今年も押し詰まりましたが、ようやく11月初めに歩いた高野山町石
道(ちょういしみち)の、レポートの報告となりました。
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2度目の四国遍路を、2007年3月7日(水)に結願(けちがん)した
のだが、高野山へのお礼参りはせずに帰り、そのままになっていた。
早くお礼参りをと思いながらなかなか果たせず、1年半余りが経過
した。10月下旬、熊野古道中辺路を歩くことにしたので、この機会を
逃してはと思い、帰りに高野山詣でを計画し、前回同様、町石道(ちょ
ういしみち)を上がることにした。
2008年11月2日(日)
橋本市の竹屋旅館にて6時20分に起床する。素泊まりなので、前日
駅構内の柿の葉寿司店で購入しておいた柿の葉寿司と牛乳で朝食を
済ませ、旅館を出た。
橋本駅構内の店でまた昼食用に柿の葉寿司を、朝食分より数を増や
して求め、8時6分発南海電鉄高野線に乗った。
8時17分に九度山駅で下車する。町石道を上がるらしい人が何組か
同じ電車から降りたが、皆さっさと先行した。
県道4号を西に進み、まず真田庵に寄って参拝する。
真田庵は「禅名称院」といい、豊臣方の知将・真田幸村ゆかりの寺。
境内には父・昌幸の墓や宝物館があり、毎年5月5日には真田祭りが
行われ、真田十勇士などの武者行列が町を練り歩くという。
丹生橋を渡り、入郷の家並みの間の細い旧道を進む。九度山は、柿
の産地。民家の傍らにつるし柿が並んでいた。
町石道が歩始まるのが慈尊院。高野山が、年貢の徴収や外部と
の交渉の場として山ろくに置いた寺務所で、後に弘法大師が母公
の没後、伽藍を立て、弥勒菩薩を安置したため、以後、女人禁制の
高野に対し、女人高野とも呼ばれるようになり、女性の参拝客が多
いようだ。
多宝塔の横から、上の丹生官省符神社に向かって急階段を上がる。
中ほどに、高野山町石道の始まりである180町石が立っている。
町石は、鎌倉時代に立てたもので、この先1町(約109m)ごとに続
き、高野山の中心、壇上伽藍の根本大塔に向かって、ひとつずつ数
が減って行く。
慈尊院から119段の石段を上がると丹生官省符神社。空海が慈尊
院を創建のとき、その鎮守社として祭ったもの。社殿は室町末期の建
立で、国の重要文化財に指定されている。
ご朱印をお願いしたら、地元特産の富有柿のお接待をいただいた。
179町石の横から高野山へ向かう町石道に入る。緩やかに上って
池の横で車道を横断、柿畑の間を右カーブして行くと、高度が上がり
九度山や橋本市街の展望が広がる。
間もなく展望台があり、北方や東方の川や橋本の町並みが一望で
きる。しかしやや霞んでいて、遠くの山並みは見えにくい。
展望台周辺の斜面は柿畑が広がり、町石も畑の隅に立っていた。
柿の収穫はほとんど終わったようだが、ここには収穫した柿が少し
だけ置いてあった。
穏やかな日和で11月とは思えぬ暖かさ。さらに進むと、川沿いに
広がる西側の町並みも見下ろせるようになった。
雨引山(477.3m)への分岐を過ぎ、杉やヒノキの樹林下となり
展望は利かなくなったが、傾斜は緩んだ。
144町石と並んで一里石が立っている。一里石は、慈尊院からの距
離(36町)を示している。
ちょっとだけ切り開かれた六本杉峠を過ぎ、樹林下の歩きやすい土
の道が続く。
上古沢駅への下り道となる古峠は、気づかずに通過し、二つ鳥居に
出た。弘法大師が建立したと伝わる鳥居は、二つとも高さ約6mの花
崗岩製。記録によれば、南西に下った丹生都比売神社の鳥居とされ
るという。
鳥居の手前にある展望台の東屋からは、その神社のある天野の里
の静かなたたずまいが見下ろせる。
前回は、ここでMさんと昼食をしたのだが、少し早いので先に進む
ことにした。
鳥居の先から下って行くと紀伊高原ゴルフ場沿いとなり、応其(おう
ご)池の横を通過して神田地蔵堂に出た。
地蔵堂は、横笛が出家後、滝口入道にひと目会いたい女心から、
時々歩を運んで待ったと伝えられているところとか。堂内には、弘法
大師、子安地蔵、それに応其上人が祭られているという。
戸数わずかな神田集落が展望できる気持ちよい芝生で、先行の3、
4グループが昼食中だったので、私もその隅にシートを広げ、暖かい
