昨夜は、東京・水道橋の日本ユースホステル協会で開催された
第2回ワンデルに出席しました。
「ワンデル」とは、「青少年国際野外旅行研究会」のことで、昨日
は2つのテーマの発表がありました。
①「日本海と太平洋をつなぐ国際ウオーキングトレイル実踏中間
報告」と、②「外国人のための四国遍路ハイライト」です。
②は私の担当だったので、その資料づくりなどに追われ、この2
日間、ブログ投稿の時間が取れませんでした。
今日の話題は、10月25~31日の熊野古道中辺路歩きを終え
た翌日、田辺市内を半日足らず回ったときの模様です。
===========================
2008年11月1日(土)
熊野古道中辺路の歩きを前日終えた。宿泊したアルティエホテル
紀伊田辺からの田辺市内の眺め。
ホテルで朝食後、昨日のレポート整理をする。荷物を預けて9時半
過ぎホテルを出て、2時間余り田辺市内を回ることにした。
まず東に向かい、森に囲まれた闘鶏(とうけい)神社へ。七五三詣り
の家族が社殿の前で記念撮影をしていた。
闘鶏神社は熊野権現(熊野本宮大社)を祭り、別名新熊野権現とも
呼ばれる。熊野三山の別宮的な地位にあり、本宮への中辺路は険し
い山道なので、この宮に参詣して熊野三山参詣に代えたとか。
平安時代末期、弁慶の父と伝えられる熊野別当湛増が、源氏と平
家のいずれに付くかで、紅白の鶏を闘わせ、白鶏が勝ったので源氏
に味方したという故事から、闘鶏神社の名がつけられたという。
境内には義経と弁慶の銅像があり、新しい建物の中には、武蔵坊
弁慶産湯の釜や、義経が奉納した横笛などが展示されていた。
境内西側には、樹齢1200年、樹高14m、根本周囲11mという
ご神木の大楠が枝を広げている。
和歌山生まれの歴史小説家、神坂次郎氏は、土木技師だった昭
和30年(1955)当時、仕事で田辺をしばしば訪れ、汽車の時間待
ちでこのご神木の根本に腰を下ろし休息したとか。そんな中から、
熊野大権現を舞台にした小説「鬼打ち猿丸」の構想が浮かび、文学
賞を得たゆかりの地のようだ。
本殿裏のうっそうとした仮庵山(かりおやま)と呼ぶ神山は、明治中
ごろ巨大なクスノキが切り倒され、これ以上の伐採を中止させようと、
南方熊楠(みなかたくまぐす)が厳しく批判し抗議したという。
もとの道を戻ってさらに西へ、田辺郵便局で不要荷物をゆうパック
で自宅あて発送後、近くの南方熊楠顕彰館に入った。
南方熊楠は和歌山市生まれ、19歳で渡米し、動植物の調査研究
に没頭、25歳で渡英、科学雑誌「ネイチャー」に論文が掲載され、大
英博物館の嘱託職員に迎えられた。
33歳で帰国し、37歳から没するまで25年間田辺に住み、植物学
や博物学・民俗学をはじめあらゆる分野の研究生活を送り、新種の変
形菌(粘菌)を発見するなど、世界的業績を上げた人。
館内には、ロンドン抜書、田辺抜書、日記、備忘録、書簡、雑誌、採
集用具などが展示されている。これは日記のレプリカ。
南側には、亡くなるまで25年間住んだ南方熊楠の旧居が公開され
ていて、当時の面影を偲ぶ部屋が外から間近に眺められる。
旧居の縁側で、声をかけてくれた受付の女性と、熊楠や熊野古道
のことなどをしばらく話す。
庭には、熊楠が植えた豊富な樹木が残っていて、市内中心街でも
ほかには無い緑の一角だという。
田辺郵便局の先を右折して、第一中に沿って北に向かう。小さい
建物の八雲神社前に、弁慶腰掛けの石があった。
銀座通りに出て、電線を地中化してすっきりした通りを東へ進む。
拡幅工事中の手前で北に回って、蟻通神社に入る。
名の由来は、外国の使者からホラ貝に1本の糸を通す問題を出さ
れ、それをひとりの若い神様が蜜と蟻を使って複雑な貝の穴を通して、
外国の使者に、「日本の国は神国だ」と恐れ感服されたということに
よるものらしい。
狭い境内の真ん中に、霊樟(れいしよう)と呼ぶご神木のクスノキの
大木が立つ。
安政元年(1854)の冬、大地震で火災が西の町から火災が起こ
り、この地区に燃え移らんとしたが、このクスノキの幹や枝から白水
が噴出し、同時に風の向きが逆転して災厄をくい止め、当時から厚
く崇敬されているという。
そろそろ時間となったので、宿に戻って預けた荷を受け取り、JR
紀勢本線の紀伊田辺駅に行く。
12時18分発電車に乗り、御坊、和歌山乗り換えで、明日の高野
山詣での玄関口に近い橋本に向かった。
