国吉駅前では模擬店が並び弁当やお菓子などが売っていて盛況となっていた。
その中でフェリー乗り場までの道中に軽く食べられるものを物色していると
ポップコーンが目についた。
これなら車内でも食べられそうだ。
父に帰りのクルマの中でポップコーンでも食べる?と聞いてみると
『うん、食べたい!』
なんだか子供のような返答が気になりながら再び売り場に戻って
買おうとするとお店のおじさんが
「お!さっき古いクルマで入ってきたオトコマエのお兄さんだ!」
やあねぇ~、男前なんて初めて言われましたわよ(笑)
「えらいオトコマエがやって来たなぁと思っていたんだよ。最後の残り二つなんだけど二つ買わない?」と言われて
素直に二つお買い上げしてしいました(笑)
食べてみると確かにおいしいポップコーンだったので一つはお土産用に買って正解。
その日の夜は職場のバイトさんの送別会があったので早めに帰らなくてはならず
もっと居たかったけど国吉駅を後にしました。
帰路、フェリー乗り場まで目指すコルトの中では助手席の父が
ポップコーンの袋を抱えポリポリ、ポリポリと食べていた。
その姿に小学生の頃に家族でコルトで旅行した時を思い出す。
兄弟3人はリアシートでスナック菓子を食べていて
父は当然ハンドルを握っているので食べられない父が子供心にカワイソウと思い
時折手を伸ばし「おとうさん!」と言ってお菓子を差し出した
ちょっと横を向きそれを咥える父。
あの時も同じコルトだったな。
今、私がハンドルを握り隣で父がポップコーンを子供のように食べている。
夕暮れの山道をコルトは快調に走っていった。
翌日、父から「あぁ、昨日はありがとうな」と言われた。
特に感激したような姿は見せず普段通りの父だった。
昨日の子供のような姿は何だったのだろう?
それから2年して父が亡くなった。
いすみでの事で思うところがあった。
その数年前から父に「お前今いくつになった」と聞かれる事が2回位はあった。
「~歳だよ?」
『そうか、俺の親父の死んだ歳の頃なんだな』
祖父は酒の飲みすぎが原因で早く亡くなったそうで43、4歳だったと聞いていた。
『この位の歳だったんだなぁ』と、私の姿を見て感慨深げに言うのだ。
その時は何にも思わなかったのだが…
『あれ買って』『これも食べたい』『うん、食べる』
あの国吉での父は私に祖父を重ねていたのでは…
父の幼い頃に亡くなってしまった祖父
そうだ きっとそう…
父が訪れたくても訪れてはならなかった国吉。
最後に連れて行けて良かったと思います。
でもそれはいすみ鉄道が今のような姿となりイベントが開かれたから。
鳥塚社長がいすみ鉄道に来ていなければ私達親子は訪れておらず
父が国吉に行く事は無かったのだ
人は本人の預かり知らない所で誰かの役に立っている
鳥塚社長 本当にありがとうございました。
きっとまたどこかの町で多くの人を笑顔にさせて下さい。
鉄道だけの赤字黒字ではなく町全体が潤うような鉄道を再び・・・
【終わり】
鳥塚前社長の新ブログはこちら
私の記事でさまひさんが動いたとは…
驚きました。
子供の頃のイベントにお父様と再び行けたら良かったですね。っていうか行って欲しい!
>>歯が痛いから~
あ~、音が響くんですね(汗
>>まあそんなもんですよね
あれ?そういえば私もそんな事があったな?
