。


 崖の観音は、背後の露出した岩肌にへばりつくように懸崖造りで
できている。

 西側にある急な石段から、観音堂に上がった。

 堂内の崖面に彫られているのは、十一面観音の真崖仏(まがい
ぶつ)。観音堂が断崖の中段に飛び出すように建てられたことから、
「崖の観音」と呼ばれていて、観音像のは平安時代中頃の様式と
うかがえるが、制作年代は確定できないという。


 観音堂の舞台からは、逆光に輝く館山湾や、眼下の船形集落、
東の山すそに広がる川名集落などの展望がよい。


 すぐ西側の山腹には、垂直の岩壁を背にして諏訪神社も祭られ
ていた。

 ちょうど正午になったので、観音堂前の椅子を借り、館山湾など
を眺めながら昼食をする。

 寺を出て、船形集落の家並みの間を回って船形漁港に出た。波
静かな湾内は小さな漁船が数隻だけ。漁協の卸売市場にも人影
は見られず、閑散としている。

 今朝は休漁なのか、東側の駐船場の上に漁船がたくさん引き上
げられいた。

 漁港の東側に回って小さい流れをどんどん橋で渡り、防波堤沿
いをさらに進む。富士火災シーサイドハウスという独特の形状を見
せる大きな保養施設の先に、「元禄地震再来想定津波高」を示す
標識が立つ。海面からは5m前後と思われる高さだった。

 浜を離れて車道とJRの踏切を渡り、那古集落に入る。広葉樹林
を背にした山すそに、那古寺の大きな本堂や多宝塔などが望まれる。



 房州うちわを製造直売する米澤屋商店のそばを進み、国道を横切
ると那古寺西側の階段がある。

 階段を少し上がると、小さいお堂の前に今は珍しい手押しポンプが
あり、きれいな水も出る。

 閼伽井(あかい)と呼ぶ井戸で、観音堂が再建された宝暦11年
(1761)、伊勢屋金物店が伊豆石を運んで井戸に石組みをして、
くんだ水を観音堂に奉納したとか。安房路を巡る旅人はこの霊水で
乾きをいやし、のどを潤したという。


 石段を上がって、朱塗りコンクリート造りの堂々たる本堂に参拝
する。本堂東側には、歴史を感じさせる多宝塔が立っていた。


 那古寺は、養老元年(717)、元正女帝の病気回復を祈り、行基
がこの地に来て千手観音像を刻み祈念すると女帝は回復し、女帝
の勅命で伽藍(がらん)を建てたという。

 寺は坂東三十三観音霊場第三十三番の結願(けちがん)寺。この
日も、昭和24年(1949)生まれで高校の同級生という男性4人が
来て、1年間かけて坂東札所を回ったとのことで、結願を喜んでいた。

 本堂の右手背後から、豊富な広葉樹林の間の階段を進み、潮音
台と呼ぶ展望台に上がった。

 大きく湾曲した館山湾や、館山の市街地、船形漁港などが一望で
きる。伊豆半島や大島も遠望できるようだが、この日は霞んで見え
ない。しかし天気予報とは逆に、晴天が広がり暖かくなった。

 展望台には東屋やベンチがあり、背後の木の下に、平安の女流
歌人、和泉式部の供養塚が立っていた。


 東側に延びる稜線に設けられた「式部夢山道」と呼ぶ遊歩道に向
かう。一帯はスダジイを中心に、タブノキ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ、
モチノキなど、亜熱帯系照葉樹の豊富な森。うっそうと繁る林間を
進んで、芝崎集落に下った。

 集落の中の細道を進み、別の寺の前を通過して那古寺の駐車場
に戻る。そばの納経所で先ほどの4人が、結願した人だけもらえる
証書を作ってもらい、もう一度喜んでいた。

 改めて朱塗りの仁王門から那古寺に入り、鐘楼や納経堂、観音
堂(本堂)などの前を回り、上がってきた石段を下りて駅に向かう。

 さすが南房総、石段の横には早くもスイセンが花を開いていた。

 国道を西に進み、JR内房線の陸橋下を通過し、14時55分に
那古船形駅に戻った。

(天気 曇後晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 那古、歩行地 館山市)
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雑誌『新ハイキング』09年新年号発売