第2回ワンデルに出席しました。
「ワンデル」とは、「青少年国際野外旅行研究会」のことで、昨日
は2つのテーマの発表がありました。
①「日本海と太平洋をつなぐ国際ウオーキングトレイル実踏中間
報告」と、②「外国人のための四国遍路ハイライト」です。
②は私の担当だったので、その資料づくりなどに追われ、この2
日間、ブログ投稿の時間が取れませんでした。
今日の話題は、10月25~31日の熊野古道中辺路歩きを終え
た翌日、田辺市内を半日足らず回ったときの模様です。
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2008年11月1日(土)
熊野古道中辺路の歩きを前日終えた。宿泊したアルティエホテル
紀伊田辺からの田辺市内の眺め。
ホテルで朝食後、昨日のレポート整理をする。荷物を預けて9時半
過ぎホテルを出て、2時間余り田辺市内を回ることにした。
まず東に向かい、森に囲まれた闘鶏(とうけい)神社へ。七五三詣り
の家族が社殿の前で記念撮影をしていた。
闘鶏神社は熊野権現(熊野本宮大社)を祭り、別名新熊野権現とも
呼ばれる。熊野三山の別宮的な地位にあり、本宮への中辺路は険し
い山道なので、この宮に参詣して熊野三山参詣に代えたとか。
平安時代末期、弁慶の父と伝えられる熊野別当湛増が、源氏と平
家のいずれに付くかで、紅白の鶏を闘わせ、白鶏が勝ったので源氏
に味方したという故事から、闘鶏神社の名がつけられたという。
境内には義経と弁慶の銅像があり、新しい建物の中には、武蔵坊
弁慶産湯の釜や、義経が奉納した横笛などが展示されていた。
境内西側には、樹齢1200年、樹高14m、根本周囲11mという
ご神木の大楠が枝を広げている。
和歌山生まれの歴史小説家、神坂次郎氏は、土木技師だった昭
和30年(1955)当時、仕事で田辺をしばしば訪れ、汽車の時間待
ちでこのご神木の根本に腰を下ろし休息したとか。そんな中から、
熊野大権現を舞台にした小説「鬼打ち猿丸」の構想が浮かび、文学
賞を得たゆかりの地のようだ。
本殿裏のうっそうとした仮庵山(かりおやま)と呼ぶ神山は、明治中
ごろ巨大なクスノキが切り倒され、これ以上の伐採を中止させようと、
南方熊楠(みなかたくまぐす)が厳しく批判し抗議したという。
もとの道を戻ってさらに西へ、田辺郵便局で不要荷物をゆうパック
で自宅あて発送後、近くの南方熊楠顕彰館に入った。
南方熊楠は和歌山市生まれ、19歳で渡米し、動植物の調査研究
に没頭、25歳で渡英、科学雑誌「ネイチャー」に論文が掲載され、大
英博物館の嘱託職員に迎えられた。
33歳で帰国し、37歳から没するまで25年間田辺に住み、植物学
や博物学・民俗学をはじめあらゆる分野の研究生活を送り、新種の変
形菌(粘菌)を発見するなど、世界的業績を上げた人。
館内には、ロンドン抜書、田辺抜書、日記、備忘録、書簡、雑誌、採
集用具などが展示されている。これは日記のレプリカ。
南側には、亡くなるまで25年間住んだ南方熊楠の旧居が公開され
ていて、当時の面影を偲ぶ部屋が外から間近に眺められる。
旧居の縁側で、声をかけてくれた受付の女性と、熊楠や熊野古道
のことなどをしばらく話す。
庭には、熊楠が植えた豊富な樹木が残っていて、市内中心街でも
ほかには無い緑の一角だという。
田辺郵便局の先を右折して、第一中に沿って北に向かう。小さい
建物の八雲神社前に、弁慶腰掛けの石があった。
銀座通りに出て、電線を地中化してすっきりした通りを東へ進む。
拡幅工事中の手前で北に回って、蟻通神社に入る。
名の由来は、外国の使者からホラ貝に1本の糸を通す問題を出さ
れ、それをひとりの若い神様が蜜と蟻を使って複雑な貝の穴を通して、
外国の使者に、「日本の国は神国だ」と恐れ感服されたということに
よるものらしい。
狭い境内の真ん中に、霊樟(れいしよう)と呼ぶご神木のクスノキの
大木が立つ。
安政元年(1854)の冬、大地震で火災が西の町から火災が起こ
り、この地区に燃え移らんとしたが、このクスノキの幹や枝から白水
が噴出し、同時に風の向きが逆転して災厄をくい止め、当時から厚
く崇敬されているという。
そろそろ時間となったので、宿に戻って預けた荷を受け取り、JR
紀勢本線の紀伊田辺駅に行く。
12時18分発電車に乗り、御坊、和歌山乗り換えで、明日の高野
山詣での玄関口に近い橋本に向かった。