なんて浮かびました。
せっかく誘ってみたのに
なんて憤慨した事がありました。
そうです、そんなもんですよね(笑)
実はこの演習、私にとって、幼少の頃、家族で行った思い出の一つに他ならず、今回40年ぶりにそんな話しをするのも悪くないと思い、この記事にも背中を押されて実家に電話してみました。
結果、歯が痛いから行かないと断られました(笑)
まあそんなもんですよね。でもこの気持ちを忘れずにいたいと思います。
お待ちしておりました。
まにまにカレチさんなくしていすみ鉄道への道はありませんでした。
「雑誌にこんな宿が載っていたけど行かない?」と
誘われたのがきっかけでしたね。すぐに本屋に行って本を探しました。
クルマでは無いので飲んでばかりいたのが想い出です(笑)
レールバスの運転手さんとのやり取りも懐かしい。
国吉の叔母さんのお話しは聞いた事がありましたが詳細は知らなかったので書き込み頂きありがとうございます。そうでしたか疎開で国吉へ。
それもお父様の関連で繋がりとは。
>>父親の妹(叔母さん)が「国吉」に反応したのです。
いいですね!その瞬間を想像してしまいます。
>>「国吉」は、縁があるんだなぁと感じたのです。
いやぁ、お互いに縁があったんですね。なんかすごい事だと思います。
>>二人にゆかりのある地へのお導きだったのですね。
あ…そうですね。導かれたのかもしれませんね(涙)
私の父親の四十九日が済んで、体も、気持ちも少し落ち着いた2010年春、職場の休憩室にあった一冊の週刊誌を手に取りました。
今考えると不思議なんですが、私が休憩室の週刊誌を広げる事なんてほとんどないのです。
なぜか手に取ってパラパラと流し読みすると、趣のある旅館の写真が目にとまりました。
「大屋旅館」それはいすみ鉄道大多喜駅近くにある古い旅館でした。
これを見た私は、熱海の「福島屋」さん風だから、彩雲さんを誘ったら喜ぶだろうなぁと・・・
お誘いしたら、珍しく二人の休みが合う日があり、行くことになりました。
わたしと彩雲さんが旅に出るなら 当然旧車で行くはずなんですが、いすみ鉄道はまだ乗ったこともなかったし、マニアの公募社長が就任して話題になっているから、これを絡めて行ってみようと鉄旅になったのです。
久里浜からフェリーで千葉県にわたり、小湊鐵道といすみ鉄道で大多喜向かい、大多喜の大屋旅館に泊まるコースでした。
この時乗ったいすみ鉄道は、鉄道マニア的には面白味のないレールバスだったんですが、乗客は私と彩雲さんだけで、これが旧型気動車ならいいんだけどねぇなんて言ったいたら、その数か月後、元国鉄のキハ52形が来ると言うことが発表されたのです。
これを受けて、旧車とのコラボイベントをやりませんかといすみ鉄道の社長にメールを出したら、「それ、面白いじゃないですか、やりましょう!」とすぐに返事が来て、以来私はいすみ鉄道に通うようになったのです。
彩雲さんの不思議な話があった後、わたしにも同じような不思議な事が起こったのです。
私の父親の納骨で集まった親戚との話の中で、最近いすみ鉄道の国吉に通っていると言ったら、父親の妹(叔母さん)が「国吉」に反応したのです。
よくよく聞いてみると、国吉は戦時中私の父親の母(祖母)が体を悪くして疎開していたところで、一緒に疎開した叔母さんが、夜遅く初めて国吉駅に着いたら、駅長さんに「女2人の夜道は危ないから駅に泊って行きなさい」と言われた思い出の駅だというのです。
話をしていくと戦後疎遠になっていて、今はどうなっているのか気になるので行ってみたいと言うことになり、2014年の「みんしあ」の時、おばさんと いとこで訪問して「神置」と言う地区しかわからないところ、奇跡的に疎開していた家の今の住人に巡り合い、当時はここにお風呂があったとか、いろいろ話が出来たと非常に喜んでいました。
私の祖母が国吉に疎開していたなんて、まったく知らなかった事実がわかり、この「国吉」は、縁があるんだなぁと感じたのです。
彩雲さんとの偶然出かけたあの旅が、二人にゆかりのある地へのお導きだったのですね。
やはり子供に戻っていたんですよね。
すぐに書こうと思いきや6年が経ってしまいましたがあの時に書いていたらこのような内容ではなかったでしょう。
新社長になってから同じような祭りが出来るのか心配です。
今回もよいお話をありがとうございました。
このときは、ご尊父にとって子供に戻れる場所だったのでしょうね。
街がイベントでざわめいていて、祭りは懐かしい想いに還るおまじない。旧いクルマたちの存在も効果的に作用したのではないでしょうか。
ずっと心残りだった地を、親子で訪れることが出来てよかったですね。
悔いのない人生をご尊父は送れたと思います。
息子さんがポップコーンを二つも買ってくれましたし(笑)
コメントありがとうございます。
いつか書きたいと思っていましたが
かなり時間が経ってしまいました。
私自身懐かしく、いい思い出です。
じーんときました。