2008-12-15 22:45:59 | ハイキング
 今朝はこの冬1番の寒さ。わが家の居間も、朝は初めて10℃を
割って8.5℃でした。


 2回の居間から東の窓を開けると、整地して何も植えてない畑が
真っ白に…。こんなに白い霜柱を見たのは久しぶりです。

 この霜も、快晴の太陽が上がって間もなく消え、いつもの黒土に
戻りました。


 さて、今日、12月15日(月)は、首都圏の書店を中心に販売され
ている雑誌『新ハイキング』09年1月号の発売日です。


 新ハイキング誌では、毎年新年号は干支の山と温泉、そして七福
神めぐりの特集を組んでいます。

 来年は丑年なので、丑年の山・温泉として、私も40年以上前には
何回か上った上越の巻機山・牛ヶ岳をはじめ、上州の牛伏山、東北・
岩手県の秘湯、夏油温泉から牛形山、上州の臥牛山から伊香保温
泉などのコースが紹介されています。

 もう一つの七福神めぐりとしては、やはり上州の小幡七福神、栃木
県の足利七福神、都内の新宿山の手七福神と深川七福神など、6
コースが紹介されています。

 この中の「足利七福神」は私の投稿で、今年1月27日に歩いたも
の。当ブログでも、当日のレポートを1月30日に掲載しました。

 特集以外にも、来年のNHK大河ドラマゆかりの「直江兼継ゆかり
の山城を訪ねて」や、「台湾・関山に登る」ほか、寒い1月でも歩け
るお勧めコースがたくさん紹介されています。

 干支の山登りや七福神めぐりを検討されている方、正月にはどこ
かの山登りや近郊のウオーキングをしようかと考えておられる方は、
ちょっと書店をのぞいてみてください。登ってみたい、行ってみたい
コースが見つかるかもしれませんよ…。 (税込み580円です)

 もう少し詳しくは、下記「新ハイキング社」のwebをご覧下さい。

  http://shinhai.net/

 1日中快晴の夕方、西の空はきれいなあかね空に染まりました。


 明日も好天で、今日よりは寒さも和らぎそうです。





 
 
 
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関東百駅で那古船形へ(千葉・館山)

2008-12-13 22:32:53 | ウオーキング
 今日、12月13日(土)は、やまさんの関東百駅巡礼歩行の第50
回目で、JR内房線 那古船形駅の周辺を巡り歩きました。