日差しを浴びながら柿の葉寿司を食べた。 (続く)
道(ちょういしみち)の、レポートの報告となりました。
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2度目の四国遍路を、2007年3月7日(水)に結願(けちがん)した
のだが、高野山へのお礼参りはせずに帰り、そのままになっていた。
早くお礼参りをと思いながらなかなか果たせず、1年半余りが経過
した。10月下旬、熊野古道中辺路を歩くことにしたので、この機会を
逃してはと思い、帰りに高野山詣でを計画し、前回同様、町石道(ちょ
ういしみち)を上がることにした。
2008年11月2日(日)
橋本市の竹屋旅館にて6時20分に起床する。素泊まりなので、前日
駅構内の柿の葉寿司店で購入しておいた柿の葉寿司と牛乳で朝食を
済ませ、旅館を出た。
橋本駅構内の店でまた昼食用に柿の葉寿司を、朝食分より数を増や
して求め、8時6分発南海電鉄高野線に乗った。
8時17分に九度山駅で下車する。町石道を上がるらしい人が何組か
同じ電車から降りたが、皆さっさと先行した。
県道4号を西に進み、まず真田庵に寄って参拝する。
真田庵は「禅名称院」といい、豊臣方の知将・真田幸村ゆかりの寺。
境内には父・昌幸の墓や宝物館があり、毎年5月5日には真田祭りが
行われ、真田十勇士などの武者行列が町を練り歩くという。
丹生橋を渡り、入郷の家並みの間の細い旧道を進む。九度山は、柿
の産地。民家の傍らにつるし柿が並んでいた。
町石道が歩始まるのが慈尊院。高野山が、年貢の徴収や外部と
の交渉の場として山ろくに置いた寺務所で、後に弘法大師が母公
の没後、伽藍を立て、弥勒菩薩を安置したため、以後、女人禁制の
高野に対し、女人高野とも呼ばれるようになり、女性の参拝客が多
いようだ。
多宝塔の横から、上の丹生官省符神社に向かって急階段を上がる。
中ほどに、高野山町石道の始まりである180町石が立っている。
町石は、鎌倉時代に立てたもので、この先1町(約109m)ごとに続
き、高野山の中心、壇上伽藍の根本大塔に向かって、ひとつずつ数
が減って行く。
慈尊院から119段の石段を上がると丹生官省符神社。空海が慈尊
院を創建のとき、その鎮守社として祭ったもの。社殿は室町末期の建
立で、国の重要文化財に指定されている。
ご朱印をお願いしたら、地元特産の富有柿のお接待をいただいた。
179町石の横から高野山へ向かう町石道に入る。緩やかに上って
池の横で車道を横断、柿畑の間を右カーブして行くと、高度が上がり
九度山や橋本市街の展望が広がる。
間もなく展望台があり、北方や東方の川や橋本の町並みが一望で
きる。しかしやや霞んでいて、遠くの山並みは見えにくい。
展望台周辺の斜面は柿畑が広がり、町石も畑の隅に立っていた。
柿の収穫はほとんど終わったようだが、ここには収穫した柿が少し
だけ置いてあった。
穏やかな日和で11月とは思えぬ暖かさ。さらに進むと、川沿いに
広がる西側の町並みも見下ろせるようになった。
雨引山(477.3m)への分岐を過ぎ、杉やヒノキの樹林下となり
展望は利かなくなったが、傾斜は緩んだ。
144町石と並んで一里石が立っている。一里石は、慈尊院からの距
離(36町)を示している。
ちょっとだけ切り開かれた六本杉峠を過ぎ、樹林下の歩きやすい土
の道が続く。
上古沢駅への下り道となる古峠は、気づかずに通過し、二つ鳥居に
出た。弘法大師が建立したと伝わる鳥居は、二つとも高さ約6mの花
崗岩製。記録によれば、南西に下った丹生都比売神社の鳥居とされ
るという。
鳥居の手前にある展望台の東屋からは、その神社のある天野の里
の静かなたたずまいが見下ろせる。
前回は、ここでMさんと昼食をしたのだが、少し早いので先に進む
ことにした。
鳥居の先から下って行くと紀伊高原ゴルフ場沿いとなり、応其(おう
ご)池の横を通過して神田地蔵堂に出た。
地蔵堂は、横笛が出家後、滝口入道にひと目会いたい女心から、
時々歩を運んで待ったと伝えられているところとか。堂内には、弘法
大師、子安地蔵、それに応其上人が祭られているという。
戸数わずかな神田集落が展望できる気持ちよい芝生で、先行の3、
4グループが昼食中だったので、私もその隅にシートを広げ、暖かい
日差しを浴びながら柿の葉寿司を食べた。 (続く)