 レポート別途としますが、5枚の写真で速報版を報告します。

 集合は11時でしたが、わが家からは西武池袋線、東京メトロ有楽
町線、JR京葉線、それにJR内房線と乗り継ぎ、4時間かかりました。

 今日のメンバーは、私を入れて6人です。


 最初のポイントは、駅の西方約1㎞ほどの山腹にある崖観音。地層
が露出した岩山の中腹に舞台造りのお堂ができていました。

 ここに上がると、目の下に館山湾が一望です。

 船形の家並みを抜けて船形漁港に行ってみました。

 今日は風もなく穏やかな港。漁はなかったのか舟も少なく市場は
閑散としていました。

 漁港の南東まで湾沿いに進み、那古の家並みを北の山すそに回り、
坂東三十三観音霊場第三十三番・那古寺へ。

 結願(けちがん)寺だけあり、山門、本堂、鐘楼など、みな趣ある造
りですが、とりわけこの多宝塔に目をひかれました。


 寺の背後は、スダジイやタブノキなど暖帯林が広がっています。
その間を上がって、潮音台と呼ぶ展望広場に出ました。

 ここからも大きく湾曲した館山湾と、館山の市街地が一望でき
ます。逆光に輝く湾の中ほどです。


 予報では雲が増えるはずでしたが、午後は雲が切れて青空が広が
り、予想外に暖かな日和となりました。

 15時少し前に、那古船形駅に戻りました。
 
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熊野古道中辺路を歩く⑪(滝尻~紀伊田辺駅)〈続き〉

2008-12-11 21:28:25 | 熊野古道を歩く
 2008年10月31日(金)〈続き〉



 昼食を終え、背後の王子谷越をしようと、標識の方に向かったが、
住宅に入り込み、イヌが吠えるのであきらめ、国道の稲葉根トンネル
(423m)を通過した。


 トンネルの先の十字路で国道に分かれて右折し、県道35号に入
る。射矢ノ谷の田中神社には、南方熊楠が命名したというオカフジ
と呼ぶフジの古木が数本と、クスノキの大木があった。


 県道の東に並行する旧道を進み、八上(やかみ)王子へ。老杉数
本など、うっそうとした森の中に社がある。

 当時は桜があったのか、八上のさくらを歌った西行の歌碑がある。


 県道に上がって新岡坂トンネル(340m)を抜けると、歩道が無く
なり高速で通過する車が危険。埴田から左会津川の左岸沿いを岩
屋谷集落へ回り、草道を上がって三栖(みす)王子跡に行く。

 石碑と道しるべ、ここを歌った万葉集、額田王の歌碑だけだが、
高台なので北方の展望がよい。


 すぐ先の高台にあった報恩寺に寄る。本堂の前に日本一という大
きなソテツがあり、本堂の背後を巡る西国三十三観音のミニ霊場
や、賽の河原地蔵尊、大岩の上に立つ石塔など、見どころが多い。


 県道35号に戻って反対の北へ少し入り、国史跡に指定された三
栖廃寺搭跡に寄る。7世紀後半の白鳳時代の創建とされ、法隆寺
式の伽藍配置で、寺域は約100m四方あったと推定されるという。

 三重塔と推定される基壇と礎石が復元されていた。


 一帯は梅林が多く、県道際の万呂(まろ)王子跡は標識だけだった。


 橋を渡って県道を離れ、左会津川の左岸を進む。天王集落で県道
に戻り、急な石段を上がって須佐神社に参拝する。境内は常緑広葉
樹が豊富だった。


 目座から新田にかけては新興住宅地を抜ける。新田の会津小の
隅に、国土地理院の地図造りの基本になる電子基準点があった。


 NHKラジオのアンテナ塔の交差点を左折すると秋津王子跡だが、
ひとつ手前の通りを入って見つからず。行き戻って田んぼの隅にあ
る石碑と説明板を確認する。

 ここも、田辺側の角には標識があるが、滝尻方面からの角には標
識が無い。逆行する人は少ないらしい。

 日暮れて薄暗くなった。右会津川沿いに出て左岸の車道を急ぎ、
国道42号の高架下を過ぎる。二つの会津川の合流点の小公園に
も、秋津王子の説明板がある。

 この付近は洪水で川の流れが変化して、王子社は何度か移され
たらしく、現在は旧地を確定することが出来ないようだ。

 田辺の市街地の一角、八幡町に入ったら雨となり、折り畳み傘を
出しザックカバーをかける。踏切を越え、紀伊田辺駅前に17時5分
にゴールし、今回の熊野古道中辺路の歩き旅を終えた。

 駅前の大通りを5分ほどで、今日の宿、アルティエホテル紀伊田辺
に入った。

[コースタイム]滝尻7・20ー清姫の墓7・57~8・05ー国道の橋下
横断8・53ーのごし橋(定家歌碑)9・26ー住吉神社9・49~10・02
ー鮎川王子10・13~20ー一ノ瀬王子11・15~21ー稲葉根王子(昼
食)12・05~45ー田中神社13・11~17ー八上王子13・29~37ー
三栖王子14・12~22ー三栖廃寺搭跡14・53~58ー万呂王子15・10
~12ー須佐神社15・35~37ー会津小15・55ー秋葉王子16・22ー合
流点の小公園16・40~42ー紀伊田辺駅17・05

(天気 晴曇後雨、距離 24㎞、地図(1/2.5万) 栗栖川、紀伊田辺、
 歩行地 田辺市(旧中辺路町を含む)、歩数 47,300)
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熊野古道中辺路を歩く⑩(滝尻~紀伊田辺駅)

2008-12-10 22:20:46 | 熊野古道を歩く
 飛び飛びで報告している、10月下旬に歩いた熊野古道中辺路
のレポートですが、ようやく最終日になりました。

===========================
      
 第7日 2008年10月31日(金)
 =滝尻~紀伊田辺駅=


 
 最終日は、6時起床、6時30分朝食。旅館きけうや出発前、おか
みさんは、「以前は役場の人や林業関係者など、日によっては40
人くらいも飲食に来て賑わったが、時代がすっかり変わってしまっ
た。」「この宿は40年やっているが、いつ止めることになるか分か
らない…」と嘆かれていた。

 自家製の梅干しをお土産にいただき、7時10分、ご主人の車で
滝尻まで送ってもらう。

 昨日参拝した滝尻王子にもう一度参拝し、7時20分にスタート。
左に富田川を眺めながら国道311号を南へ向かう。


 途中の真砂集落は山側の旧道を上がる。太陽が東の山の上に顔
を出し、陽が差してきた。民家の裏のやぶで、時季外れのウグイス
が鳴く。

 国道に戻り、次の旧道との分岐点に清姫の墓があった。江戸時代、
歌舞伎や狂言で知られた安珍・清姫物語の女主人公「清姫」の出生
地。隣に薬師堂もある。


 旧道を上り下りして、朱塗りの吊り橋の北郡橋を渡り、国道を横断、
富田川左岸の中地集落へ。


 山腹の集落を抜け、草道から杉木立下となり、国道のトンネル上に
なる小さい峠を越えた。

 
 富田川左岸沿いに下ったところに、オオウナギ北限の生息地の標
識が立つ。

 国道の橋をくぐり、さらに川沿いを進むと、二つの休憩所が続く。
それぞれれ木のテーブルとベンチが設けられ、流れが見下ろせる。


 対岸には、「道の駅ふるさとセンター大塔」も見える。


 向越の集落を抜け、富田川左岸の車道が続くが、車はほとんど通
らない。ウグイスがまた鳴いた。


 内ノ井集落の住吉神社は、杉や常緑広葉樹に囲まれた静かなた
たずまい。

 本殿が2社、左に3社並ぶ趣ある造りで、社殿の横には、マキと
ムクロジがくっついたご神木の夫婦樹があった。神社の森は県の
天然記念物に指定されている。


 旧大塔村役場前を過ぎ、鮎川新橋を渡る。国道に出た鮎川新橋
バス停際に鮎川王子跡があるが、標石だけ。

 そばに「ふれあいやかた」と呼ぶ熊野古道休憩所があった。

 すぐ先で、国道と2本ある旧道が分かれるが、山際の旧道に入り、
家並みを抜ける。真ん中の旧道に合し、山側の旧道を上地集落に
上がる。振り返る富田川の流れ。

 集落の終わりから急降下して国道に下った。

 車の激しい国道を急ぎ横断、加茂橋を渡って再び左岸へ。

 車の少ない山すその旧道を小山まで進み、集落の上を回ったが、
目指す一ノ瀬王子が見つからない。

 柿の手入れをしていた人に聞き、少し戻って集落の中ほどの一ノ
瀬王子跡へ。クスノキの大木の下に小さい社のみ。

 東側からの入口には表示が無く、少し分かりにくい場所だ。

 市ノ瀬橋を渡って国道311号に出る。王子谷集落の旧道を川沿
いに入る分岐の広場に、クスの大きな古木が展示されていた。

 明治22年(1889)の大水害で上流から流れてきたものらしい。

 旧道の少し先が稲葉根王子跡。クス、カシ、杉など、うっそうとした
森の中に小さい社がある。

 後鳥羽上皇に随行した藤原定家や、足利義満の側室・北野殿な
どが参拝した記録が残されているという。

 ここで予定どおり昼食とし、宿のお握りをいただいたが、雲が増え
て休んでいる内に冷えてきた。              (続く)
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カントリーウオーク花崎(埼玉・加須)

2008-12-09 22:04:30 | カントリーウオーク
 2008年12月7日(日)

 埼玉県内を中心に歩くカントリーウオークグループの、今年の締め
となる第159回例会が、加須(かぞ)市内で開催された。朝は冷え
こんだが快晴に恵まれ、途中の車中からは富士山がよく見えた。



 集合地は東武伊勢崎線の花崎駅。4組に分かれ、10時12分に
スタートした。

 =加須流通団地周辺から北へ=
 
 北口を出て、広葉樹の多い公園の横から東北自動車道下をくぐる。
大桑交差点の先で県道370号を離れ、左の旧道に入った。

 板木のフェンスに、こどものメルヘンチックな飾りをたくさん並べた
家がある。その先の畑に、コマツナらしいのが大きく育ち、白菜や
大根もよく育っている。


 見ていたら、奥の家のご主人が出てきて、この土地はよく肥えて
いて、無農薬でもよくできると言う。持っていってもよいとも言われ、
重くなるのでためらったが、大根を3、4本いただいた。

 大桑小の裏手に回り、乗蔵院へ。建物は、お寺とは思えぬ新しく
近代的な造り。その背後に、建長5年(1253)造立の青石塔婆が
あり、彫りの深い梵字の刻まれた見ごとなものだった。


 クチナシの実る宮前集落から、カモのたくさん浮かぶ用水池の南
を回る。加須流通団地の東端を抜けて、東岡の雷電神社に行く。

 洪水対策か、数㍍の盛り土の上に社殿があり、奥殿には精巧な
木彫が施されていた。

 近くの、民家の庭に続く畑に数本の柿があり、たくさん実ってい
る。畑にいた奥さんが幾つでも取ってよいというので、20個以上
いただく。

 歩きながらかじったら、みずみずしくて甘い柿だった。

 その先でも、たわわに実った柿をあちこちで見た。最近は柿を好
む子も居なくなったようで、手の届くところにたくさん残っていた。

 南側の定泰寺は、大きな本堂や鐘楼が新しく、庭はよく手入れさ
れている。

 神仏混淆(こんこう)の対象である文安6年(1449)の懸仏(かけ
ぼとけ)があるとの掲示があるが、どこにあるのかは分からなかった。

 近くの加須(かぞ)流通団地のそばに、瘤(こぶ)大神として祭られ
たソロの古木がある。

 ソロとは、イヌシデかアカシデのことらしい。そばのモミジがよい
彩りを見せていた。

 大根や柿をもらったりして、だいぶ時間を費やした。昼食地はか
なり先だが正午に近い。流通団地の北に抜け、葛西用水路と国道
125号の交差点を越えて先を急ぐ。

 広々とした田園地帯に出た。本多集落地近くの農免道路を少し進
み、道上集落に沿った用水沿いを西へ、浮野の里の北端を通過する。


 北から西へ、男体山など日光連山や、赤城山、雪で白い浅間山、
富士山などがよく見える。

 このあたりは田んぼの中にぽつんぽつんと数戸の農家が散在して
おり、いずれも葉の落ちた大きな屋敷林を背にしていた。


 12時41分に、昼食地のグリーンファーム加須に着いた。

 小さい東屋の前にレンガ積みのかまどが3個ほどある。そのひとつ
にバーナーを並べ、各自持参のお湯と芋煮の材料を入れる。

 一方では、持ち寄りの酒を温めたり、するめを焼いたりして準備す
る人も。芋煮を待ちきれずに、酒を先に口にする人が増える。

 そのうちに芋煮も出来上がった。いろいろな具でいい味の出たの
をお椀に盛り、熱々のをおいしく味わいながら歓談する。

 いつもの年末同様の、忘年例会の楽しみのひとときである。

 2時間近くかけて芋煮を全部平らげ、アルコールの量もかさんで
ほろ酔い以上になった人も…。

 記念撮影をして14時半過ぎ、午後のコースに向かう。

 =会の川を越えて加須へ=
  
 県道46を横断して西に向かうと、かやぶき屋根の平屋が残って
いた。

 そばの農家の背後には、背の高いケヤキが並ぶ。

 東北自動車道の下を南に抜け、葛西用水路の支流を少しだけ通
過する。ナマズでも捕るのか、竹製の魚を捕る道具が3つ沈められ
ていた。

 ガラス張りの三角屋根など、独特の建物の加須文化センター内を
抜ける。県道46号の横から、再び葛西用水路の右岸沿いを県の水
産研究所正門前まで進んだ。

 県道125号バイパスを横切り、南側の住宅地に入って北小浜の
八幡宮へ。

 背の高いイチョウが数本あり、黄葉が初冬の陽に輝き、下も落ち葉
でいっぱい。南側に、かやぶき屋根の民家があった。

 大型店も見える県道125号を越えて会の川沿いに出て、光明寺に
裏から入る。堂々たる本堂の左手に、青銅製のかわいらしい稚児観
音像がたくさん並んでいた。


 加須駅に近い本町の千方神社へ。文化年間(1804~)に加須の
五・十市(ごとういち)の世話人によって疫病除けとして祭られたとい
う、石敢当(せきかんとう)がある。九州地方には多いが、関東では極
めてまれなもの。

 ここでミーティングをして、今年の締めとする。ゴールの加須駅には
16時30分に着いた。

(天気 快晴、参加 17人、距離 12㎞、地図(1/2.5万) 栗橋、
 加須、歩行地 加須市)
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地球1周4万㎞を歩く

2008-12-08 23:37:59 | ウオーキング
 11月13日(木)の国際ウオーキングトレイル実踏の日の午後、
甲州市内でもらった柿を、吊し柿にしました。

 1か月近く太陽を浴びてかなり水分が蒸発し、「こう」もふいて
きて、もう食べられそうになりました。

 明日にでも味見したいと思っています。

===========================

 さて、今日の話題は私のウオーキング記録です。

 一昨日報告した熊野古道中辺路6日目の10月30日(木)で、
歩行距離が地球1周に相当する40,000㎞になり、12月3日
(水)に日本ウオーキング協会で認定してもらいました。


 私が、現在の日本ウオーキング協会の前身、日本あるけあるけ
協会の会員になったのは、17年前の平成3年(1991)10月28日
でした。

 すぐ後の11月2日~4日の第14回日本スリーデーマーチに参加
したのが、ウオーキング記録のスタートです

 それからちょうどまる17年かけて、40,000㎞を歩くことが出来ま
した。それを記録したのが18冊の下のウオーキングダイアリーです。

 左上が1991年のダイアリー、以下右から下へと続き、右下が今
年、2008年のものです。

 
 このダイアリーは、毎年日本ウオーキング協会から会員(傘下の
都道府県や市などのウオーキング協会会員を含む)に送付され、日
々のウオーキング距離を記録して申請すると、認定してもらえるよう
になっているのです。

 記録は、ウオーキング協会の催しに参加して完歩した距離だけで
はなく、内外各地の大会、例会に参加して完歩証明を受けた距離、
さらに個人またはグループで自然に親しみ、健康、体力の維持増進
などの目的をもって歩いた距離も対象になります。
 
 ただし、通勤、通学、仕事や買い物など毎日の日常生活で歩いて
いる距離は対象になりません。

 ウオーキング手帳を揃えた機会に、この18年の、1年ごとの歩行
距離やトピックス的なことを拾い出してみたので、以下に記します。

   年      年間距離    累計距離 
1991(H3)    120㎞     120㎞
…………………………11/2第14回日本スリーデーマーチ参加がスタート
1992(H4)    621㎞     741㎞

1993(H5)    943.2㎞  1,684.2㎞
……………………………2月カントリーウオーク開始、6月で1,000㎞
1994(H6)    780㎞    2,462.2㎞
……………………………………………………6月で2,000㎞
1995(H7)   1,062.5㎞  3,524.7㎞
……………………………………………………6月で3,000㎞   
1996(H8)    977.7㎞  4,502.4㎞
……………………………………………………6月で4,000㎞
1997(H9)   1,261.7㎞  5,764.1㎞
……………………………………5月で5,000㎞、9月末で退職
1998(H10)   2,391.5㎞   8,155.6㎞
……………………3月6,000㎞、7月7,000㎞、12月8,000㎞
1999(H11)  2,903.4㎞ 11,059㎞
………………………4月9,000㎞、伊能ウオーク参加、8月1万㎞
2000(H12)  2,889㎞   13,948㎞
……サントピア沖縄マーチでJMLマスターW、スーパーマスターW、ゴールドW受賞
2001(H13)  3,070㎞   17,018㎞
……………………………甲州夢街道ウオーク参加、5月1万5千㎞
2002(H14)  3,380㎞   20,398㎞
…………………………第3次中山道ウオークに初参加、11月2万㎞
2003(H15)  3,162㎞   23,560㎞
…………………………………………10月熊野古道伊勢路参加
2004(H16)  3,859㎞   27,419㎞
……………2~3月四国遍路前半&11~12月後半、4月2.5万㎞
2005(H17)  3,198㎞   30,617㎞
………………………6月英国コッツウオルド・ウェイ南部へ、11月3万㎞
2006(H18)  3,614㎞   34,231㎞
………7月英国コッツウオルド・ウェイ北部へ、11~12月四国遍路②前半
2007(H19)  3,301㎞   37,532㎞
……………………………2~3月四国遍路②後半、2月3万5千㎞
2008(H20)  2,502㎞   40,034㎞
(10月末まで)………10月熊野古道中辺路へ、10/30 4万㎞達成

 すでに4万㎞を歩かれた方の中には、数年で達成したという人も
おられるようですが、私は初めの6年半ほどは在職していましたの
で、なかなか距離が増えず、退職後は、ウオーキング大会に参加
するにしても、遠方の大会には費用などの制約から絞らざるを得ず、
したがって、後半は自宅周辺の日々のウオーキングで距離を積み
重ねて、なんとか到達しました

 健康と時間と周囲の理解などに恵まれ、念願の4万㎞を達成する
ことができました。これも、多くの方々にお世話になったお陰と、心
から感謝申し上げます

 これからも、体と頭の健康維持のために、出来るだけウオーキング
を続けたいと考えておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。   



 
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加須市内をカントリーウオーク(埼玉)

2008-12-07 22:13:24 | Weblog
 2008年12月7日(日)

 今朝は冷え込みましたが、首都圏は1日中快晴に恵まれました。

 今日は、埼玉県内を中心にカントリーウオークを楽しむグループ
の12月例会で、県の東北、加須(かぞ)市内の田園地帯を中心
に歩いてきました。

 レポートは別途報告しますので、3枚の写真だけ紹介します。

 朝、集合地の東武伊勢崎線 花崎駅に向かう途中、JR埼京線
の武蔵浦和駅ホームからの富士山。


 花崎駅を10時過ぎにスタートし、東北自動車道の北に回り、加須
流通団地や葛西用水路付近を通過し、昼食地のグリーンファーム
加須に向かいました。

 昼食地では、忘年例会恒例の芋煮会。あつあつの芋煮を食べ、
持ち寄ったお酒を酌み交わし、寒さを忘れてこの1年をふり返り、
談笑のひとときを過ごしました。

 午後のコースに向かう前に記念撮影。参加者は、カメラを入れて
17人です。


 昼食後は南に向かい、加須市の総合文化センターや、寺社を幾
つか回りました。

 午前中も午後も、あちこちの民家の庭先などに、よく熟した柿が
たくさん残っていて、午前中にもらってきたグループもありました。


 ゴールは西隣の加須駅。16時30分ちょうどに到着しました。
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熊野古道中辺路を歩く⑨(近露~滝尻)

2008-12-06 11:35:14 | 熊野古道を歩く
 第6日 2008年10月30日(木)〈続き〉

 少し先の十丈峠付近の鞍部で北側が開け、果無山脈や下の二つ
の集落が見下ろせる。今日初めての好展望地である。


 稜線の右をトラバースして、ヒノキ林の下の大門王子跡へ。小さい
社があり、地元白浜中の全校遠足で滝尻から道の駅まで歩くという、
3年生の一団が休憩していた。

 2年生、1年生のグループとは、その先で行き交う。

 小さい池の横を通過し、緩やかに杉林を下って行くと、ウッディな
休憩舎があったが、トイレは使用禁止だった。

 2体の石仏が祭られた大日如来堂を過ぎ、上地集落に入った。
西方に滝尻集落が展望できる。

 細い車道との交差点付近にあった高原(たかはら)霧の里休憩所
に入り、昼食とする。

 中には、711年ぶりに訪れた皇室という皇太子殿下と、その後訪
れた秋篠宮殿下の写真が展示されていた。

 こんな張り紙もある。「年をとった」と思われる方はご一読を…。



 広場からは、北に果無山脈や集落の棚田などの気持ちよい展望
が広がり、すぐ下に新しい水車小屋が設けられていた。




 すぐ先の熊野神社は、中辺路で最古という、室町時代前期の様
式を伝える権現造りの社殿で、県の文化財である。

 境内に、ご神木である太いクスノキが2本立っていた。

 下地集落を抜け、NHKのアンテナ塔の下から急な下りとなる。
針地蔵尊を過ぎて一旦車道に出て、再び林間に入った。

 稜線上を進み、細い車道を斜めに横断する。ここを下れば今日の
宿だが、気づかずに進む。3の標識で気づいたが、まだ早いので
近露王子まで行くことにする。翌日の行程を考えると、結果的には
その方がよかった。

 展望台への入口を過ぎ、2の標識の先からは、木の根の多い急
降下となる。


 折り畳み杖を頼りに慎重に下り、ヒノキ林の下の不寝(ねず)王子
跡で小休止する。


 すぐ下に「乳岩」と呼ぶ大岩がある。詳しい話は省くが、奥州の藤原
秀衡夫人がこの岩屋で出産したという伝説の地である。


 すぐ下には、女性がくぐれば安産するという「胎内くぐり」があった。

 さらに下って富田川の橋のそばにある滝尻王子へ。クス、杉など
のうっそうとした木々の下に趣ある社がある。

 ここから、私が前日スタートした熊野本宮大社までが、中辺路の
なかでも多くの人が歩く、メインルートともいえるところ。

 500mごとに1,2,3…と増え、熊野本宮大社に近い祓所王子
の75まで続く、数字標識の出発点でもある。


 休憩所と売店があり、売店でバスの時間を聞いたら3分後という。
急ぎ橋を渡って滝尻バス停に着いたら、そのバスが来た。


 バスは国道311号を3分ほどさかのぼり、中芝で下車する。旧道
をしばらく進み、15時42分に栗栖川の旅館きけうやに入った。

[コースタイム]近露・旅館たかだ7・35ー近露王子7・45~50ー箸折
峠(牛馬童子像)8・20~26ー大坂本王子9・00~07ー逢坂峠9・32
~35ー上多和茶屋跡10・05~19ー悪四郎屋敷跡10・50ー十丈峠
11・03~09ー大門王子11・43~48ー高原霧の里12・26~13・03ー
熊野神社13・05~20ー針地蔵尊13・42ー3標識14・11~15ー不寝
王子14・44~50ー滝尻王子15・07~18ー滝尻バス停15・20

(天気 晴、距離 14㎞、地図(1/2.5万) 栗栖川、歩行地 田辺市
(旧中辺路町)、歩数 28,700(旅館まで))
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